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第二話 忘却

枕元で鳴る目覚まし時計をまだ開かない瞼のためにノールックで止める。両手を上に大きく伸ばし無理やり目を覚ます。時刻は六時半。

顔を洗い、制服に着替え俺は朝ごはんの支度を始める。慣れた手つきで卵を二つ割り、ウインナーも同時に焼く。沸かしておいたお湯でインスタントの味噌汁を作る。

約二年間も続けていると何事も精錬されてくる。


「湊、朝だぞ。起きろー」


俺はリビングの一角をふすまで仕切られただけの、弟の部屋を訪ねて起こしに行く。


「今日は自分で起きられるか?」

「いや、手伝って」


そう言われ俺は、まだ布団にくるまって芋虫のようになっている湊の脇に手を差し込んだ。ぐいっと上体を抱き起こすと、湊は寝ぼけ眼で「うぅ……」と声を漏らしながら、俺の肩に額を預けてくる。俺は「せーの」の掛け声でそのまま今度は湊を車椅子へ移す。


「よいしょ……っと。ほら、ちゃんと座れよ」


車椅子のフットレストに湊の足を乗せ、俺は手慣れた動作で彼の姿勢を整える。二年前の事故以来、これが我が家の日常だ。


「兄貴、今日のご飯なに……?」

「目玉焼きとウインナー。それと、いつものインスタントの味噌汁だ。文句言うなよ」

「言わないよ。兄貴が作るの、結構好きだし」


湊は車椅子のハンドリムを自分で回し、食卓へと向かう。俺はその背中を追うようにリビングへ戻った。


「ほら、シャキッとしろ。焦がしてないからウインナーはまだ美味いはずだぞ」


朝食の席についても、湊の動作はどこか緩慢だ。箸を動かしながら、ふと窓の外を眺める。雲ひとつない快晴。昨日の図書室で見た、あの透き通るような陽光が今日も降り注いでいる。

テレビから流れるニュースの音だけが響く。ふと、湊が箸を止めて俺を見た。


「……兄貴、なんかいいことあった?」


味噌汁をすすりながら、湊が怪訝そうにこちらを見ていた。


「別に、何もないよ。なんでだ」

「いや、いつもよりトースト焼くのが丁寧だった気がして。あと、なんか……考え事してる顔」


中学生のくせに鋭い奴だ。俺は「気のせいだ」と短く返し、皿に残った目玉焼きを口に放り込んだ。

考え事をしていないと言えば嘘になる。 頭の中には、昨日出会った少女――瀬戸陽葵がこびりついて離れない。

『私が今日、誰を忘れたのか』

彼女の脳が「毒」として処理した記憶。それを俺が柄にもなく肩代わりすると宣言した。弟の事故以来、過去なんか思いでなんか意味がない。過去を悔やんでも今は変わらない。そう思って生きてきた俺がつい出てしまった言葉。

青臭い正義感だったかもしれない。彼女にとっては有難迷惑だったかもしれない。

けれど、登校する間も、校門をくぐって昇降口へ向かう間も、俺の心臓は昨日の放課後からずっと、不規則なリズムを刻んだままだ。


(今日も、あそこにいるんだろうか。それとも、教室で普通に過ごしてるのか……)


二年生のフロア、黄色い校章。 彼女を探して、俺はいつもより少し急ぎ足で階段を駆け上がった。 昨日、彼女は俺の名前を聞いて笑った。「秋月蓮」という名前を、彼女の記憶のフォルダに少しでも残せていたら。そんな淡い期待を抱きながら、教室前の廊下を曲がる。

そこに、彼女はいた。

友人らしき数人と談笑している。朝の光を浴びた彼女は、図書室で見せたあの消え入りそうな雰囲気とは対照的に、ごく普通の、どこにでもいる女子高生に見えた。

俺は無意識に足を止めた。 彼女がこちらに気づく。目が合う。 昨日と同じ、ビー玉のような瞳。

俺は努めて自然に、昨日「約束」した友人として、片手を軽く挙げて彼女に近づいた。


「瀬戸さん、おはよう。昨日――」


しかし、俺の言葉は最後まで続かなかった。 彼女の表情から、さっきまでの和やかな笑みがふっと消えたからだ。 彼女は、首を小さくかしげた。その瞳に宿っているのは、親愛でも拒絶でもない。 ただ、見知らぬ通行人に話しかけられた時の、純粋

で、冷ややかな困惑だった。


「……えっと。……あの、あなたは、どなたですか?」


廊下を吹き抜ける風が、彼女の長い髪を揺らす。 昨日、俺の記憶のシャッターを切ったはずのあの光景が、今はただ、ひどく残酷に俺を突き放していた。

現状を受け入れられない俺はただそこに佇んでいた。そんな俺を見て気持ち悪がったのか、彼女は一緒に話していた友達と一緒にそこから去ってしまった。


「蓮、おはよ」


そんな爽やかな声とともに、俺の重く沈んだ肩にさらに重いものが圧し掛かってきた。


「どうしたの、そんなとこで一人佇んじゃって。早く教室行かないと遅刻になっちゃうよ」

「慎吾か。いや、別に何でもない」

「……何でもないって顔じゃないだろ。今の、瀬戸さんだろ? 二組の。お前、あの子と知り合いだったっけ?」


 慎吾は俺の顔を覗き込み、不思議そうに首を傾げた。


「蓮が自分から女子に声をかけるなんて珍しいからさ。でも、あんなに露骨に不審者を見るような目で見られるとはな。お前、何か恨まれるようなことしたのか?」


 慎吾の言葉を、俺は半分聞き流していた。

恨まれるようなこと。……いいや、そんなはずはない。俺たちは友達とは言えないかもしれないにしても、知り合いにはなったはず。

 それが、一晩明ければこれだ。完全にリセットされた、他人を見る目。  

(――本当に、一片も残ってないんだな)

 あいつの脳は、寝ている間に俺という存在を『毒』だと判定して、綺麗さっぱり吸い出した。ショックはあった。けれど、その冷たい拒絶は、同時に俺にある確信を与えた。


「瀬戸さんの脳が、俺を消去対象に選んだってことは、それだけ昨日の俺が、あいつの心を動かしたって証拠だよな。それに……」


 ぽつりと漏らした言葉に、慎吾が「ん?何か言った?」と怪訝な顔をする。


「お前、朝から何言ってんの。脳?消去? 昨日の数学の公式でも忘れたのかよ」

「……いや、こっちの話。行くぞ、予鈴鳴る」


 俺は慎吾の腕を振り切り、前を向いて歩き出した。一度忘れられたくらいで、何を立ち止まっているんだ。俺は昨日、全部保存して復元してやると大口を叩いたはずだ。あいつが何度忘れても、その度に昨日より面白い『初めまして』を届けてやればいい。

あいつが『誰を忘れたのか分からない』と泣かなくて済むように。

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