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第六話 待合せ

土曜日の朝、駅へと続く坂道を駆け下りる俺の鼓動は、不規則で騒がしいリズムを刻んでいた。

なぜ走っているかというと寝坊したわけでは無い。

家を出る三十分前、俺は玄関先でかつてないほどの危機に直面していた。


「兄貴、まさかその格好で行くとは言わないよね?」

「え?」


呼び止める声に振り返ると、湊が車椅子のハンドリムを器用に操り、呆れ果てたような、あるいは憐れみすら含んだような目で俺を凝視していた。その視線は、俺が自信満々に袖を通したばかりの、お世辞にも洒落ているとは言えないヨレヨレのTシャツに向けられている 。


「……何が悪いんだよ。遊園地なんだから、動きやすいのが一番だろ」

「一番なわけないでしょ。今日はデートなんだよ? 彼女さんはきっと、最高に可愛い格好をしてくるはずなのに」

「彼女じゃない」


俺のその返答に湊はため息をつき、「ちょっと待ってて」と自分の部屋へ引き返した。戻ってきた彼の膝の上には、一着のシャツが乗っていた。


「これ、貸してあげる。かあさんが『蓮に似合うから』って前に置いていったやつ。本当は僕が着ようと思ってたけど、今日の兄貴にはこれが必要だよ」


湊から手渡されたのは、爽やかなサマーニットだった。弟は笑いながら、「行ってきなよ」と俺の背中を叩いた。兄が二年前の事故以来、初めて自分のために誰かと出かけようとしていることを、彼は誰よりも喜んで、その背中を力強く押し出してくれたのだ 。


九時ちょうど。

待ち合わせ場所である駅前の噴水には、初夏の陽光を全身に浴びた陽葵が立っていた。白いワンピースの裾が風に踊り、いつものインスタントカメラを首から下げたその姿は、琥珀色の図書室にいた時とはまた違う、眩いばかりの輝きを放っている 。


「陽葵!」


俺は大きく手を振って駆け寄った。陽葵は持っていたノートからゆっくりとこちらに顔を向けた。長い髪がふわりと揺れ、ビー玉のように透き通った瞳が俺を捉える。

しかし、近づいた俺の顔をまじまじと見つめると、彼女はどこか戸惑ったように眉を寄せた。


「……あの、蓮君、ですか?」


 その声には、確信の持てないような、不思議な響きが混じっていた。


「え……?」


俺が思わず呆気にとられて声を漏らすと、彼女は一瞬、ハッとしたように目を見開いた。そして、すぐに顔を上気させ、いつものように花が綻ぶような笑顔を浮かべた。


「あ、ごめんなさい! いつもと雰囲気が違って、別人みたいにカッコよかったから……一瞬、気づきませんでした」

「なんだ、驚かすなよ。……そんなに変わったか?」

「ええ、とっても。……似合ってます、その服」


 彼女は少し照れくさそうに視線を逸らし、ワンピースの裾を弄んだ。俺は彼女の言葉を額面通りに受け取り、内心で湊に感謝しながら、少し浮き足立つような心地で歩き出した。陽葵が覚えていてくれた。その事実に、俺の胸の奥に潜んでいた小さな不安は、初夏の光の中に溶けて消えていった。


「瀬戸さんもワンピース似合っているよ」

「あ、ありがとうございます」

「それじゃあ、行こっか」という俺の言葉に、陽葵は「はい!」と元気よく頷いた。道中の電車内でも、陽葵はいつになく熱心に話を振ってきた。学校での出来事や、最近読んだ本の話。その淀みのなさに、俺は確信を深めていた。昨日の続きを一緒に歩けているのだと。

揺れる車内、陽葵がふと思い出したように俺の顔を覗き込んできた。


「そういえば、弟さんは大丈夫でした? 急に遊びに行くことになっちゃって」

「ああ、湊のことか。全然大丈夫だよ」


俺は今朝の光景を思い出し、口角を緩めた。


「最初は少し驚いてたけど、事情を話したら『たまには羽を伸ばしてこい』って、むしろ追い出されるみたいに送り出されたよ」

「そっか……。よかった。秋月君、ずっと弟さんのことを大切にされてるから、私のわがままで迷惑かけちゃってないか、きょう……昨日の夜からずっと気になってて」


陽葵は安堵したように胸をなでおろした。その気遣いに、俺の胸の奥が温かくなる。彼女は昨日、図書室で俺が湊の話をしたことを、ちゃんと細部まで覚えていてくれたのだ。


「気にしなくていいよ。……むしろ、湊には感謝してるんだ。あいつがああやって笑って送り出してくれなかったら、俺は今でも、自分だけが楽しむことに臆病なままだったと思うから」

「蓮君……」

「だから今日は、湊の分まで楽しまないとな」


俺がそう言うと、陽葵は少し照れくさそうに、でもとても嬉しそうに微笑んだ。その表情は、図書室の琥珀色の中で見たときよりもずっと鮮やかで、生命力に満ちていた。

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