第二節 雨のなかの決意 ①
「涙が……黒い……」
右側の手先から肩だけでなく、涙までもが黒く変質している。ユリアの目から流れた黒い涙が地面に落ちると、しみ込んだところに生えていた草が一気に枯れてしまった。涙が、毒となってしまっている。それにこの色は、聖杯の泥と同じ色。黒い涙を目にした仲間たちは衝撃を受けて言葉が出ない様子だ。
ユリアは、負の感情で混沌とした自らの心を必死に抑えつけ、冷静さを保とうとしていた。しかし、身体の内側から大きな力が渦巻いており、それが表に出ようとしはじめている。
「──だめ……!! 表に出てこないで……!!」
自分の力ではない強大な力を止めようとするも、言うことを聞いてくれない。さらに、何もしていないのに、自身の周囲にある大気中の魔力が増えている。この魔力は身体の内側から溢れ出ているものではない。大気中の物質が魔力に近い物質へと変化しているからだ。聖杯の力が暴れているせいだろう。
聖杯の力が抑えきれない。ユリアは俯き、人間のままの手と、化け物となった手で顔を覆った。その姿を目にしたアシュリー、クレイグ、イヴェットは、彼女へと手を伸ばそうと腕を上げる。そして、ラウレンティウスは、突発的にユリアに駆け寄ろうと足を動かす。
「寄るな!!」
「駄目だ!!」
しかし、アイオーンとテオドルスの怒声により、三人は伸ばしかけた手を止め、ラウレンティウスはテオドルスによって腕を掴まれて行動を制止された。そして、アイオーンはアシュリーに声をかける。
「アシュリー! 魔導無線機を一台と、保管庫から採血した血が入った試験管をできるかぎり持ってきてくれ!」
「わ──わかった!」
アシュリーはアイオーンの言葉に応え、急いで屋敷のなかに向かった。採血した血とは、ユリアとアイオーン、テオドルスのものだ。その三人の血には高濃度の魔力が含まれているため、緊急時に使えるとみて大量に保管していた。
仲間が駆け寄ろうとしてくれたが、アイオーンとテオドルスに止められたことで、仕方ないと解っていてもユリアは少なからずショックを受ける。
あのふたりが、ここまで焦ることは珍しい。そして、自分が仲間を傷つけた記憶がまったくない。意識を完全に乗っ取られていたせいだ。聖杯は、ユリアが生み出す膨大な魔力を最大限まで利用して組み上げて作った術式すらも解き、彼女の身体すらも変質させてしまう力まで持っていた。昨夜は弱い傀儡術程度の力だったのに、どうして今になってここまでの力を発現させたのか。聖杯の動きがまったく読めない。
「姫さん! 大丈夫だ! 絶対になんとかなるから!」
「気をしっかりと持つんだ! 今、聖杯の力で大気中に魔力が満ちていっている! それを利用すれば、ユリアの力を抑制することができるはずだ! アシュリーが来るまでなんとか持ちこたえてくれ!」
ダグラスとテオドルスが、ユリアの精神を落ち着かそうと声をかける。その声がユリアに届いたのか、彼女は両手を顔から離し、顔を上げた。
「──これは……どこ……?」
しかし、ユリアはまったく意味のわからないことを呟きはじめた。
この時のユリアの脳裏には、見たこともない風景が浮かんでいた。行かねばならないという衝動に駆られ、足を後退させる。
「ユ、ユリアちゃん……?」
イヴェットが怪訝そうに呟く。
「最後の、欠片──そこにある……。早く、回収しないと……」
そう呟きながら、ユリアの目に力が無くなっていった。
アイオーンが彼女に駆け寄ろうと足を動かしたその時、ユリアは瞬間移動したかのようにその場を消えた。
「ユリア!?」
クレイグが叫ぶ。
「──ッ」
ユリアが居なくなり、アイオーンは苦虫を噛み潰したように顔を歪ませながら手のひらに魔力を収束させた。すると、空間が歪む。その歪みから、ユリアの両親の形見である剣が姿を現した。魔力が満ちているからこそできる物体の空間転移術だ。
「アイオーン! ──って、ユリアは!?」
後ろから黒い鞄を持ったアシュリーが叫ぶ。
「消えた! わたしが追う! 鞄を投げろ!」
