君を知らないまま、君を想っている
息を吸うたび、胸の奥で何かが擦れる音がする。痛みというより、もう壊れかけた道具を無理やり使っている感覚に近い。
あぁ、もう長くないな……
妙に冷静な頭で思っていた。
天井の染みを、何度も数えた。
意味なんか特にない。ただ、意識を繋ぎ止めるための作業すぎないからだ。
眠ってしまえば、たぶん、そのまま戻れなくなる。
それでも、俺は目を閉じたくなった。
身体が重い。
指先に力が入らない。
呼吸をするたびに「次はないかもしれない」なんて予感が、じわじわと脳内で濃くなっていく。
――もう一度だけ、◯◯◯に会えたら。
そんな都合のいいことを、考えてしまう自分が嫌だった。
今さらだ。
今さら、何を言うつもりなんだ。
嘘をついた。
戦争のことも、身体のことも。
店を閉める理由も、冬を理由にしたあれこれも。
守るためだった、なんて言い訳は簡単だけど、本当は違う。
怖かっただけなんだ。
知られて、失うのが、とにかく怖かったんだ。
こんな意味もない思考を巡らせていると、なにか扉の向こうで、足音がした気がした。
最初は、ただの幻聴だと思った。
ここ最近、そういうことが増えていたから、寝てもいないのに、夢を見ている感覚に襲われる。
でも――
空気が……変わった。
説明のつかない、でも間違えようのない感覚。
ずっと遠くに置いてきたはずの時間が、急にここへ戻ってきたような、そんな──
そこに……誰かが、いる。
◯◯ル
セ◯ル
ただでさえボヤけた頭から、声を出そうとしても、喉がうまく動かない。
それでも、必死に息を集める。
「……セ、シル……?」
自分の声が、ひどく他人事みたいに聞こえた。
壊れかけの器具が、偶然音を出しただけのような。
次の瞬間、視界に彼女が入った。
変わっていない。
変わってしまった気もする。
いや、どちらも本当で、どちらも正しくない。
会えたんだ、ずっとずっと会いたかった人に──それだけで、胸の奥がきしんだ。
嬉しい、なんて感情は、もう追いついてこない。
代わりに押し寄せたのは、
「間に合わなかった」という確信だった。
言わなきゃいけないことが、山ほどある、伝えなきゃいけないことも、たくさん、たくさん……
謝罪も、説明も、後悔も。
でも、どれも重すぎて、口に出す前に全てが崩れ落ちる。
「……久しぶり、だな」
それしか言えなかった。
本当は、もっと……もっと言うべきことが、違う言葉を用意していたはずなんだ。
彼女の返事は、俺の一言よりも短かった。
それが、余計に胸に刺さる。
責められないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
彼女の手が、俺の手に触れる。
ああ、まだ彼女の温度を感じる。
でも、その温度すら、俺には遠くなり始めている。
「……ごめん、なさい」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で何かが、はっきりと壊れた。
違う、違うんだ!!
