第一話 出会い
桜の花も華やかさを失い始めた四月の終わりの放課後。
学年が変わった新鮮さも感じられなくなり始め、慣れとダルさが一気にやってくるこの時期に俺は、一人の少女に目を奪われていた。
図書室の開いた窓から入り込んでくる風が、彼女の長い髪をなびかせるのと同時に、露わになるその白い肌がより彼女を際立たせる。その顔に流れる一筋の涙をも感じさせないほどに。
この瞬間を忘れないために、収めるために写真というものが発明されたのだと実感する。しかし、手元にはスマホもカメラの類は無く、俺は記憶という写真フォルダに残すためただただその風景を黙って眺めた。
これが一目惚れってやつなのだろう。
恋というものをあまり経験してこなかったせいか、こういう時にどうすればいいか全く見当が付かない。近づきたいけど、近づきたくない。そういう矛盾した気持ちを胸に抱えながらその風景を眺める。
どれくらい、そうしていただろう。 ふと、風が止んだ。なびいていた髪が彼女の肩に静かに降り積もり、それと同時に、彼女の視線がゆっくりとこちらへ向いた。
目が合う。
心臓が、今まで経験したことのない不規則なリズムを刻んだ。
彼女は、頬を濡らしていた涙を拭おうともせず、ただ不思議そうに僕を見つめている。その瞳はビー玉のように透き通っていて、けれど、どこか焦点が合っていないような、危うい空虚さを孕んでいた。
「……あの」
先に沈黙を破ったのは、彼女だった。鈴の音を転がしたような、けれどひどく心細げな声。その声で、自分も我に返り、何のために図書室に来ていたのかを思い出す。
「あ、ごめん。……返さなきゃいけない本があったのを思い出して。ずっと見てたわけじゃないんだ、怪しいもんじゃないから」
咄嗟に出たのは、情けないほどありきたりな言い訳だった。彼女は俺の言葉を聞いているのかいないのか、濡れた瞳を何度か瞬かせた。そして、机の上に置かれた一台のインスタントカメラを、まるで見知らぬ落とし物でも見るような手つきでそっと指先でなぞる。
「……あの、あなたは……私のことを、知っていますか?」
その問いは、あまりに突拍子もなかった。ナンパの誘い文句にしては切実すぎるし、隠れん坊の続きにしては彼女の表情が硬すぎる。
「いや、名前も知らない。……ただ、校章が黄色だから同じ二年生だってことくらい」
「そうですか。……よかった」
そう呟いて、彼女は張り詰めていた糸が切れたように椅子へ深く沈み込んだ。その安堵は、不審者に正体を知られなかったことへの安心というよりは、「自分の知っている誰か」がそこにいなかったことへの、ひどく奇妙な安堵に見えた。
「分からないんです。私が今日、誰を忘れたのか」
その言葉は、放課後の静かな図書室に、あまりにも不自然に溶け込んだ。そうして彼女は言葉を続ける。
「感情選択型記憶欠落症って知ってますか?」
唐突に投げかけられたその言葉は、まるでどこか遠い国の寓話に出てくる名前のようだった。医学用語にしては情緒的で、けれど彼女が口にすると、それは呪いのような響きを持って俺の耳に届く。
「……いや、聞いたこともない」
「そうですか。……ですよね」
彼女はそう言いながら、鞄の中から一冊の本を取り出した。
そして、彼女の隣の席の椅子を引き、ここに座ってとポンポンと叩く。促されるまま、俺は彼女の隣に腰を下ろした。
開かれた本には「感情選択型記憶欠落症について」と書かれていた。
書かれていた内容は簡単にはこうだ。
感情選択型記憶欠落症(Emotion-Selective Amnesia : EmSA)とは、脳が過度な精神的負荷を回避するために、特定の感情を伴う記憶を強制的に消去する希少な記憶障害のこと。
この病気において、脳は強い感情を、生命を脅かす“毒”であると誤認し、心が大きく動かされたとき(激しい喜び、深い悲しみ、切実な恋心など)、脳はそのエネルギーによるオーバーヒートを防ぐため、睡眠中にその感情の原因となった「対象(人物や出来事)」に関する記憶をすべてリセットする。
治療法は現在見つかっていない。
今この瞬間、さっきまでの彼女の涙、発言が全て意味を持つ。
「……つまり、さっき君が泣いていたのは」
「はい。私は昨日、誰かと出会って、その人を忘れたくないと思うくらい……心が動
いたはずなんです。でも、朝起きたら、その人が誰だったのか、何をしたのか、全部消えていました。残ったのは、理由の分からないこの涙だけ」
彼女は自嘲気味に笑い、手元のインスタントカメラを愛おしそうに撫でた。
強い感情を「毒」と見なす脳。大切に想えば想うほど、その存在ごと消去されてしまう残酷な仕組み。昨日までの自分を奪われ続ける彼女の孤独を思うと、喉の奥が熱くなった。
「だったら、俺が覚えておくよ」
俺の口は、脳が止めるより先に動いていた。
彼女が、弾かれたように顔を上げた。
「君が何をしていたか。どんな顔で笑ってたか。俺が全部、記憶の写真フォルダに保存しといてやる。……君の脳が勝手に消したって、俺が何度でも復元してやるよ。だから、もしまた分からなくなっても、俺に聞けば大丈夫だ」
自分でも、何を無責任なことを言っているんだと思う。他人の「今」を背負うなんて、俺らしくもない。けれど、西日に照らされた彼女の涙があまりに綺麗で、それを「なかったこと」になんて、どうしてもさせたくなかったんだ。
「でも」
「大丈夫、記憶力には自信がある方だ」
俺が自分の頭を指さし笑いながらそう言うと、少しの間を開けた後、彼女はクスクスと笑った。その笑顔に俺の心臓がまた波打つのを感じた。その感情を隠すため俺は慌てて言葉を紡いだ。
「な、何がおかしんだよ」
「変な人だなと思って。そんなの、あなたに何のメリットもないのに」
彼女は、涙の跡を残したまま、再びふにゃりと幼く笑った。儚く消えそうだった彼女の姿はどうしてか再び光り輝いているように見えた。
「私は、瀬戸陽葵。……あなたは?」
「秋月蓮」
それが、僕たちの歪な関係の始まりだった。
この時の俺はまだ知らない。彼女にとって「感情が動くこと」が、どれほど大きなリスクを伴うのか。
そして翌朝、廊下で彼女の元へ駆けつけたとき。昨日よりもずっと冷たく、透き通った声で、こう言われることになるなんて。
『――あの、あなたは、どなたですか?』
十話完結です。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




