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君を知らないまま、君を想っていた  作者: ペンタス


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4/6

戻れない場所に、匂いだけが残る



 気づけば、数十年という時が過ぎていた。

 当たり前のように、私は何も変わっていない……あの頃を思い出して消えない懺悔をし続ける毎日。



 

 人の寿命が、いくつも終わるほどの時間。

 生まれ、名を与えられ、誰かの隣で笑い、そして消えていく――

 その一連が、何度も繰り返されるだけの長さ。


 街が変わった。

 石畳は削られ、道は広げられ、建物は壊され、また建て直された。

 

 名前が変わった。

 かつて呼ばれていた呼び名は、古い地図の片隅に小さく残るだけになり、やがてそれすらも塗り潰されていった。



 地図が更新されるたび、境界線が引き直されるたび、

 人々はそれを『時代が進んだ証』と呼ぶ。


 その多くは、戦争によるものだった。


 勝った国が名前を残し、負けた国が消える。

 英雄と呼ばれた者の像が立ち、数十年後には撤去される。

 憎しみは正義に塗り替えられ、正義は次の憎しみに変わる。



 私はそれを、何度も見てきた。

 遠くから、ただ眺めるように。



 時間は、本来、私にとって意味を持たないはずだった。

 老いない。

 衰えない。

 昨日と今日の違いを、わざわざ数える必要もない。


 朝日が昇り、沈み、また昇る。

 それが何万回繰り返されようと、私の身体は同じ形のままだ。


 それなのに――


 後悔だけは、確かに積もっていった。


 最初は、薄い霜のようなものだった。

 気づかないふりをすれば、そのまま通り過ぎられる。

 足元に白く残っていても、踏みしめれば消える程度の、取るに足らないもの。


(仕方がなかった)

(近づかなかったのは、正しかった)

(どうせ、いつか別れる)