謝るのは、俺のほうなんだ……
逃げた、逃げ続けた。
隠した、セシルに何も伝えずに。
でも俺は、都合のいい沈黙を選んだ。
彼女が去った日、
本当は追いかけることもできた。
引き留めることも、説明することも。
それでも、しなかった。
それを『優しさ』だと思い込んでいたんだ。
「……俺も、ずっと謝りたかった」
やっと出てきた言葉は、それだけだった。
それ以上言えば、彼女の前で全部崩れてしまう気がした。
視界が、少しずつ滲む。
天井の染みが、もう数えられない。
息が、浅い。
ああ、これが……終わりか。
「……また、話そう」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
未来なんて、残っていないくせに。
でも、
今ここで終わらせたくなかった。
彼女が頷くのが見えた。
その仕草が、やけに優しくて、残酷だった。
ああ、だめだ。
ここで終わるのか。
伝えられなかった。
好きだったことも。
一緒にいた時間が、救いだったことも。
全部、胸の内側に沈めたまま。
呼吸が、途切れる。
波が、引いていく。
最後に思ったのは
『間に合わなかった』
それだけだった。
それでも――
彼女が、ここに来てくれた。
それだけで、俺はきっと救われた……なんて都合の良いことは言えない。
でも、完全な闇でもなかった。
世界が、静かに遠ざかる。
焼きたてのパンの匂いを、人生の最後と共に、もう一度だけ、思い出そうとして──
──そこで、意識は途切れた。
2025年。
12月の夕方。
もうすぐ、2025年も終わってしまう。
冬休みに入ったばかりなのに、時間の流れだけはいつも通りで、やたらと早く感じる。
俺は自転車を漕ぎながら、なんとなくペダルの重さを意識していた。空気が冷たいせいか、タイヤも少し硬い気がする。
手袋はしてるけど、指先だけはじわじわ冷えてきて、ブレーキを握るたびに違和感があった。
今日は、クリスマスケーキを予約しに行くだけだ。
それだけの用事。
親から『ついでに行ってきて』とおつかいを頼まれて、正直ちょっと面倒だなと思ったけど、断るほどでもない。
どうせ暇だし、家にいてもスマホを見るかゲームをするかのどっちかだし。だったら自転車で少し外に出たほうが、時間も早く過ぎる。
通い慣れた道。
コンビニ、信号、古い駐車場。
冬になると、この道は急に色がなくなる。
木も、看板も、空も、全部くすんで見える。なのに、やたらとイルミネーションだけが目に刺さる。
正直、クリスマスってあんま好きじゃない。
特別な予定があるわけでもないし、クラスで誰かと騒ぐようなタイプでもない。
彼女だっていないし……テレビやネットが勝手に盛り上がってるだけで、俺の日常は何も変わらない。
……いや、何も変わらない、はずだった。
ただ、ペダルを踏み込んだ、その瞬間。
胸の奥で、何かが『引っかかった』
言葉にするなら、つまずいた、に近い。
でも足じゃない、自転車でもない、心臓の裏側みたいな、変なところ。
「……なんだ、これ…?」
思わず声が漏れる。
理由がわからない。痛いわけでもなければ、苦しいほどでもない。
ただ、急に呼吸が浅くなった。
俺は反射的にブレーキをかけ、自転車を止めた。
足を地面につけて、片手でヘルメットの上から頭を押さえる。
なんだ……これ。
貧血?
いや、昼だってちゃんと食べてきたし、お茶も飲んだはず。
寒さ?
いや、厚着だってしてるし、今までだって平気だった。
しばらくそのまま立ち尽くしていると、通り過ぎていく車の音だけがやけに大きく聞こえる。エンジン音、タイヤがアスファルトを擦る音、遠くで誰かが笑ってる声。
全て、現実なのに……いつもと何も変わらないのに。
俺だけ、少しズレてる気がした。
頭の奥が、じんわり熱い。
何かを思い出しかけているような、でも何も掴めない感じ。
――約束
ふと、そんな単語が浮かぶ。
「……はぁ、意味わかんね」
誰との約束だよ。
いつの話だよ。
俺はため息をついて、もう一度自転車にまたがる。
ケーキ屋は、このまま真っ直ぐ行けばいい。道を変える理由なんてない。
なのに。
ハンドルが、少しだけ勝手に傾いた。
俺はそれを、気のせいだと思おうとした。
ただの偶然。
ただの勘違い。
でも、胸の奥の引っかかりだけは、消えなかった。
一瞬、ブレーキを握ろうとして、やめた。
変だと思うのに、止まりたくない。
誰かに押されてるわけじゃない。
引っ張られてる感じとも、少し違う。
ただ「そっちが正しい」と、体のほうが知っているみたいだった。
そこから、住宅街に入ると、急に音が減った。車の走る音も、人の声も遠くなる。
家の窓から漏れる明かりが、点々と地面に落ちている。
(……なんかおかしいだろ、俺)
そう思って、笑おうとした。
でも、口角は動かない。
喉が、やけに乾いていた。
胸の奥の違和感は、もう気のせいで片づけられる大きさじゃなかった。
懐かしい。
そんな単語が、また唐突に浮かぶ。
意味がわからなくて、余計に混乱する。
懐かしいって、何が?
