約束を破ったK君
これは私が小学校二年生の時の話です。私の学校では二年ごとにクラス替えだったので、一年生の時と同じ先生、クラスメイトのまま学年が一つ上にあがりました。初めての下級生が出来ただけで、ちょっと偉くなったような、嬉しいような気がして舞い上がったものです。
私は当時、クラスの中のある男子グループに入っていました。仕切り役のS君が居て、それと一緒に居る数名の一人が私でした。今思うとS君はリーダーの素質があると言うより、声が大きく、物言いがハッキリした人物だったと思います。勉強も運動もそれなりに出来ていました。彼も何となくそれが自慢だったのでしょう。そしてそれを取り巻く人間達は彼のその堂々とした態度に、特に文句も言わず付いて行くという感じでした。考える必要が無いのは楽ですからね。そしてそのグループの中にK君という男の子が居たのです。K君は勉強も運動もS君とは反対にそれほど得意ではなく、先生も簡単な問題に答えてもらおうと配慮するのですが、それも彼にとっては難しいようでした。学校の先生は生徒を平等に扱わないといけないので大変な職業ですね。ただK君はとても素直でいい子だったと思います。しかし先生が彼に何か質問する時や、体育の授業の時にドッヂボールで彼と同じチームだと何か少し重たい空気を感じるのでした。今思うと、うっとうしかったのかも知れません。質問に答えるまで時間がかかるし、その答えも的を射ていないものが多く、ドッヂボールでも率直に言うと足手まといでしたから。そんな時S君の発言力は非常に心強かったのを覚えています。K君が何か間違えたり上手く出来ないと、
「おいK君!何やってんだよ!」
と私、もといクラスの生徒全員が心の中でぼんやりと思っていた事を口に出してくれたからです。そうするとK君は、
「……ご、ごめんなさい」
と肩をすくめて申し訳なさそうに謝るのです。彼の惨めな姿を見ると私の心の中が幾分かスッキリしました。
子供はよく純粋とか無垢とか形容されますが、どうもそうは思えません。ただ具体的に表現する術が無いだけで、他人を蔑んで自分が正常だと安心したかったり、予定調和の結果を求めて裏で駆け引きをするくらいはしていたような気がするのです。たまにオブラートに包まず、率直な発言で大人達をギョッとさせるのも決して清廉さから来るのではなく、ある程度ネガティブな感情を感覚的に分かった上で発言しているのだと思います。ただ大人が子供に清らかな偶像を勝手に押し付けて、自分にもそんな時があったのだと思いたいだけなのでしょう。大人も子供も本質的な違いはありません。きっと我々人間は自分たちが思っている程高等でも良く出来てもいないのです。
話を戻しましょう。そんなK君でしたが、この男子グループではそれなりに楽しくやっていたと思います。休み時間や放課後は一緒にサッカーや鬼ごっこをして遊んでおりました。体を動かすとそっちに神経を使うので、誰もK君の事をそこまで考えたり咎めたりしなかったのです。皆平等に楽しくやっていました。私達は放課後よく学校から少し離れた公園で遊んでいました。なぜかというと、その公園は他に遊ぶ子供が少なく、ほぼ自分たちで占領出来たからです。
春の爽やかな風と日差しが心地よい五月、ちょっとした事件が起きました。いつもの様にS君を中心とするグループは、例の公園で学校が終わった後遊ぶ約束をしました。勿論みんな集まるのですが、その日K君だけいつになっても姿を現さなかったのです。最初はK君を待っていたのですが、もうじっとしていられず、彼無しで遊び始めました。そして五時のチャイムが鳴るまでキャッキャと走り回った後、K君はどうしたんだと言う話になりました。きっと忘れたんだ、急に大事な用が出来たんだ、俺たちはすっぽかされたんだと喋っていると、
「よし、あしたK君が学校に来たら聞いてみよう。それが一番良い」
とS君が言い、みんなが賛成しました。やはり彼は頼りになります。