 そんな言葉で、何度も覆い隠した。

 それでも、季節は巡り、霜は溶ける前に、いつの間にか雪へと変わっていた。

 一晩で積もることはなく、音もなく、少しずつ。


 朝、歩こうとしたとき、足が沈む。

 思ったより深く、思ったより冷たい。


 それでも進める。

 進めてしまう。

 私は、そうやって何度も自分に言い聞かせてきた。


 雪は、吹き溜まりになる。

 風が止まる場所にだけ、集められる。

 逃げ続けた場所、目を逸らし続けた場所にだけ、重なっていく。


 気づけば、動こうとするたび、足を取られるほどの重さになっていた。


 忘れたはずの声が、

 忘れたはずの匂いが、

 眠りの底から、何度も浮かび上がる。


 焼きたての小麦の匂い。

 少し焦げた皮の苦み。

 不器用に、でも真っ直ぐ投げられた言葉。


 名前を呼んだときの、あの驚いた顔。


 私は、時間を超えて生きてきた。

 何千年も、世界の変化を見送ってきた。


 それでも、あの小さなパン屋に残したものだけは、

 時間の外に置き去りにしてしまったのだと、

 その頃になって、ようやく理解した。


 置いてきたのは、思い出だけではない。

 選ばなかった言葉。

 確かめなかった想い。

 踏み出さなかった一歩。


 それらは凍りついたまま、

 解けることも、忘れ去られることもなく、

 ずっとそこに残り続けていた。


 永遠を生きるということは、

 すべてを失っても、なお生き続けるということだ。


 けれど私は、そのとき初めて知った。


 失わなければよかったものを、

 自分の手で手放してしまった後悔は、

 永遠に薄まらないのだと。




 試しに、と私は思った。

 その言葉は、言い訳のように軽く、けれど胸の奥ではずっと前から用意されていた響きだった。


 ほんの出来心だ。

 数十年という時間を生きてきた私にとって、街ひとつ戻ることなど、風向きが変わる程度の出来事のはずだった。


 それでも足は、確かに重かった。


 あの街に近づくにつれて、空気が変わる。

 小麦の匂いは薄れ、知らない店の看板が増え、道の幅さえ微妙に違って見える。

 それなのに、身体のどこかが、迷わず目的地を知っていた。


 人の通らない外れ通り。

 記憶の中で、何度も立ち止まった場所。



 そして──



 ──パン屋は、畳まれていた。


 看板は外され、窓は板で塞がれ、あのガラスケースがあった場所には、光の反射すら残っていない。

 焼きたての匂いも、彼の声も、まるで最初から存在しなかったかのように、きれいに消えていた。



 やっぱりだ。



 内心、そう呟いた自分がいた。

 わかっていた。

 ここに、何も残っていないことくらい。


 それでも、胸の奥が、鈍く痛んだ。


 長い時間を生きてきて、失うことには慣れているはずだった。

 王国が滅びる瞬間も、街が焼ける夜も、人が死んでいく音も、すべて見送ってきた。

 なのに、たった一軒の店がなくなっただけで、こんなにも息が詰まる。


 私は、背を向けた。


 これでいい。

 確かめただけだ。

 試しただけだ。



 そう言い聞かせて、一歩踏み出した──そのとき。



「最近まで、開いてたのよ」


「……っ!?」



 横から、不意に声がかけられた。


 中年の女性だった。

 買い物袋を抱え、何気ない世間話の延長のような口調で、彼女はそう言った。


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった、私の頭に届かなかった。



「ほら、このパン屋さん。ついこの前までね」


 時間が、止まった。


(最近…?)

(ついこの前…?)


 それは、私にとって曖昧で、輪郭を持たない言葉のはずなのに、今は刃物のように鋭かった。


「店主さん、体を悪くしてねぇ……それで、閉めちゃったの」



 女性は、残念そうに肩をすくめた。

 それ以上の事情を、深く語るつもりはないらしい。

 ただの『よくある話』として、彼女はそれを口にした。


 けれど、私の中では、何かが音を立てて崩れていった。



 息が、できなくなった。



 胸の内側に、冷たい水が一気に流れ込んだような感覚。

 空気を吸おうとしても、肺がうまく動かない。

 心臓だけが、やけに大きな音を立てている。


 生きていたのだ。

 彼は、確かに生きていた。


 私が、近づかないようにしていた間も。

 噂を聞かないように、耳を塞いでいた間も。

 この街で、パンを焼いて、生き続けていた。


 知らなかった。

 知らないままで、いた。

 それは、守るためだったのか。

 それとも、逃げるためだったのか。



 答えは、もうわかっている。


 私は、彼が死んだという話を聞く勇気がなかっただけだ。

 だから、生きている可能性からも、目を背けていた。


 女性が去ったあとも、私はその場から動けなかった。


 閉ざされた扉の向こう側に、確かにあったはずの時間。

 私が選ばなかった時間。

 後悔は、もう霜でも雪でもなかった。

 凍りついた地面の下で、春を待てずに腐っていく何かのように、胸の奥で重く沈んでいる。


 そんな最中、私は気づいてしまった。


 裏口の方角から、かすかな光が漏れていることに。


 夜の街に溶け込むほど弱く、意識しなければ闇と見分けがつかない光。

 風に揺れる蝋燭の火のように、今にも消えてしまいそうで、それでも確かにそこに在った。


 それは、希望と呼ぶにはあまりに頼りなく、

 奇跡と名付けるには、あまりにも現実的だった。


 けれど、見なかったことにするには、あまりに眩しい。


 長い時を生きてきて、私は知っている。

 こういう光は、気づいてしまった時点で、もう逃げられない。

 触れなければ何も起きないが、触れてしまえば、何かが確実に変わってしまう。


 胸の奥が、ひどくざわついた。

 期待と恐怖が、同じ形をしていることを、私はよく知っている。

 数えきれない別れの中で、何度も騙され、何度も学んできたはずだった。


「それでも、いい……!」


 私の足は、光の方角から離れなかった。


 それは、誰かに呼ばれたわけではない。

 約束があったわけでもない。

 ただ、長い時間をかけて積もった後悔が、私の背中を静かに押していた。


 もし、これが見間違いだったとしても。

 もし、扉の向こうに何もなかったとしても。

 それでも、このまま自分の心に背を向けるよりは、ずっとマシだと私は思った。





 

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