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第一節 死神のいざない ②

 それから時が過ぎ、次の日付に変わったばかりの時刻のことだった。

 寝間着を着たユリアが、ベッドから起きあがった。

 彼女は、なぜか靴どころかスリッパすら履かずに自室を出ていった。音を立てずに向かった先は手洗い場──ではなく、そこを素通りする。素足のまま玄関へと向かい、また音を立てずに扉を開けた。

 そして、素足であることを気にする様子もなく石階段を降りていき、石畳が敷かれた庭を歩く。道のわきにはレンガ造りの花壇があり、庭の中央には神話の登場人物を模したオブジェがある古い石造りの噴水が設えられている。その噴水を通り過ぎ、両脇に木々が綺麗に並んでいる少し長い道をどんどん歩いていく。

 ついに、ユリアは敷地内の出入り口となる鉄格子門に着いた。両手で鉄格子を掴み、動かそうとするが、動かない。鍵がかかっている。すると、ユリアは門に足を上げてよじ登ろうとしはじめた。普段の彼女ならば、地を蹴り上げて飛び越えられるものだが、今はアイオーンの術式のせいでそれすらできない状態となっている。なんの力も持たないただの普通の人間と変わりない。

 その時、背後から誰かの手が伸びてきて、ユリアは二の腕を掴まれた。


「──何をしている」


 寝間着姿のアイオーンだった。

 しかし、ユリアからの返答はない。彼女の動きは一時的に止まっていたが、また門を登ろうと動きはじめた。異常状態だと感知したアイオーンは、ユリアに強く呼びかけながら腕を引っ張る。


「ユリアッ!!」


 すると、ユリアは鬱陶しそうにアイオーンの手を払った。そんな彼女の目には、意思なき人形の気配を漂わせている。これは、聖杯に操られているからだ。それでも動きは鈍い。彼女の力が、術式によって普通の人間のようになっていることもあって強い攻撃はしてこない。

 アイオーンは、ユリアの身体を抱きしめ、門から無理やり引き剥がした。すると、ユリアは身を激しくよじらせ、アイオーンから離れようと暴れだした。しばらくの間、ふたりはもみ合いになり、最後はアイオーンがユリアを地面に押し倒した。アイオーンの片手で両手首を拘束されたユリアだが、まだ抵抗の意思を見せている。アイオーンは、もう片方の手の指先をユリアの額に当てた。傀儡術を解除した後、ユリアの動きが収まり、目つきも穏やかなものとなって目を閉じた。


「……んん……?」


「……気がついたか」


 本来のユリアに戻った。

 ユリアが目を開けると、そこには見慣れた美形がいた。そして、自分の両手は、相手の片手で拘束されて押し倒されている。理由を知らなければ完全に『事案』であった。


「んんっ!? えっ!? ア──!」


「わたしの『事案』ではない。きみの事件だ。それも笑い事では済ませられん(たぐい)のな」


 自身の置かれた状況に驚きを抑えきれなかったユリアは、思わず大きな声を出そうとした。だが、叫ばれて事態を面倒にされることを危惧したアイオーンは、ユリアの口を手のひらで塞ぎ、真顔で棒読みかつ早口で説明した。そのおかげで誤解はされずに済んだが、ユリアはいまいち理解が追いついていない。


「わ、私は……どうして外に……」


「何も覚えてはいないのか……」


 アイオーンはユリアから退き、彼女に手を差し伸べた。


「──きみは聖杯に操られ、この門を越えようとしていた」


「……!?」


 ユリアの顔に、はっきりと恐怖が浮かんだ。震えた手でアイオーンの手を掴み、立ち上がる。


「やはり、きみの指輪に術式を仕込んでおいて正解だったな……。その術式が、わたしの指輪に知らせてくれた。だから、すぐにここへ来ることができた」


 そう言いながら、アイオーンはユリアの身体を調べるように触れた。やがて、アイオーンは眉を顰めた。


「……やはり、身体に組み込んだ術式がもう解けはじめていたか。また組み直さねばな……」


 術式が解けていたせいで聖杯に操られてしまったのか。もしかして、深い眠りに落ちると何も抵抗できないのではないか。ユリアは肩を落とした。


「……私は……なるべく眠らないほうがいいのかしら……」


「何を言う。人間なのだから、眠ったほうがいいに決まっている」


 すると、アイオーンは何かを思いついたのかイタズラを企む子どものような意地悪な笑みを浮かべた。ユリアの顔の横を垂れる一房の髪を持ち上げ、それを親指で撫でる。


「──しかし、眠ることに不安を感じているのならば、今夜はわたしと共に寝るか? わたしはそれでも構わないが」


「なっ……えっ!?」


 予想外の言葉と仕草に驚いたユリアは、思わず持ち上げられた髪を勢いよく奪い取って後退(あとずさ)った。心臓が激しく鼓動してしまってうるさい。


「フ──。冗談だ」


 イタズラを企む顔が消え、優しく微笑んだ。

 その差に、ユリアは少しだけ胸がときめいてしまった。不安を紛らわせるために言ってくれた冗談なのは解っている。

 それでも、なんだか胸のなかが落ち着かなかった。見慣れた美貌だが、滅多に見ることができない表情を見たせいだろうか。この人がたまにこんな冗談をいうときはあったが、そのうえ細やかに表情を変えながら言うことは珍しい。言ったとしてもほとんど無表情のはずだったのに。


