裸足で駆けたばらの道
【夏の日】
温室の外に目を向けた。ひまわり畑は既に下を向いている。うだるような暑さだ。
「ひと思いにやってほしいの」
まるで刃物でも突きつけられているかのようなセリフを、彼女は真剣な口調で言った。暑さで頭がおかしくなってしまったのかなと、ぼくは少し心配する。
もちろんぼくは彼女を殺そうとしているわけではない。どちらかといえば彼女の方が好戦的な姿勢だ。ぼくの上にまたがっている。
ぼくはというと、彼女の制服の背に下から手を突っ込んで、あれキャミソールとか着てないんだな、とか思っていた。
じんわりと汗をかいた肌に指が吸い付く。
彼女の言うところの「やる」という意味は、その前の会話や仕草からたぶん正確に理解できた。清楚な雰囲気からは想像もできない直接的なお誘いだ。(もっともぼくは、いちどだって彼女を清楚だと思ったことはないのだけれど)
緊張しているのか彼女はつんと尖っている唇を舐めて、ぼくの返答か、それに準ずる何らかのアクションを待っている。
「うーん」
「いや?」
「正直に言うと、戸惑っているし、驚いている」
ぼくたちは恋人同士でもないし、彼女はぼくに恋愛感情などないだろう。
それどころか、彼女はつい最近までぼくの叔父を情熱的に追いかけていたし、ぼくの兄と婚約が決まっている。
彼女の人生を小説にするならば、ぼくは登場人物紹介欄に名前すらのらないだろう。
なのにこんなところにぼくを呼び出して、こんな体勢をとり、あんなことを言った理由は、彼女をひそかに見てきたぼくでなければわからなかったはずだ。
「自分を大切にした方が良いと思う」
「なにそれ。棒読みだし」
「兄さんに言ってみたら?」
「ドン引かれると思わない?」
「いやあ、喜ぶと思うけどな」
ぼくの兄は、一見、可憐な彼女に恋をしていて、長年の片想いが実り、ついに婚約までこぎつけたのだ。
分家筋である兄が今は亡き前家元の一人娘と結婚することは、政略結婚的意味合いが強いけれど、そこに感情があるのは喜ばしいことなんじゃないかと思う。
「そういうのもういいの。自分を軽く扱いたいの」
「それがぼくに白羽の矢を立てた理由か」
「手慣れていそうだからよ」
「ふむ。たしかにそれは、兄さんじゃだめだね」
彼女は自暴自棄になっているのだ。
実らない恋を追いかけることに疲れてしまったのだと思う。それでどうでもよくなって、どうでもいい相手に身を委ね、自分を堕としてしまいたいのだ。
だから彼女にのしかかられているのはぼくの兄ではなくぼくなのだ。
ぼくが女性関係にだらしがないという噂を耳にして、後腐れないとか、断られることはないだろうとも、思っているのかもしれない。
ぼくは複雑な家系図を思い描いた。叔父と彼女はひと回り以上歳が離れている。それでも結ばれても支障ない間柄ではあるなと思った。
だけど彼女の欲しいものは手に入らないだろうと、恋する彼女を見るたびに思っていた。
今、うちの流派の代表は叔父が務めている。叔父は、ぼくや彼女、それから兄の師でもある。
叔父はきれいな男だ。彼の舞は妖艶で、一度見たら取り憑かれしまうような魅力がある。物腰もやわらかく、女性にもやさしい。でも上品に擬態した下品だとぼくは思っている。
叔父のまわりの人間関係も、とっ散らかっているんじゃないかな。あの人は自分の欲望に忠実なうえに、芸しか頭にない人だから。
ぼく同様、叔父は最低な人間なので、彼女に無責任に手を出したことは容易に想像がつく。そして彼女の結婚をとりまとめ、促したのも叔父なのだ。
「無理そう?」
「ううん。君のことは昔から美人だなあって、思ってたよ」
思いつめた様子で、ぼくを見下ろしている彼女。
背中には汗をかいているのに、涼しげな顔だなあと思う。
幼い頃から暑苦しい着物を着せられてきたせいで、そういうふうになってしまったのかな。
