第二節 雨のなかの決意 ②
「──ここにいたか」
後ろから低い声。膨大な、安心できる魔力の気配。
ユリアの顔に光が灯る。
「アイオーン……!」
ユリアが後ろを振り返ると、地面からわずかに浮かぶ寝間着姿のアイオーンがいた。その瞬間、また激しい頭痛が起こった。同時に、大気中に魔力が作られていく。聖杯の呪いが動き出した。
「ぅうっ、が、あァァ──!?」
「ユリア!?」
頭を抱えながら、ふたたびユリアは両目から黒い涙を流しはじめた。その涙が二、三滴、地に流れ落ちると、大気中の魔力がそこに収束されてとある形をなしはじめた。
「──ッ!?」
現れたのは、人魚のような黒いシルエット。その姿は、どことなくヴィヴィアンを彷彿とさせるものだった。ユリアから流れる涙は止まらず、地に落ちた涙は次々に真っ黒な人魚の姿を作り出していく。
そして、人魚のシルエットは、アイオーンに攻撃を開始する。鋭い手先を振り上げて黒い斬撃を飛ばした。アイオーンは、帯びていたユリアの両親の形見の剣を抜き、それを切り払う。敵が親しい者の姿だったため、一瞬だけ躊躇う目をしたアイオーンだったが、すぐに戦う者の目に切り替わり、黒い人魚を斬り刻む。斬られたシルエットは霧のように飛散していった。
黒い人魚は勢いが途切れることなくアイオーンに襲い掛かっていく。斬りふせても、黒い人魚は絶えずに生まれてくる。大勢対ひとりの白兵戦。アイオーンは、地からわずかに浮かび続けながら軽い身のこなしで攻撃をかわし、剣を巧みに操って敵を蹴散らしていく。
その時、頭痛に苦しんでいたユリアが、一瞬にしてアイオーンとの距離を詰めてきた。ユリアの左手には、魔力を凝固させて作られた月白色の水晶のような剣──切先が狙うのは胸部あたりか。それを見抜いたアイオーンは、手に持つ剣の先端を地面に向けるかたちをとって斬撃から身を守る。そして、ユリアから距離をとった。
「……操られていても、相変わらず素早い攻撃だな」
アイオーンがユリアの顔を見ると、そこには無の顔があった。また操られ、正気ではなくなっている。しかし、動きが変だ。何らかの接続不慮を起こしているロボットのように身体の動きが常にカクカクしている。変質している右腕は浸食を進め、首もとまでが黒い呪いの物体となっている。目から流れる黒い涙は止まっていない。人魚の形をした黒いシルエットはあらかた攻撃して消滅させてきたが、やはり黒い涙はまた懲りずにシルエットを再び作り出しはじめる。
ユリアの動きが止まった。正気はないように見えるが、彼女は聖杯に抵抗している。
アイオーンは、再び黒い人魚を破壊しながら、空いた片手で背負っている鞄のなかを探りはじめる。指と指の間に一本ずつ試験管を挟み、さらに手のひらも使って持てるだけの試験管を掴む。合計八本の試験管を取り出した。キャップで密封された試験管の中には、黒みのある赤い血が限界までたっぷりと詰められている。アイオーンは、八本の試験管をすべて地に落とした。ガラスが割れると、血に含まれている魔力が動き出し、血が細い糸のように変形をはじめた。長い血の鎖が、彼女の周囲を包むように囲い、そしていくつもの輪を作りあげていく。輪同士が一定の間隔を保ちながら交わり、やがて透明の球状の障壁を形成した。
「ぁあッ──う、ぅ……!」
血の鎖によって作り出された障壁に囚われたユリアが、表情のない顔をしながらも苦しむ声を漏らす。封印術により魔力の動きを止められ、彼女の手にあった月白色の水晶のような剣が光の粒子となって少しずつ消えてゆき、彼女の足が地から浮き上がった。
ユリアと聖杯の力が完全に封じられたことにより、人魚の姿をした大量のシルエットたちが一斉に溶けるように消滅した。ユリアの目から流れていた黒い涙も流れなくなった。
アイオーンは、手に持つ剣に魔術を施し、それを血液が作る障壁に結びつける。剣から手を離すと、剣は光を帯びながら球状の障壁の前を浮いた。
「……許せ。このような荒い手段をとらなければ、聖杯の力を抑えつけられない……」
