知らなければ、永遠に優しかった
店の裏へ回る道は、表通りよりもずっと狭かった。
石畳は割れ、雑草が隙間から顔を出している。昔からこうだったのか、それとも人の気配が消えたせいで、道そのものが息を止めたのか、私には判断がつかなかった。
一歩、足を出す。
そのたびに、靴底が地面に吸い付くような感覚がした。
進みたくない。
でも、戻る理由もない。
扉の隙間から、微かな光が漏れていた。
夜の闇に、そこだけが取り残されたような、弱くて、頼りない灯り。
——まだ、誰かがいる。
そう思った瞬間、胸の奥で、長いあいだ眠っていたものが目を覚ました。
期待とも恐怖ともつかない、名のない感情だった。
裏口は、半分だけ開いていた。
押せば、軋む音を立てて動く。
その音が、やけに大きく感じられて、私は一度だけ呼吸を整えた。
中は、静まり返っていた。
パンの匂いは、もうほとんど残っていない。
代わりに、薬草と、金属と、長く使われていない布の匂いが混じっていた。
奥に、ベッドがある。
その上に、誰かが横たわっていた。
——理解するまで、少し時間がかかった。
それは、私が知っている彼の姿とは、あまりにも違っていたからだ。
痩せ細った体。
浅く、途切れがちな呼吸。
閉じられた瞼の下で、命がかろうじて揺れているのが、わかる。
世界が、一瞬だけ遠のいた。
数千年、生きてきた。
死にかけた人間を、何人も見てきた。
戦場でも、病床でも、処刑台でも。
それなのに。
彼を見た瞬間、現実感が剥がれ落ちた。
まるで、悪い夢の続きを、無理やり見せられているみたいだった。
「……ガラ、ス?」
声が、思ったよりも震えていた。
返事はない。
私は、その場から一歩も動けずに立ち尽くした。
近づいてしまえば、何かが決定的になる気がした。
この瞬間まで、私はどこかで信じていたのだ。
自分は、失わない側の存在だと。
置いていかれることはあっても、取り返しのつかない別れを迎える側にはならないと。
でも、目の前の光景は、それをあっさり裏切った。
もし、彼がここで死んだら。
そう考えた瞬間、胸の奥に、鋭い痛みが走った。
刃物で刺されたような、はっきりした痛み。
私は、その痛みの正体を知ってしまった。
後悔だ。
逃げたこと。
確かめなかったこと。
信じる勇気も、傷つく覚悟も持たなかったこと。
そして何より——時間が、私の味方であると、無意識に思い上がっていたこと。
不老不死であることを、私は初めて呪った。
癒えないのではない。
終われないのだ。
彼の時間が、今まさに尽きようとしているというのに……
この場所で、私だけが取り残されてしまう。
私は、そっとベッドのそばに膝をついた。
ようやく、逃げずに向き合う覚悟が遅れて追いついてきた。
「……セ、シル?」
掠れた声が、私の名を呼んだ。
長い間、何度も頭の中で反芻してきた音なのに、実際に耳に届くとあまり現実味がない。
時間が、止まったわけじゃない。
むしろ逆で、止まっていた時間が、無理やり動き出したような感覚だった。
私は一歩、近づく。
それだけの動作が、ひどく重い。
謝らなければいけないことが、山ほどあった。
嘘に気づいていたのに、何も言わなかったこと。
離れることを選んだこと。
戻るのが、遅すぎたこと。
けれど、どれも言葉にならない。
頭の中では整っているはずなのに、喉の奥で、全部が絡まってしまう。
彼は、ベッドに仰向けのまま、私を見ていた。
昔よりずっと痩せて、顔色も悪い。
それでも、その目だけは、確かに彼のままだった。
「……久しぶり、だな」
それだけ言って、彼は小さく息を吐く。
まるで、それだけで精一杯だと言うように。
「……うん」
返事が、ひどく短くなった。
本当は、もっと言うべきだったのに。
部屋には、古い木の匂いと、微かに残った小麦の匂いが混ざっている。
それが、私の胸を締めつける
私は、ベッドのそばに座ったまま動けずにいた。
近づきたいのに、近づく資格がない気がして。
「……店、閉めたんだね」
私は、会話も続かない、わかりきったことしか言えなかった。
「……あぁ」
わかってた通り、それだけで、会話が途切れる。
沈黙は、気まずいというより、怖かった。
言葉を置き間違えたら、すべてが崩れる気がして。
私は、ようやく彼の手に触れた。
思っていたより、軽い。
思っていたより、冷たい。
それでも、まだ生きている温度だった。
「……ごめん、なさい」
やっと出てきた言葉は、それだった。
何に対しての謝罪なのか、自分でもわからない。
離れたことか。
戻らなかったことか。
信じきれなかったことか。
彼は、一瞬だけ目を伏せて、また天井を見た。
「……俺も、ずっと謝りたかった」
短い言葉だ。
それ以上、ガラスは口を開かない。
互いに、何を悔やんでいるのか、全部わかっている。
だからこそ、詳しく言えなかった。
言葉にした瞬間、取り返しがつかなくなる気がした。
「……また、話そう」
彼が、かすかに笑う。
それは、未来を約束する笑顔じゃなかった。
ただ、今をつなぎ止めようとする、弱い表情だった。
「……うん」
本当は、もう時間が残っていないことくらい、わかっている。
それでも、否定できなかった。
彼の呼吸が、少しずつ浅くなる。
波が引いていくみたいに、静かに。
私は、何もできず、ただそこにいた。
手を握ったまま、言葉を探し続けて。
けれど、最後まで、見つからなかった。
彼の呼吸が止まったとき、部屋は驚くほど静かだった。
何かが終わった音は、しなかった。
私は、その場を動けなかった。
泣くことも、叫ぶこともなく、できずに最後まで見ていることしかできなかった。
会えたのに。
話せたのに。
それでも、何も足りなかった。
後悔は、消えなかった。
むしろ、はっきりと形を持って、胸の奥に残った。
私は知っている。
この感覚は、これから何百年経っても、薄れない。
それでも――────
それでも、会えなかったままよりは、きっと、ずっと残酷で、ずっと大切なものだった。
私は、彼の手をそっと離し、静かに息を吸った。
焼きたての小麦の匂いは、もう、しなかった。