たぶんぼくも、手のひらの熱さとは反対に、汗ひとつない涼しい顔をしているのだと思う。
「じゃあ何を迷ってるの? お兄さんに悪い?」
「いや……」
兄とぼくの仲は、表立って悪くはないが、良くはない。無、というのがしっくりくる。兄はぼくをいないものとしている。
わからないでもない。ぼくと兄は異母兄弟で、ぼくはいわゆる愛人の子、隠し子ってやつだ。
世間が聞いたらびっくりするような話でも、芸事の狭い世界で生きるぼくらには、そこまで驚く話でもない。兄がぼくを疎ましく思っている理由も、別にある。
ぼくの出自を神様が不憫に思ったのか、兄に与えるはずの才能をそっくりぼくに与えてしまったからだ。そしてぼくはそれを大事にしようとは思っていない。そう、彼女が彼女自身を軽く扱いたいように、ぼくもぼくの才能を軽んじたい。
「私だって無理にとは言わないのよ」
「うん」
そうは言っても、とぐずぐずとあれこれ考えていた。彼女の頬に触れてみる。爬虫類みたいにひんやりとしていた。
おそらくぼくらは親戚に戻れることもなく、会うたびにそういうことをする間柄になるのだろう。
経験上、一度そういう関係になってしまったらもう戻れない。
袋小路に入り込むか、どちらかが断ち切るまで続く。まっとうな関係になるのは難しいのだ。
まあ、彼女は兄の婚約者であるから、まっとうな関係というのはどうしたって無理なんだけど。
「はだしで駆けてきたのよ、いばらの道を」
「うん」
「そしたらもう、どうでもよくなっちゃった」
「なんとなくわかるよ」
そろりそろりと、ぼくの中の、普段は隠している残虐な気持ちが鎌首をもたげた。
ぼくは兄を羨ましく思ってきたのだろうか。この忌まわしい一族へ、復讐をしたいのだろうか。
転がり堕ちてきた彼女を手中に収め、この情熱的で正しい女の子を、汚してしまいたい。彼女ののぞむまま、軽く扱いたい。それはとても愉快だという気がした。
たぶん、彼女同様、ぼくも、もがいたりあらがうことに疲れてしまったのだ。
「まあいいか」
「なにが?」
「こんなぼくでも、一応最後の砦はあったというか。でもまあ、いいかなって」
不思議そうな顔をしている彼女の手を退けて、からだを起こした。
あまり手入れをされていない温室は、異国めいた植物で鬱蒼としている。
温室の外のうなだれたひまわりとは反対の、生命力溢れる涼しげな緑に隠れて、ぼくたちは退廃的なキスをした。
【雨】
車のワイパーがせわしなく動いて、雨水を避けている。外は豪雨だけれど、車内は居心地が悪いほど静かだった。
いつもだったらこのままホテルへ向かうところだったけれど、助手席に座る彼女から般若のような雰囲気を感じていたから、今日はこのまま送り届けたほうがお互いのためだと思っていた。
「ごきげん斜めだね?」
今日は会った時からだ。最近ずっとそう。
彼女は答える代わりに、恨めしそうにぼくを睨んだ。
「明日はドレスをみにいくの」
「何を着ても似合うだろうね。和装は見飽きているから、ドレスのほうが楽しみだ。兄さんと?」
「あの人は忙しいからひとりで選びに行くの」
大学を卒業したら、彼女はついに兄と結婚するらしい。いよいよその時が迫っていた。
兄は正しく彼女をあいしているらしかった。兄は善い人だと思う。何か色んなものを乗り越えて、ぼくに歩み寄ろうとしているほどに。弟子たちにも好かれているし、外受けも良い。だからといって、彼女を繋ぎとめておけないところは、恋愛の難しいところだなと思う。
結婚の話が本格的になってから、彼女の機嫌は日増しに悪くなっていった。ぼくになにかを求めている。ぼくはそれが煩わしい。あの夏の日のように、はっきりと、直接的に言えばいいのに。そう思うけれど、しかし言われたところでぼくは逃げ出すに違いない。
「兄さんじゃなくて、きみが次の家元になるとはなあ」
