永遠が、僅かに軋んだ日
最初は、ただかすかに嗅いだ匂いだった。
何百年も、同じような匂いを嗅いできた私は、祝祭の日の広場、冬を越すための倉庫、焼け落ちる前の街。
小麦の匂いは、いつも人の暮らしのそばにある。
空腹というほどでもなく、目的があったわけでもない。
けれど、通り過ぎようとした足が、ふいに止まったんだ。
焼けた小麦の匂い。
それは記憶を呼び起こすものではなく、記憶を持たない私の中に、初めて滞留した感覚だった。
この大きな街で、なぜか誰も通らない外れの通り。
時間に置き去りにされたような一角に、その店はあった。
小さな看板。
古い石壁。
控えめで、主張がなくて、だからこそ妙に目についた。
――古臭いパン屋。
私は、理由もなく扉を開けた。
ガラスケースの中には、いくつかのパンが並んでいた。
見慣れたはずの形なのに、均一じゃない。
焼き色も揃っていない。
丁寧というより、必死に作られた感じ。
でも、完璧ではないというだけで、こんなにも安心するものなのかと、そのとき少しだけ思った。
私は、ガラスケースに顔を近づけた。
名前を知らなかったそのパンを、そのとき初めて見た。
「……迷子?」
上から声がして、私は反射的に顔を上げる。
そこにいたのは、想像よりずっと普通の男だった。
騎士でも、商人でも、英雄でもない。
少し眠そうで、少し疲れていて、それでも生きている人。
「───だれが幼女…っ!」
言ってから、失敗したと思った。
本当は違うことを言うつもりだったのに。
「言ってないよ!?」
男は慌てて否定して、変な顔をした。
その表情を見て、胸の奥で何かが小さく揺れた。
理由は、わからない。
「………これなにパン?」
私は、ガラスケースを指さした。
興味があったのは、パンだけだった。
少なくとも、そのときは……
「これは『アラコパン』だ」
その中で、ひとつだけ色の違うパンがあった。
少し暗く、焼き目が深い。
苦いパンは嫌いじゃない。
甘いものは、長く食べていると味が薄れるから。
このアラコパンは苦い種をすり潰して練り込んだんだ、と彼は語りだした。
説明は簡素で、けれどどこか誇らしげだった。
「………これ、買う」
男は、驚いた顔をした。
その反応が、なぜか印象に残った。
パンを受け取り、店を出る。
振り返らなかった。
その日の夕方、森の端でそれを食べた。
苦い。
けれど、嫌な苦さじゃない。
口の中に、ちゃんと余韻が残る。
それは、時間をかけてでないと現れない味だった。
「……美味しい」
独り言だった。
誰に聞かせるつもりもない。
それなのに、
次の日、私はまた同じ道を歩いていた。
その日から、私はその店に通うようになった。
理由を探す必要はなかった。
昨日の続き、というだけで十分だった。
ガラスケースに近づきすぎて、額をぶつけた。
「いててて……」
「………大丈夫?」
男は、勢いよく尻餅をついていた。
その様子が、少し可笑しい。
「その状態で心配すんなよ!」
思わず、口元が緩みそうになる。
けれど、それを外に出すことが私にはできない。
「………アラコパン、2個」
待つ、と答えると、沈黙が落ちた。
彼は、何か話そうとしている。
寒さの話。麦の話。
意味のよくわからない身振り。
私は黙って聞いていた。
不快ではない。
むしろ、人の声が途切れないことが、少しだけ心地よかった。
人と関わるのをやめて、長い時間が経っていた。
だから、忘れていたのかもしれない。
声というものが、こんなふうに、空気を温めることを。
最初は、本当にパンのためだった。
アラコパンは、毎回少しずつ味が違った。
焼き加減、湿度、小麦の質。
同じものなのに、同じにならない。
それが、不思議で、少し楽しかった。
店主は、よく喋る人だった。
私は、ほとんど喋らなかった。
沈黙が落ちると、彼は慌てて何かを話し始める。
寒さの話、麦の話、意味のよくわからない身振り。
私は、それを聞いていた。
聞く、という行為は、私にとって久しぶりだった。
話を覚える必要がない。
返事を用意しなくてもいい。
ただ音として受け取る。
それだけで、時間が流れる。
私は、気づかないふりをしていた。
この場所に来る理由が、少しずつ変わっていることに。
アラコパンを買う。
待つ。
焼き上がる匂いの中で、彼の声を聞く。
パンが出来上がる頃には、胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけ薄まっている。
それがどういう現象なのか、私は知らなかった。
数日経って、私は気づいた。
パンを選ぶ時間より、焼けるのを待つ時間のほうが、長くなっていることに。
彼が何を話すか。
次はどんな失敗をするかを
それを、少しだけ予想するようになっていることに。
それでも、私はまだ、
これを特別だとは思っていなかった。
何百年も生きていれば、
一時的な興味や、気まぐれは何度もある。
だから――
あれは……ただの油断だったのだと思う。