いつの話だよ。
思い出そうとしても、なにも出てこない。
映像も、名前も、声もない。
それなのに――
確かに『何かがある』という感覚だけが、はっきり残っている。
自転車の前輪が、ザク、と音を立てた。
アスファルトじゃない。
柔らかくて、少し沈む感触。
視線を落とすと、薄く積もった雪が、タイヤの跡を残していた。
自然と、息が切れてきている。
(……あ)
いつの間にか、
小さな公園の中に俺は立っていた。
ブレーキをかけて、足をつく。
きゅ、と雪が鳴る。
きっと、除雪が進んでないのだろう。
その音が、妙にくっきり耳に残った。
新品のノートを初めて開いたときみたいに、余計なものが削ぎ落とされた音。
空気が、少し違う。
冷たいのに、澄んでいて。
時間が、ここだけ遅れているみたいだった。
(……なんで俺)
そう思いながらも……
俺は、自転車を押して公園の奥へと足を踏み入れた。
何があるっていうんだ。
ブランコと、滑り台と、誰も使わなくなったベンチくらいしかない広いだけの古びた公園。
昼間なら、子どもの声が少し響いて、夕方には犬の散歩の人が通り過ぎるだけの、どこにでもある公園だ。
正直、特別な思い出があるわけでもない。
小さい頃に何度か遊んだ記憶はある……けど、名前を聞いて懐かしくなるほどじゃないし、写真に残るような出来事もない。
なのに――
胸の奥に引っかかっていたものが、ここに来た途端、嘘みたいに静まった。
探していたわけでも、約束していたわけでもないのに、長い回り道が終わったような感覚だけが残る。
公園の奥。
ゆるやかな丘の上に、一本だけ、大きな木が立っている。
昔からあったはずなのに、こんなに大きかっただろうか、と一瞬考える。
街灯の光を受けて、枝に積もった雪が淡く光っていた。
飾りなんてないのに、クリスマスのイルミネーションのような。
風が吹くたび、雪がわずかに落ちて、空気の中で粉みたいに散る。
時間が、ここだけ少し遅い。
そんな錯覚がした。
その大木の下に――
少女がいた。
立っている、というより、そこに『在る』という言い方のほうが近い。
長い金髪が、冬の風に揺れている。
こんな古びた日本の公園には、どう考えても似合わない色だ。
映画のワンシーンか、ラノベの挿絵が現実に紛れ込んだみたいだった。
なのに──
不自然なのは彼女のほうじゃない。
俺のほうだった。
息の仕方を、一瞬忘れた。
視線を逸らす理由が見つからなくて、立ち尽くしている自分に気づく。
知らない人を見るときの距離感も、初対面の緊張も、なぜだろうか、うまく働かない。
彼女の横には、簡素な屋台があった。
古い木箱と布だけの、いかにも急ごしらえみたいな作り。
売り物らしいものはよく見えないのに、そこに店があることだけは、妙にはっきりと分かる。
ふわり、と匂いが届いた。
これは、小麦…なのかな?
少し苦くて、それでいて、妙にあたたかく良い匂い。
冬の冷たい空気の中で、その匂いだけが浮いている。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
(……俺を待ってる?)
考えた瞬間、自分で自分を殴りたくなった。
いや…なに言ってんだ、俺。
──約束。
(まただ…)
知らない人だぞ。
約束なんてあるわけない。
ただの通りすがりだ。そうに決まってる。
そう思っても、視線が外れない。
少女は、木を見上げたまま立っていた。
スマホも持たず、誰かを探す様子もない。
寒そうに身をすくめるでもなく、時間を潰すでもなく、ただそこにいる。
待っている、というより、待つことそのものを続けている、みたいな姿だった。
まるで、この場所が彼女を必要としていて、彼女もまた、この場所から動けないみたいに。
やがて、彼女がこちらに気づく。
視線が合うまでに、ほんの一拍の間があった。
その一瞬が、やけに長く感じる。
「……あなた、は?」
その声を聞いた瞬間。
胸が、どくん、と跳ねた。
驚いた、というより、
正しい位置に戻った、そんな感覚。
名前を呼ばれたわけでもないのに、
ずっと探していた『 』を、やっと聞いた気がした。
とても、容姿の整った少女だ。
外国人のような顔立ちに、肌寒い風に靡く綺麗な長い金髪、ラブコメに登場するヒロインみたいだ。