「……」


 ユリアは、真っ赤に染めながら悔しそうに口をへの字に曲げて、アイオーンを軽く睨みつけた。

 その見た目があまりに子どもらしかったためか、アイオーンは「ははっ」と小さく笑った。


「すまない。わたしは、昔からきみの驚いた顔や照れた顔が好きでな」


 また珍しい顔を見ることができた。アイオーンがはっきりとした笑い声を出したことに、ユリアは目をぱちくりとさせる。


「……そうなの?」


「これでも、初めは反応が見たいがために口づけるようになったのだ。顔を近づければ、きみは照れた顔を見せてくれただろう? 初めの頃は、ただそれだけだったのだが……いつしか、きみへの(つたな)い想いを自覚したことで、口づける目的が変わってしまっていた……」


 アイオーンは、ばつが悪そうに目線をそらした。

 口づけ自体は、アイオーンの『器』が完成した後から始まった。なので、およそ五年前。身体を再び得たアイオーンに、不意に顔を近づかれて思わず頬を真っ赤に染めた覚えがある。

 それから、アイオーンが『人間には、親しい人に愛を伝えるために頬や額などに口づけをする習慣がある』という知識を知ったこともあり、口づけることを始めたのだと思っていた。


「……たしかに、慣れるまではあなたの顔が綺麗だから、少し緊張していた時期があったわ。──それにしても、アイオーン。ここ最近、なんだか雰囲気が変わったわね」


 しかし、ユリアはそれまでのアイオーンを咎めることなく、嬉しそうに微笑んだ。

 今までのアイオーンは、神秘的でミステリアス、どこか不思議で普通の人ではない雰囲気があった。笑う時ももちろんあったが、控えめなものが多かった。

 しかし、今は神秘的でミステリアスというよりは、実はノリが良いといいという意外性のある美形だと感じる。それに、ここまで自分のことを進んで詳しく開示してくれることは滅多になかった。


「……わたしの精神は、人間と変わらない『普通』のものだった。そのことにようやく気がつき、それを受け入れることができたから──だろうか……」


 と、アイオーンは星を見上げながら言葉を紡ぐ。そして、遠慮がちにユリアを見た。


「……また少し、わたし自身のことについて話してもいいか?」


「ええ。どうぞ」


「今ならば、少し言語化できる──実は、今までのわたしは、きみたちと共にいてもずっと『何かが違う変わった存在』なのだと思い込んでいた。特別な力を持ち、星霊としても特異な存在だったがゆえに、わたしの真なる心は誰にも理解できないものだと決めつけ、そのことを話そうとは思わなかった。……結果、わたしは誰かといても、不思議と孤独感や疎外感のようなものを感じていた」


「そうだったの?」


「ああ……。昔から皆に受け入れられて、それに甘えていたというのに、なぜそんな意識を抱いていたのか不思議だが──おそらく、心の芯というものを持っていなかったからだろう。それゆえの思い込みだ……」


 自らの考えを変えることは、容易ではない。それなのにアイオーンはいとも簡単にやってのけた。この人自身が、自分を変えたいと強く望んでいたからだろうか。


「けれど、あなたはその『壁』を乗り越えられたのね」


「そうだな。──心に種族などない、という言葉を貰ったことがきっかけだった。それから、さまざまなことを考え、やがて自分は『自分』なのだと思い至ることができた。……どうして、ここまで単純なことを理解できなかったのか……自分でも不思議に思うがな……」


 その言葉を呟いた後、アイオーンは自嘲の笑みを浮かべて、目を伏せてため息をついた。


「それでも、解ることができた──人間だろうが、星霊だろうが、その他の何かであろうとも関係ない。わたしは、今まで生きた時間も含めて、自分に誇りを持って今を生きていきたい。そして、きみたちの隣に立ち、共に支えあうことができる人になっていきたい」


 なんとなくアイオーンの口調も変わっている気がするのは、そのように意識が変わったからかもしれない。表情も明るさが増し、はっきりと感情を表に出せている気がする。アイオーンのことを知らない人からすれば、まだ近寄りがたい存在に見えるかもしれないが、少し前の頃と比べて気さくそうな雰囲気をまとっている。だから『持たざる者』だった子どもたちも、アイオーンに対してそこまで気後れせずに話しかけていたのだろう。膝の上ですやすやと眠る子もいるほどに。

 誰かから心に響く言葉を貰い、そのように変わったと言うが、それは誰だろう。気になる。でも、それを聞くのは無粋な気がした。

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