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第五話 約束

放課後の図書室は、世界から切り離されたような琥珀色の静寂に包まれていた 。 窓際の席に座る陽葵は、いつものインスタントカメラを愛おしそうに、まるで壊れやすい宝物に触れるような手つきで撫でながら、俺が来るのを待っていたようだった 。


「あ、蓮君。お疲れ様」


彼女の柔らかな声が、静かな室内に溶ける。その笑顔に、今朝の「ちゃーんと覚えてるよ」というが本当だと改めて実感して、俺の胸の奥に澱んでいた不安が静かに霧散していった 。

俺が隣の椅子を引くと、陽葵は真剣な、どこか切実さを孕んだ眼差しでカメラを手に取った。


「蓮君。今日はね、まずあなたの写真を撮らせてほしいの」

「俺の? なんでだよ、柄じゃないって」

「ダメ。明日の私が目覚めたとき、一番に確認しなきゃいけないのは、私の『バックアップ』であるあなたの顔なんだから。昨日みたいに忘れちゃったら私もあなたも嫌な気持ちになるから。それに……このノートに書かれた文字だけじゃなくて、蓮君のその表情を、私の脳の代わりにこのフィルムに焼き付けておきたいの」


彼女は譲らなかった。レンズを向けられ、俺は仕方なく視線を泳がせる。西日に目を細め、不器用そうに口角を上げた一瞬―― 。


――カシャッ。


乾いた音が響き、白いフィルムが吐き出される。陽葵はそれを大切そうに眺め、色が浮かび上がるのを待った。そこに映ったのは、戸惑いながらも彼女を優しく見守る、俺自身の顔だった。


「……いい顔。これでよし。でもね、もう一枚」


陽葵は今度は、椅子を俺の方へぐいと寄せた 。肩が触れ合い、彼女の体温が鼻腔をくすぐる。


「次は、ツーショット。……私の今の気持ちも、忘れたくないから」


彼女は自撮りの距離でカメラを構え、俺の腕にそっと手を添えた。


「今の私は、蓮君の隣にいると、こんなに心が温かいんだって。……それをいつかの私に、文字以上の温度で伝えてあげたいの。忘れたくない、この気持ちごと」


その言葉は俺には嬉しくもあり悲しくもある言葉だった。俺が彼女にとってそんな存在になっていた事への嬉しさと、忘れられてしまうかもしれないという現実とのギャップに少し戸惑いながらも俺は返事をした。


「……わかったよ。撮ろう」


俺は彼女の細い肩に腕を回し、ファインダーの中の二人の姿を見つめた。


「三、二、一……」


――カシャッ。


また一枚、新しい記録が生まれた。写真の中で、陽葵は今日一番の、そしてこれまでで最も鮮やかな笑顔を見せていた 。その隣で、俺は相変わらず不器用な表情をしていたが、その瞳には確かな熱が宿っていた。

陽葵はノートに震える手で言葉を添えた 。


『秋月蓮君。この人の隣にいる時の私は、こんなに笑っている。忘れても、この笑顔が嘘じゃないことだけは信じて』


夕陽が沈み、図書室に長い影が伸びる。


「……ねえ、蓮君。今度の土曜日、暇?」

「土曜日は……」

「何か予定ある?」


言葉が喉の奥で、ひどく苦い塊となってつかえた。

予定があるかないかと言われれば、明確な先約があるわけではない。しかし、高校に入学して以来、土日祝日に友人からの誘いに乗って遊びに出かけたことなど、ただの一度たりともなかった。

それは、俺に友達がいないからではない。理由のすべては、家で俺の帰りを待つ弟、湊の存在にある。二年前の事故以来、湊の足は自由を奪われた。俺が外で同年代の連中と笑い合い、青春なんて言葉を享受している間、弟は車椅子という狭い世界で不自由な生活を強いられている。そんな彼を一人にしてまで、自分の楽しみを優先させることなど、俺の罪悪感が許さなかった。


「土曜日は、湊の世話があるんだ。俺じゃなくて、他の友達と行きなよ」


俺は努めて淡々と、事務的な響きになるよう言葉を選んで返した。期待させてから突き落とすよりは、最初から壁を作った方が彼女のためだと思ったからだ。しかし、陽葵は否定されたことにショックを受けた様子もなく、ただ膝の上で細い指先を所在なげに弄んだ。窓から差し込む斜陽が、彼女の横顔を寂しげに、そして透き通るような白さで縁取っていく。


「……友達、か。この病気のせいでね、私、あまり人と深く関わらないようにしてるの。仲良くなっても、ある日突然その人のことを、その人との時間を、全部忘れちゃうのが……怖くてたまらないから」


静かな図書室に、彼女の独白が染み込んでいく。


「だから、学校帰りにどこかへ寄り道したり、休日に友達と遊びに行ったりしたことなんて、今まで一度もないんだ。私の学生生活の思い出と言ったら、机に向かって教科書を開くことばっかり。勉強した知識なら、自分のことだから脳が『毒』だなんて判断しないでしょ? だから、どれだけ覚えても忘れないの」


陽葵は自嘲気味に、どこか遠くを見るような目で微笑んだ。


「勉強のノートは、努力した分だけ、積み上げた分だけ山になっていく。でもね、私の『思い出』は、ずっと薄いままなの。……寂しいよね、もう高校二年生なのに」


彼女は再び、俺の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。そのビー玉のように透き通った瞳の奥には、かつての俺が湊の事故の直後に抱えていたものと同じ、深い孤独と、出口のない渇望が混ざり合っていた。


「だから、蓮君。あなたに、この記録を分厚くするのを手伝ってほしくて。文字だけじゃなくて、写真とか、潮風の匂いとか……そういう五感で感じる温度で、私のノートを埋め尽くしたいの」


そこまで真っ直ぐに、魂を削り出すような声で頼まれて、断れるはずがなかった。 俺の脳裏に、今朝「行ってらっしゃい」と笑顔で俺を送り出してくれた湊の顔が浮かぶ。 あいつならきっと、俺がこんな顔をして悩んでいるのを見たら、「たまには羽を伸ばしてこいよ、兄貴」と、お節介なほど明るく背中を押すだろう。


「……分かった。湊のことは、慎吾に頼んでみるよ。あいつなら、文句を言いながらも喜んで引き受けてくれるはずだ」

「本当? ……嬉しい。ありがとう、蓮君」


陽葵は、今日一番の、そしてこれまでで最も鮮やかな、陽光のような笑顔を見せた。


「じゃあ、土曜日。朝九時に駅前で。楽しみにしてるね」

「ああ、約束だ」


俺たちは図書室を後にした。

俺の心はまだ見ぬ土曜日の景色を待ちわびるように、静かに呼吸しているような気がした。

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