翌日、K君は普通に学校に来ました。昨日の約束を破った自覚がないようで、いつも通りに「おはよう」と言って自分の席に座ります。私は彼のあっけらかんとした態度に少なからず怒りを感じました。するとS君が、
「おいK君、ちょっとこっちに来い。あとみんなも」
と言いました。私達は彼の通りに動きます。
「どうしたのS君?」
彼はキョトンとした顔で聞きました。
「どうしたのじゃなくて、昨日の約束は覚えてないのか?」
「約束……あっ、ごめん」
ようやく事態を飲み込んだようです。みんな怪訝な顔でK君を見つめました。まるで異分子を蔑むような視線です。そうやって彼を精神的に追いつめました。
「えっと、昨日学校から帰ったらお母さんがデパートに行くって言うから、それについて行って……」
「はあ……それで約束を破ったのか」
S君が大げさにため息をつきました。
「ご、ごめんなさい。もうしないから……」
「……本当かい?」
S君がニヤリと笑います。
「うん、絶対約束もう破らないから」
「分かった、じゃあ今日も約束をしよう。いつもの公園で学校が終わったらみんなで遊ぼう。もしK君がちゃんと来たら許すよ。絶対俺たちが来るまで待ってるんだぞ」
「うん分かった!」
「よし、じゃあK君は戻っていいよ」
S君がそう言うと彼は安心して戻って行きました。
「よしみんな、今日は違うところで遊ぶぞ。K君は俺たちの約束を破った。こっちも同じ事をしてあいつに分からせてやるんだ。良いな?」
私達に聞こえるぎりぎりの声でS君が囁きました。
「オッケー、分かった」
みんなニヤニヤしながら返事をしました。ささやかな仕返しです。自分たちの約束を破ってデパートに買い物だなんて。日頃無意識に溜まっていたK君に対する鬱憤もあったのでしょう、だれも反対する人はいませんでした。たった一度ではありますが、私達にとっては正当な口実で、K君に嫌がらせをする機会を得たのですから。その日の放課後、いつもの公園とは違うところで、私達は彼無しで思いっきり遊びました。いざ体を動かし始めるとK君が昨日約束を破った事などすっかり忘れていました。実際彼が居ても問題は無かったのでしょう。
さんざん遊んだ帰り道、誰かが、
「K君はまだ待ってるかな?」
と聞きました。
「どうかな、一時間くらい待って帰ったんじゃないかな。さすがにもう居ないだろ」
とS君が答えます。
「そうだよな。馬鹿じゃあるまいし、ずっと待ってるはず無いよな」
みんなげらげら笑いました。
「明日K君が学校に来たら、これは君がこの前俺たちにした事だぞって言ってやろう。そうすれば反省するだろう。これでおあいこだ」
「うん、このぐらいしなきゃ。だってS君が言うまで約束にさえ気がつかなかったんだから」
「あれはダメだよ。正直腹が立った」
みんなでK君を責めました。きっとどこかで彼を置いてけぼりにした罪悪感があって、それをどうにか正当化したかったのでしょう。
この日の夕焼けは私を妙に不安にさせました。沈みかけのゆらゆらした太陽が、濃いオレンジ色の光で私達を照らし、雲は紫色です。建物の影が真っ黒く地面を染めていました。
次の日は梅雨を感じさせるような、じめっとした灰色の天気。外で雨粒がぽつぽつと音を立てていました。K君はなかなか学校に姿を現さず、誰かに昨日の事を告げ口したんじゃないのかと、不安が私の脳裏をよぎりました。大人達に叱られたらひとたまりもありません。正直内心おどおどしておりました。そして彼が結局来ないまま、先生がガラガラと教室の前の方の引き戸を開けて入ってきました。するとどうでしょうか、いつもニコニコしている担任のA先生の顔が青ざめています。
「みなさん、おはようございます。今日は座ったままで良いです」
これは今までに無い事態です。A先生は若くて綺麗な先生でしたが、挨拶とか、きちんと列になるとか、そういった儀礼的なものを重んじていた人だったからです。何かただならぬ予感がしました。