「わたし、不老不死なの」
口に出してから、
取り消せないことに気づいた。
彼は、信じなかった。
流すように返事をした。
その反応に、私は怒らなかった。
それどころか、少しだけ安心した。
信じられないものを、
無理に信じようとしない人。
その在り方が、
なぜか、心地よかった。
「────アラコパン、ここで初めて食べた。美味しいね……」
本当のことだった。
味だけじゃない。
ここで食べること。
ここで、誰かと話すこと。
それを私はまだ、言葉にしたくなかった。
ある日、私は彼を名前で呼んだ。
「こんばんわ、ガラス」
口にした瞬間、自分でもわかるほど、空気がわずかに揺れた。
彼が顔を上げる。
ほんの一拍、目を瞬かせてから驚いたようにこちらを見る。
その表情が、胸の奥に小さく引っかかった。
痛みではない。
けれど、無視できない。ささやかな異物のような感覚。
――ああ。
私は、この感覚を知っている。
昔、誰かを見送るたびに、確かに胸の内に残っていたものだ。
言葉にするには曖昧で、けれど確実に存在していた重さ。
失う前ではなく、失ったあとにようやく気づく、名もなき感情。
その頃の私は、それを悲しみだと思っていた。
あるいは、未練や後悔と呼べるものだと。
けれど本当は、名前を持つ前の感情だったのだと、今ならわかる。
時間は、それらに名前がつく前に、すべてを削っていった。
角を丸め、輪郭を曖昧にし、やがて感触だけを残して。
それでも、この店に来るようになってから、私はまた同じ引っかかりを覚え始めていた。
毎日変わらず並ぶパン。
同じ時間、同じ場所、同じ声。
気づかないふりをしていたけれど、
私は、いつの間にか彼を『特別』ではなく『当たり前』として消費していた。
――私は、無意識に、彼を『日常』にしてしまったんだ。それが後悔に繋がることを誰よりも私がわかっているはずなのに……
数千年生きてきて、
どんな都市も、どんな人も、やがては通り過ぎる景色になってきた。
彼だけが。
今日と昨日をつなぐ線の上に、自然に立っていた。
それが、どれほど危ういことなのかを、
私はまだ、考えないことにしていた。
だからこそ、私は彼がついた嘘に気づいた。
ある日、いつも通りアラコパンを買いに……彼に会いに来た。
彼は淡々と話しはじめた。
店を閉める理由。
仕入れ。
冬。
言葉そのものは、どれも間違っていない。
季節も、事情も、理屈も、すべてが現実的で、とても現実に即している。
けれど、それらはあまりにも整いすぎていた。
まるで、あらかじめ用意された、作られた答えを、順番通りに並べただけのように。
私は長く生きてきた。
だから知っている。
『本当の理由』なんてものは、たいてい歪で、言葉にするほど崩れていく。
こんなふうに、角の取れた形では出てこない。
彼の声は、いつもより少し低かった。
視線は合っていたのに、どこか遠くを見ているようだった。
その違和感は、パン生地に混ざった小さな異物のように、噛めば噛むほど口の中で主張してくる。
──ああ、これは。
彼は………私を遠ざけようとしている。
その事実が、ゆっくりと胸に沈んでいった、怒りよりも先に、冷たい理解が脳内を巡る。
私は問い詰めなかった。
問い詰めることは──できたかもしれない。
言葉を重ね、嘘を剥がし、真実に触れることも、きっとできたと思う。
けれど、そうしなかった。
問い詰めようと、口を開こうとした瞬間
彼の中で必死に保たれている何かが、音を立てて壊れる気がしたからだ。
それは、彼自身かもしれないし。
私との距離かもしれない。
あるいは、この店で積み重ねてきた、あまりにも小さく、あまりにも大切な日常かもしれなかった。
私は、彼の嘘を受け入れた。
理解したふりをした。
そのほうが、きっと優しいと私は自分勝手に思ってしまった。
パンを受け取らずに店を出たとき、
背中が、ひどく重かった。
何かを背負ったわけではない。
いつもの──冷たい記憶に交えるだけだ、失ったわけでもない。
ただ、そこにあったはずの温度が、急に消えた。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
それは別れの音ではなかった。
けれど、戻れない場所が増えた音だった。
それから、私は街を離れた。
意識して避けたわけではない。
ただ、足が自然と逆方向を選んだ。
あの匂いの届かない場所へ。
あの通りに繋がらない道へ。
近づかなかった。
噂も聞かなかった。
市場で、旅人が話す戦の話を耳にしても、あの街の話題が出そうになるたび、私は一歩引いた。
もし聞いてしまえば──
もし知ってしまえば──
きっと、私は戻れなくなる気がしたから。
彼が生きているかどうか。
死んだかどうか。
どちらであっても、その事実は、私の中に何かを決定的に残してしまう。
私は、それが怖かった。
逃げているのだと、どこかで分かっている。
それでも、歩みを止めることはできなかった。




