第十話 幸せ
桜の華やかさが遠い記憶となり、校庭の木々が力強い深緑へと色を変えた五月の末。
あの日から、数週間の月日が流れた。
校門へと続く坂道には、初夏の眩しい陽光が降り注いでいる。
昇降口で慎吾に会うと、あいつは俺の顔を見るなりニヤリと笑った。
「よぉ、蓮。今日で何度目の『初めまして』だ?」
「さあな。数えるのを辞めたよ」
慎吾は「お前ららしいな」と俺の肩を叩き、自分の教室へと消えていった。
かつては弟の事故という過去の泥に足を取られ、人を遠ざけていた俺が、こうして「今」を全力で駆け抜けているのは、紛れもなく彼女に出会ったからだ。
放課後。
琥珀色の光に満ちた図書室の扉を開けると、そこには一冊の分厚いノートを広げた陽葵が座っていた。窓から入り込む風が彼女の髪を揺らし、卓上のインスタントカメラが初夏の陽光を反射している。
陽葵は俺の足音に顔を上げ、一瞬だけ、記憶の深淵を探るように首をかしげた。
それから、机の上に置かれた「記録」に目を落とす。そこには、あの日恋人になった証と、二人が積み重ねてきた数えきれないほどの「幸せ」が綴られている。
陽葵がノートから顔を上げ、花が綻ぶような笑顔を見せた。たとえ脳が睡眠中に俺という存在を「毒」だと判定して排出したとしても、彼女の心は、俺の隣にいる時の温かさを肌感覚で覚えていた。
「……こんにちは。蓮君。ノートを読みました。私、今日も蓮君のことが大好きみた
いです」
彼女はそう言って、俺の隣の席をポンポンと叩いた。
あの日、初めて俺を隣に招き入れた時と同じ。彼女が覚えている訳ないが、あの時の彼女も今の彼女も同じ瀬戸陽葵だと実感させてくれる。
「記憶」が地続きでなくても、「記録」が俺たちを繋いでくれる。
明日、また彼女が俺を忘れてしまったとしても、俺は今日よりももっと面白い「初めまして」を用意して、何度だって彼女を惚れさせるだけだ。
俺は彼女の隣に座ると、二人の距離をぐっと縮めた。陽葵はインスタントカメラを自分たちの方へと向け、レンズが二人を捉えるように構える。
「初めまして、蓮君。今日の私と、また恋をしてくれますか?」
その問いかけに、俺は迷わず、けれどこれまでで一番の笑顔で答える。
「ああ。何度でも」
俺が答えた瞬間だった。陽葵がふいに顔を近づけてきたかと思うと、柔らかな感触が俺の頬に触れた。
カシャッ、という乾いた音が図書室に響いた。
不意打ちのキスに、俺は顔が熱くなるのを抑えられなかった。吐き出されたフィルムに浮かび上がるのは、真っ赤な顔をして固まった俺と、それを見て悪戯っぽく、けれど最高に幸せそうに笑う陽葵の姿。
記憶は失われ、記録だけが積み重なっていく。
けれど、この一枚の写真に刻まれた熱は、これから高校生活で築いていく、眩いばかりの「未来」への確かな希望だった。
窓の外には、抜けるような初夏の青空がどこまでも広がっていた。
fin
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう。