「実は今日みなさんにお話ししなければいけない事があります。気づいている人も居るかも知れませんが、K君が今日学校に来ていません」
やっぱり彼は先生に話したな、きっと今から名指しで怒られるに違いない、と思いました。今考えると子供同士のちょっとしたいざこざで、こんなにピンと張りつめた空気になる事はまずないでしょう。でも私は小学二年生でした。そこまで客観的に物事を判断する力は無かったのです。先生は続けます。
「実はK君が昨日の夕方からおうちに帰っていません。K君のお父さんとお母さんはおまわりさんに連絡をして、今も探してもらっています」
教室が一気にざわつき始めました。先生が手をパンパンと叩きます。またシンと静まりました。
「おまわりさんの話だと、K君が午後六時くらいまで公園で一人で居るところが防犯カメラの記録で分かったそうです。そして……K君は知らない男の人と手をつないで公園から出て行くところも撮られていました。なので今日からしばらく集団下校、集団登校をします。みなさんも学校が終わってから外で遊んだりしないで下さい。もしかしたらおまわりさんに何か聞かれる事もあるかも知れません。緊張してもいいので、答えられるところは答えてあげて下さい……そしてみなさんもK君が無事で戻って来る事を願ってあげて下さい」
一つずつ確認するように先生が話しました。私の頭の中は真っ白になってしまいました。ちょっとしたいたずらのつもりが何故こんな事に。最初から意地悪なんてしなければ…でも最初に約束を破ったのはF君だし…言い訳が頭の中をグルグル駆け巡ります。チャイムが鳴って一度先生は出て行きました。みんなK君の話で持ち切りです。私達は示し合わせたかの様にS君の席へ集まりました。
「どうしよう」
「こんな事になるなんて思わなかった」
「やばいよ」
と立て続けにコソコソと話し始めます。するとS君が、
「でも最初に約束を破ったのは向こうだ。K君が最初にすっぽかさなければ連れ去られなくてすんだんだ」
と言いました。
「確かに」
「自業自得だ」
みんなが同調します。S君が続けました。
「だから俺たちがK君に嘘の集合場所を教えたってのは絶対に誰にも言うな」
「警察にも?」
「勿論。もしなにか聞かれたら、ちゃんと待ち合わせ場所は言ったけどK君が間違えたんだろうって言うんだ」
「でも、嘘をついちゃ……」
「良いか、これはれんたいせきにんだぞ。誰かがへまをしたらダメなんだ。分かったか」
「……」
S君がさらに続けます。
「言いたくないけどK君は、その、そこまで頭が良くなかった。例え今日行方不明にならなくても、いつか別の理由で居なくなっていたかもしれない。第一知らない人について行っちゃいけないなんて常識だよ」
「……うん」
「そうだ、S君の言う通りだ」
「俺たちは悪くない」
全員が納得しました。こうして、S君のグループはれんたいせきにんでこの真実を隠し通す事にしたのです。結論から言うと警察の人に少し聞かれた事はありましたが、口裏を合わせる程ではありませんでした。変な男の人を見なかったかとか、そのくらいでした。K君は元々ふわふわしていましたから、それが攫われた一番の原因と思われていたようです。一人で公園でぼーっとしていても不思議ではなかったのです。それに警察の目的は犯人を逮捕してK君を救い出す事。私達がK君に嫌がらせをした事実を突き止めた所で、犯人は捕まらないし彼も戻って来ないのです。ただK君は私が大人になった今も発見されていません。
私が歳を重ねてもこの事件を忘れる事は出来ません。不意にK君の約束を破った時の悲しそうな顔や、遊んでいる時の楽しそうな姿がまぶたの裏に現れる時があり、そうすると私の心の中がチクチクと罪悪感で痛むのです。でもそんな時は、
「最初に約束を破ったのはK君だ」
「知らない人について行っちゃいけないなんて常識だ」
「これはれんたいせきにんだ」
というS君の言葉を思い出すようにしています。そうすると不思議とスッと心が軽くなっていくのです。