17 シャングリラ・ドリーム(1)
アウルは小洒落たカフェの入り口の、明るい色のタイルが貼られた階段に尻餅をつくようにして座り込むと、両手で顔を覆った。
「こんな・・・・・」
ここに来た最初の頃、アウルには見るもの聞くもの全てが珍しく、世界は輝いて見えた。
憧れていた「先進国」の生活は、目くるめく・・・どころか目眩そのものであるかのような新しい刺激と経験の連続だった。
その現実は、彼女が難民キャンプの中で空想していた「都会生活」など、はるかに凌駕してしまうものだった。
あのアフリカの乾燥しきった大地に設営された難民キャンプでの生活は、ただ毎週支給される支援物資を受け取り、それを次の週まで保たせるようにするだけの単調極まりないものだった。
十分な医療も受けられないその中で、アウルは弟のバダを失っていた。あと1年で移住が始まる——という時だった。
もう少しで、あの子も来ることができたのに・・・。
そう思うと、独り部屋の中で涙が止まらなくなることもあったが、それでも翌日になれば、大勢の友だち(こちらに来てからできた)が、まるで彼女のこれまでの人生を埋め合わせしようとでもするように、新しい楽しさへと引っ張り出してくれた。
初めのうちは「何も知らない田舎者」という目で見られるのではないか、とやや尻込みしていたアウルだったが、新しい友達は誰もそんなふうに彼女を扱ったりはしなかった。
むしろアウルの経験譚を——自分の知らない世界の話——として興味津々で聞いてくれたし、弟のバダのために真剣に祈ってもくれた。
黒い髪の人、紅い髪の人、茶色い髪の人、金色の髪の人・・・。いろんな人と友達になれたが、皆、優しくて親切だった。
「アウルはさ、本当に心の底から楽しんでくれるから嬉しいんだよ。僕らは——。」
黒髪のジュンゴが、ある時そんなふうに言った。
「人間の幸せってね、誰かが喜んでくれることなんだ——と思うんだ。僕は。」
彼は劇団のメンバーで演劇をやっている。ここに来る前からそうだったのだが、ここに来て生活の心配がなくなっても、そのまま演劇を続けていた。
「演劇ってさ、舞台からお客さんの反応が見えるんだよ。そうして僕たちの演劇に合わせて、お客さんが一斉に同じ反応を見せる。その瞬間が、この仕事の最高の瞬間なのさ。役者やっててよかった!——って思える瞬間なんだ。」
そんなジュンゴの語りに、カスミも同調した。
「そうだよね。アウルはみんなに幸せをくれるよね。」
アウルにとって、こちらに来てからできた友だちは心の底から好きになれる人ばかりだった。
不快な人に会う、ということがほぼなかった。
これが——。
心の距離がそのまま空間の距離になってゆく、というシャングリラ独特の世界であるらしい。
アウルは楽しかった。
みんなと燥ぎながらも、アウルはジュンゴが自分に気があるらしいことにも気づいていた。キャスリンがそれとなくアウルの背中を押そうとする。
それは分かってはいるのだけれど・・・。でも、他のみんなとの距離も離れたくない。ジュンゴとだけ特別な関係になってしまえば、みんなとの距離がそれだけ開いてしまうでしょ?
「君のいない世界なんて、考えられない。」
だから、ジュンゴがそんなふうにアウルへの気持ちを表現した時、アウルは
「うん。わたしもみんなのいない世界なんて考えられないよ。」
と方向を変えて流してしまった。
わたしだってジュンゴのことは好き。でも、みんなのことも好きなの。——だから、もう少し待って。もう少しだけ。
アウルはこの世界に来てから、ずっと楽しかった。
これがいつまでも続く、と思っていた。
アウルが、自分の心の中に何かの空洞があることに気がついたのは、移住して半年くらい経った頃のことだった。
友だちとどんなに楽しい時間を過ごしていても、その空洞が埋まらない。こんなに幸せなはずなのに・・・、その空洞が埋まらない。
それどころか、幸せなほどそれは大きくなってゆく。
「ねえ、どうしたの、アウル? 最近、浮かない顔してるよね。何かあったの?」
「ううん。何もない。」
とアウルは慌てて笑顔を見せる。
本当に、何もないのだ。不快なことなんて——。みんなと居られるの楽しいし、みんな優しいし——。
笑顔でいなきゃ。みんなの幸せのためにも———。
でも・・・、この空洞は、何なの?