寒さにさらされているのに、どこか壊れそうで、触れたら消えてしまいそうな静けさ。
視線を合わせているだけで、胸の奥がざわつく。
理由はわからない。
説明しようとすると、全部嘘になる気がした。
どこかで、知っている。
ありえないはずなのに。
初対面のはずなのに。
頭より先に、心が答えを出していた。
(……ああ)
この感覚を、俺は知っている。
はっきり思い出せる記憶はない。
名前も、場所も、時間も抜け落ちている。
それでも、確かにあった。
遠い昔、同じ匂いを嗅ぎ、同じように立ち尽くした瞬間が。
胸の奥で、何かが静かに息をする。
それは記憶というには曖昧で、感情というには古すぎる。
けれど確実に、俺の中に残っていたものだった。
理由はわからない。
彼女が誰なのかも知らない。
それでも、俺は今ここに来たのは間違いじゃなかった……とはっきり思ってしまう。
今はただ、言葉が喉の奥で渋滞していた。
名前も知らない。
事情も知らない。
ここに来た理由だって、うまく説明できない。
なのに。
俺は、どうしても、このまま通り過ぎる気がしなかった。
この公園を。
この匂いを。
この少女を。
考えるより先に、口が動いていた。
「……好きです」
自分で言っておいて、少しだけ間が空いた。
あまりにも直球で、あまりにも雑で、告白と呼んでいいのかも分からないような一言だ。
でも、不思議と後悔はなかった。
頭の中では、もっと気の利いた言葉を探していたはずなのに、実際に出てきたのは、それだけだった。
好きです。
理由なんか説明できない。
顔が好みだから、とか、雰囲気が綺麗だから、とかそんな浅い理解がいくつも思いつく。
けど、それらはどれも、核心から少しずつズレている気がした。
ただ、この人を前にすると、
今まで胸の奥に引っかかっていた何かが、音もなく外れていく。
告白した瞬間、ようやく深く息ができた。
初対面のはずなのに。
忘れるはずがないくらい印象的なのに。
それでも俺は、
ずっと前から、この人に同じ言葉を言いたかった気がしていた。
少女は、一瞬だけ目を見開き、
それから、ゆっくりと視線を伏せた。
「……ごめんなさい」
静かな声だった。
拒絶というより、謝罪に近い。
当たり前だ。
こんな場所で、こんなタイミングで、知らない男に告白されて、はいそうですか、なんてなるはずがない。
でも、俺はもう分かっていた。
彼女が俺を断った理由が『俺だから』じゃないことを。
「……ずっと、待っている人がいるの」
その言葉に、胸が少しだけ軋んだ。
けれど、不思議と痛みは感じない。
「それは……大切な人?」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
「えぇ」
少女は、かすかに笑った。
でも、その笑顔は完成していなかった。
どこか欠けていて、無理に形を作ったみたいだった。
「世界で一番、大切な人なの。そう気づくまでに……とても時間がかかってしまったのだけれど」
そう言って儚く悲しげに笑う彼女の頬を伝う涙が、街灯の光を受けて小さく揺れた。
ああ、俺は───俺は知っている。
彼女は俺を遠ざけているんだ。
優しさで。
後悔で。
そして、過去に縛られたままの自分自身で。
それは、かつての俺が選んだやり方と、よく似ていた。
だから、これ以上踏み込むべきじゃないと理性は言っている
ここで引き下がるのが、正解なんだ、またお前は傷つき傷つけるのか、と。
すると、少女は、屋台のほうへ視線を移す。
「……これ、アラコパンっていうの」
布の下から、小さなパンを一つ取り出す。
見た目は素朴で、少し色の濃いパンだ。
「少し苦いけど……ちゃんと、美味しいのよ」
そう言って差し出されるその手は、微かに震えていた。
俺は、そのパンを見て、
そして、彼女の顔を見て、
ようやく、確信した。
ああ、そうだ。
俺は、もう逃げたくない。
遠ざかる理由を、理解したふりで飲み込んで『仕方ない』で片付けてしまう側には、もうなりたくなかった。
ゆっくりと、息を吸う。
そして、笑う。
「……知ってるよ」
彼女は『 』は驚いたようにこちらを見る。
俺は、はっきりと言った。
「ずっと前から知ってるよ、セシル」