「それってひどい。あの人の努力と挫折と、あなたへの嫉妬を知っているくせに。だから裏で支えて行くことを選んだの。あなたにはとうてい敵わないから」
そんなこと言われても、とぼくはまた彼女にがっかりする。彼女もまたぼくに嫉妬しているのは知っていた。
兄が表舞台を退くのは、彼女と家庭を築くには良い選択だと思った。
それに、ぼくも大概だけれど、兄と婚約しているのに、ぼくとこんな関係を何年も続けているなんて、きみのほうが酷くないかい、と思ったけれど、言わないでおいた。もうじゅうぶんこの場は険悪なので、これ以上悪くすることもないと思ったのだ。
ぼくたちは見事に袋小路に迷い込んでいた。
ぼくらは、奪い合う関係だった。今更与え合う関係になどなれるわけがなかった。
そんなこと彼女にだってわかっているだろうに。
彼女の家の裏に車をとめた。
雨がひどくて、景色も何も見えないはずなのに、彼女は窓の外をじっと見つめていて、動こうとしなかった。
ぼくはハンドルを持ったまま、黙って待っていた。
「もう、会わない」
そう言った彼女は静かに涙を流していた。
人前で泣くことのできない子だったから、ぼくはぎょっとして、少しだけ罪悪感を感じた。でも彼女がなぜ泣いているのかはわからないのだ。
彼女にだってどうにもならないことはわかっているはずなのに、何を期待しているんだろう。本当のところ、ぼくたちがどうにもならないのは、兄の存在も、ぼくの出自も、家のことも、なにも関係がない。ぼくらは最初から、何の打算もなく想い合えるような関係ではなかった。
「わかった」
ぼくの言葉を聞くと、彼女は雨の中、傘もささずに走って行った。
ふと気づくと、ぼくの頬も濡れていた。
自分の涙のわけも、わからない。どうにもならないはずなのに、ぼくもなにをのぞんでいたのか。
【夏の日】
久し振りに本家へきた。前家元である叔父の初盆だから、親戚中が集まっている。
ぼくは小うるさい本家の女たちから離れてひとり縁側に座っていた。綺麗に整えられた日本庭園は、こまめに庭師が入っているらしく、寸分の狂いもない。ぼくのことをとやかく言う人はだいぶあの世へ逝ってしまったから、ここへ来るのも気が楽になってきた。
出された茶菓子を食べていると、となりにひょっこりと少女があらわれた。
美少女といえるだろう。黒髪をまっすぐ伸ばして、ワンピース型の制服を着ている。
意思の強そうな目で、ぼくを恨めしげに見つめている。その目つきがいつかの彼女にそっくりだったから、ぼくはなんだかどきりとした。
「私、叔父さんのことあきらめないから」
「叔父と姪は結婚できないんだよ」
まあ、ぼくと兄は異母兄弟だから、普通の叔父と姪よりは血が薄いんだけど。ともかく、やんわりと諭すと、彼女の娘はリスみたいに頬を膨らませた。
「そんなこと知ってるよ、私が十歳の時に叔父さんが教えてくれたじゃない。でも、結婚が全てじゃないでしょ」
その年でそんな口をきくなんて、やはりこの世界は子どもが育つのに適していないんじゃないかなあと思った。
「ぼくは四十過ぎのおじさんだよ」
「でも叔父さんより綺麗な人いないもの。予約」
そう言ってぼくの頬にキスをすると、逃げるようにパタパタと足音を立てて去って行った。
彼女と兄の愛娘は、確か今年十五になる。兄は今も正しく彼女をあいしているらしかった。夫婦仲は良いのだと風の噂にきいている。
それにしても、困ったなあと頬をさすっていると、ため息が聞こえた。
顔を上げると、喪服姿の彼女が立っていた。娘とぼくのやりとりを見ていたようだ。
「おどろいた、さすがきみの娘だ。怖い、怖い」
「しかたのない娘だわ」
そう言うと、彼女はぼくの隣に座る。
だいぶ目尻にシワが増えたけれど、まだきれいだ。喪服の襟からのぞくうなじも、うつくしく磨き上げられている。