何かが、決定的に足りない。
最近、家族と会えないからかな?
同じ家に住んでいるはずなのに、時間が合わないからか、それともそれぞれに興味の向く場所が変わってしまったことによるシャングリラ独特の空間距離なのか。
アウルはなんだか1人だけ、家族から迷子になってしまったような気がする。たしかに、もう何ヶ月も家族に会っていない。いや、会えなくなってしまった。
これが、心の距離がそのまま空間の距離になるということ?
たしかに、あの難民キャンプは劣悪な場所だった。ここはそれに比べたら、まるで天国のよう。
でも・・・、あそこでは家族が一緒にいた。お父さんもお母さんも、上の2人の兄も——。バダのお墓だってあった。
いや、ここにだって同じ家族がちゃんといる。ただし、どこかアウルの知らない場所に——だけど。
見えないけど、家族の1人1人はみんな、それぞれが望む世界に生きているはずだった。ただ、その世界とアウルの世界の接点が最近見つからなくなってしまった。
ジュンゴはまた会えるって言うけど、それはいつ? どこで?
このせいだろうか、この空洞は?——ともアウルは思ってみるが、それだけではない気がする。
いやむしろ、それは大した話ではなく・・・・。
そうして得体の知れない不安を抱えたまま、みんなと一緒にお茶をしてカフェから出ようとした時、不意にアウルの胸に、1つの言葉がリフレインした。
——君のいない世界なんて、考えられない——
その瞬間、アウルは空洞の意味を理解してしまった。
この世界には、バダがいない!
バダがいない!!!!
バダにはもう絶対に会えないのだ。
わたしはここで永遠に生きてゆくというのに、バダはここにいないのだ。
永遠に、いないのだ!
移住前に死んでしまったバダ。あの赤茶けた大地の下にただ一人で眠っているバダ。かわいそうな弟——!
バダはいないのだ! この世界のどこにも——!
バダは、いないのだ!!!!
バダのいない世界で、わたしは永遠に死ぬこともできずに生きていくの? 生きていかなきゃならないの——?
アウルはカフェの階段に座り込んで、両手で顔を覆ってしまった。友だちのために笑顔を見せることもできなくなってしまった。
「こんなこと・・・、いくらしてても幸せになんかなれない!」
友人たちが心配そうに覗き込むが、アウルは顔を覆ったまま、ついに何かの関が切れたように怪鳥の鳴き声のような嗚咽をあげ始めた。
「バダが・・・いない・・・・! この世界には、バダがいない・・・・。」
「こんな・・・・」
アウルの前のタイルの上に、ぽたぽたと雫の跡が増えていった。
「こんなことなら・・・・。バダの隣にわたしも埋まってしまえばよかった!」
アウルの肩に手をかけようとしたユミリアをカスミが止めた。悲しげな顔で静かに首を振る。
私たちでは代わりになれないのだ、きっと・・・。
「わたし・・・、死にたい・・・。死にたいんだ! 今、分かった・・・。死んでバダのところに行きたい! なんで、ここじゃ死ねないの?」
ジュンゴがアウルを背中から抱きしめた。
「そんなこと、言わないでよ。僕にとってはアウルが、君が、こんなに大切な人なのに!」
アウルが少しだけ振り返って、ジュンゴの顔を見た。微かに微笑もうと努力する。が、その努力は実らなかった。
「・・・ごめんね・・・・。」
それだけを言うと、アウルの体は煙のようにジュンゴの腕をすり抜けてしまった。
そのままフラフラと立ち上がり、歩き出す。ジュンゴが泣き出しそうな顔で、立ち上がってアウルの後を追った。
アウルが初めの角を曲がり、それをジュンゴが追いかけて曲がった時、その道のどこにもアウルの姿はなかった。