アイオーンは苦悩の顔で呟いた。血によって外から高濃度の魔力を操って動きを止め、そのまま彼女の体内を巡る魔力も操り、聖杯の力を拘束させている。二重の拘束だ。
ユリアに返答はない。気を失っている。アイオーンはゆっくりと深く息をつき、眠るユリアを見つめた。
さて、これからどうすればいいか。ひとまず、魔力を効率よく得られるよう魔力濃度の高い場所を探すべきか。アイオーンが動くと、球体の障壁と封印を支える剣も同時に動いた。アイオーンとそれらには見えない繋がりがあるようだ。
アイオーンは、崖から谷へと飛び降りた。母なる息吹があるところのため、羽が落ちるかのごとくゆっくりと着地する。そこから魔力の気配を感じ取りながら、魔力が湧き出ている区域を目指した。
しばらく森を歩いていると、遠くで雷の鳴るような音が聞こえてきた。湿気がさらに出てきている。やがて、雨が一滴、アイオーンの鼻先に落ちてきた。少しずつ雨脚が強まる。森の木々の葉が雨をある程度遮ってくれているが、このままではいずれ服が──ユリアもアイオーンも寝間着姿で少々締まらない恰好だが──濡れてしまう。なので、アイオーンは簡易的な雨除けの障壁を頭上に作り上げた。ユリアの障壁はもともと雨を防げるものであるため問題ない。障壁を通すのは空気と声くらいだ。
やがて、魔力濃度が一番濃い区域に到着した。そこは谷の奥地であり、さらに奥へ行くと瀑布がある。雨が当たらない場所はないかを探していると、岩陰を発見した。入り口が広くて光が奥まで届き、ある程度の奥行きもある。五人くらいはくつろげそうな広さだ。アイオーンはその岩陰に入ると、障壁を半円形状にしてユリアを横たわらせた。その時、ユリアの目が開いた。
「……アイオーン……」
「目が覚めたか」
「……ごめんなさい……」
「きみが謝ることはない。──ここに皆はいないが、無事であることは確かだ。安心するといい」
仲間が無事であることを聞いたユリアはゆっくりと深く息を吐いた。安心した。命に別状がなかったことが不幸中の幸いだ。
「……起きて早々すまないが、きみの身体の様子を教えてほしい。この状況をどうにかするためには、まずきみの現状について知る必要がある。ほかにも判ったことがあれば教えてほしい」
そうだ。まだ戦わなければいけない。寝ている時間が惜しい。
ユリアは重い身体を起こし、アイオーンと向き合った。
「……聖杯の呪いは、どうやら聖杯が作ったものではなくて、外部から埋め込まれたもののようだわ。聖杯は、その力を増幅させているだけ。それから、私の身体が変質しているように見えるけれど、そうではないの。この黒い肉体は、皮膚や服の上を覆っているだけ──けれど、その力の一部は身体の内部に侵入している感覚があるわ。黒い涙が流れてきたのが、その証拠だと思う」
「そうか……。力の一部が、身体の内部に入り込んでしまっているか……。早く聖杯の呪いを引き剥がさなければ、星霊の血を飲むことと同じような状況になってしまうだろう。今よりもさらに、きみの身体が『星霊』に近い状態へとなってしまう」
やはりアイオーンも『星霊』に近い存在になると予測している。ユリアも解っている。だからか意外と恐怖心はない。
「もしも、そうなってしまったとしても──大丈夫よ。私は、どんなことが起きても受け入れられる」
その覚悟をしていたからこそ、聖杯を取り込んだのだ。だから、そんな哀しい顔をしないでほしい。
その想いを込めて伝えると、アイオーンの哀しい顔がわずかに消えた。
「……強いな。きみは……」
「……なんて……。少し虚勢を張ったけれどね……」
本心では、『星霊』のような身体になりたくない。人間のままで生きていたいという気持ちがある。これはまだ憶測でしかないが、今よりもさらに星霊の力を得てしまうと、なにかの弾みで『あの能力』が復活してしまうのではないかと思ってしまう。
だが、誰かがやらなければならない。聖杯をどうにかできるのは、おそらく自分だけだ。
「それでも強い……。大したものだ……」
そう言って、アイオーンは悲しげに微笑んだ。ユリアの覚悟は本気であり、恐れがあっても変わらない意志なのだと受け取ってくれたようだ。