「あいするきみの大切な娘に、変なことはしないよ」
彼女は胡散臭そうにぼくを見て、それから歳に似合わない娘のような拗ねた口調で言った。
「うそつき」
「あのね、ぼくをどんな卑劣感だと思っているの」
「そうじゃなくて」
ああ、とぼくは頷いた。彼女は前半部分のことを言ったのだ。あいするなんて、うそつき、と。もう時効のような気がして、ぼくは素直に言った。
「あいしていたよ」
予想外の返答だったらしい。彼女はぎょっとした後、疑り深い目でぼくを見つめた。
思わずふふっと笑ってしまう。
「ほんとに、実は初めてあった時から」
しばらく、真偽を確かめるように彼女はぼくを見つめていた。
その事にはじめて気づいたのは、いつだっただろう。
昨日だったかもしれないし、今なのかもしれないし、あの夏の日かもしれなかった。
彼女は突然、ぼくを叩き出した。ポカポカと、強くはないけれど、胸や肩や頭なんかを叩かれる。ぼくは身を縮こませて、降参だとばかりに手をあげる。何ごとかと、部屋の中にいる連中がこちらを伺っているのが見えた。
「いた、いた、なんだよもう」
「馬鹿」
「なんで?」
「もっと前に言ってよ」
ひとしきり叩いて気が済んだのか、彼女はまたため息をついて座りなおした。
世間への露出も多く、かつ問題児であるぼくに小言を言う彼女の姿はいつものことだからか、部屋の中の親戚たちも、また雑談に戻った。
もっと、前。ぼくは、彼女とぼくの関係が終わった雨の日を思い出した。
「そうだなあ、あの最後のドライブで言っていたら、あの子は生まれていなかったかな?」
「ちがうわ」
じゃあいつだろう、と彼女を見ると、ぼくが気に入っていた、その挑戦的な尖った唇で言う。
「あの夏の日に」
ああ、とぼくはあのけだるい夏の午後のことを思い出した。あの温室はもうない。ぼくは思わず笑ってしまう。
「そりゃ、ぼくは最初から選択を間違えていたわけだ」
なんだか時間が巻き戻されて、あの鬱蒼とした温室の中にいるような気がした。
あまりに、遠い。遠い日のことだ。
だけどすぐに、辛辣な言葉で現実に引き戻される。
「あなたの叔父さん、死んだ後、大変だったのよ。あなたはちゃんと色々清算してから死んでよね」
「ずいぶんだなあ」
「似てるから心配なの」
「ぼくも、たまに本当の父親だったらどうしようって思ってたよ。さすがに無いと思うけれど」
「外見のことでも、芸のことでもなくて、くらげみたいなところよ」
「くらげ」
春先に亡くなった故人を思って、ぼくらはしばらく黙った。どうしようもない人だったけれど、叔父からは多くを学んだ。きっと彼女も。なにせ、本当に美しく舞う人だったのだ。僕も兄も彼女も、誰も彼もが憧れた。
「余計な心配だと思うけれど、このまま一人で生きていくつもり?」
「家で美人がぼくの帰りを待ってる」
「猫のことでしょ」
あきれた声色だ。しかしなぜ、独りでいると、こうやってお節介を言われるんだろう。ぼくは今の生活が気に入っているのに。
「心配いらないよ。ぼくはこの歳になってようやく、芸を楽しいと思うようになったんだ」
ようやく彼女は微笑んだ。そっちの方面は心配してないわ、と言って、立ちあがる。今日を取り仕切る彼女には仕事がたくさんあるのだろう。
ねえ、とぼくは彼女を呼び止めた。
和服が板についた仕草で、彼女は振り返る。
「きみはまだ裸足なの?」
一瞬なにを言われたのかわからないといった様子で、首をかしげた。
それから、彼女は少し考えた後に「いいえ」と微笑んだ。
すっかり険のとれた、穏やかな顔だった。
ぼくたちの人生が交差するときは、もうないのだろう。
さて、亡き叔父に線香をあげて、次は兄の小言を聞きに行かなきゃな。あと帰りに餌を買わなきゃ。そんなことを思いながら立ちあがると、ぼくはかつて疎んだ家の中へと入っていった。