アシュリーはアイオーンに黒い鞄を投げた。投げられた鞄を取った瞬間、アイオーンはテオドルスに「無線機に連絡を入れる」ということだけを言い残すと、地を蹴り上げてその場から去っていった。
「無線機に連絡……。ということは、誰もついてくるなということか……」
眉を顰めながらテオドルスは呟く。
会話に出てきた魔導無線機とは、魔力を利用した無線機である。どれだけ魔力が薄くても、どれだけ距離が離れていようとも、大気中に魔力があるかぎりはどこでも対象となる機器を持つ人と会話ができる発明品である。とても便利ではあるが、魔導無線機を一台作るだけでもかなりの費用がかかり、素材を集めることも難しく量産はできないものとなっている。ヒルデブラント王国でも、魔導無線機の保有数は特務チームが持つ二台しかない。
その後、しばらく誰もが呆然として動かず、声も出せなかった。やがて、陽の光が空を射しはじめた頃、ラウレンティウスがテオドルスに問いかけた。
「……今……俺たちにできることは……?」
「……アイオーンの連絡を待とう。今の私たちは、連絡を待つしかない……。だから、もう一台の魔導無線機は私が預かっておくよ」
◆◆◆
ユリアは、意識の主導権を取り戻した。
ここは、どこなのだろう。
空にはすでに太陽が昇りきっているが、厚い雲に覆われているため薄暗い。それに空気が湿気を含んでいることから雨が降ってくるかもしれない。ユリアが今立っている場所は、植物が生えていない赤みを帯びた平坦な地面のように見えるが、周囲を見渡すと崖があり、山の上だということがわかる。崖から見下ろすと、そこには森と川が流れる谷がある。赤みを帯びた平坦な頂を持つ山は、長く連なっている。
不思議なことに、寒いのか暑いのかよくわからない。時間もそれなりに経っているはずなのだが、空腹感はない。
そして、大気中には、町のなかとは違って濃い魔力を感じる。聖杯の力が作り出した魔力ではない。もしかすると、この地はアヴァル国の母なる息吹があるという渓谷だろうか。今見える風景が、話に聞いていたそれらしいところだ。
「……」
強い風が吹いた。遮るものがないため、強風はユリアの身体に激しくぶつかる。まとめていない長い金髪が無造作に舞い上がった。これだけ風を受けているのに、肌からは寒暖を感じない。風の感覚もない。そして、裸足で歩いているのに、痛みどころか地を歩く感覚すらない。何の感覚もなくなっていることに気がつき、本当に自分はこの世界に存在しているのかが判らなくなった。だだっ広い平坦な山の頂にぽつんといることがとても寂しく、無性に大声を出して泣きたくなった。
だが、今は泣けない。泣いているときではない。たったひとりでも、何ができるのかを探すべきだ。まずは、今の自分の状況を調べてみなければ。
ユリアは、体内を巡る魔力に集中した。右の手から肩にかけて聖杯の呪いによって変質しているように見える身体は、皮膚や服の上を覆っているだけで、身体そのものが変化しているわけではないとわかった。しかし、その力の一部は身体の内部に侵入している。
星霊や魔術師と呼ばれる人間には、自身が持つ力とは異なる力が体内に入り込むと身体がその力に影響されて順応し、変質を経て自らの能力とするという性質がある。それは、いわばコピー能力といえるだろう。
この性質には個人差があるが、ユリアは生まれつきその順応力が極端に高く、かつ魔力耐性も非常に高い。だからこそ、アイオーンの血を飲んだ影響で、アイオーンの強大な力を得てしまった。
早く聖杯の呪いを身体から引き剥がさないと、星霊の血を飲んだときと同じことが起きてしまうだろう。今よりもさらに『人間』から遠ざかり、『星霊』に近い生き物になってしまう。
現在、聖杯の呪いの動きは落ち着きを見せている。それでも、また意識の主導権を奪われてしまうのだろうか。ここまで強力な力を持っていながらも、その力の動きが強まるときと弱まるときがある。ここが聖杯の奇妙なところだ。まるで二重人格のような動きである。
仲間は、大丈夫なのだろうか。そのことを思うと強い焦燥感が胸を締めつける。




