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雨鳥


 摺り硝子には、蛇が這った痕のように一本ずつ水が垂れ落ちていた。

 その一筋は重なり合って和紙のような皺を作る。窓枠が額縁の役割を果たし、あたかも一つのインスタレーション作品か水墨画かのように見えて、現代美術のような趣があった。宮部は雨が嫌いではなかった。

 さきほどまではまだらに乾いた土の色が残っていたグラウンドも、今は全体が濡れ切っていて均一な深い色をしている。雨音はささやかなざわめきになって、定期的に残響が重なり合うように瞬間煩くなる。まだ下校時刻を迎えていないのにもかかわらず、三階西側校舎の廊下には誰一人の姿もなかった。台風接近に伴い部活は休みになっていたし、そもそも定期試験も近い。皆もう今日は足早に家に帰ったのだろう。離れになっている図書館も、明かりはついているものの、上から見る限り靴箱はほとんど空いている――今からあそこで待っていても友人の伊木が来ることはないだろう、と思われた。

 雨音は群衆化していて、一つ一つの雨音をことさら聞き取れるわけではない。そのはずなのに、時折隙間を見つけたかのように、宮部の耳にコツンと音が入り込むことがあった。その音に合わせ、さっき勝手に「現代美術のようだ」と楽しんでいた雨痕が、その一筋の流れを保ったままに大きく左右に揺れる。

 おや、おかしいなと宮部は思う。

 見つめているうちに、重なった帯はジッパーか何かのように二つに割れた。裂けたあと、奥からはただひたすらに真っ暗な闇がこちらを覗いている。

 久々になかなかとんでもないことが起きているな、目を逸らさぬままに後ずさる。怪異を見つけたら、それから目を離してはならない。挨拶をされたら返事をしなければならないが、こちらから先には声をかけない方がいい。とにかくできるだけゆっくりと呼吸して待つのが一番よいと、そう教えられていた。

 やがて期待していた通り、一つの光が廊下の奥から近づいてきた。それは宮部の視界をほとんど覆い隠すようにして横切り、そして光が去った後、窓枠の中の風景はただの窓硝子に戻っていた。宮部はほぼ乾きかけていた目を閉じて、一度だけため息をつき、そして下校のためにまた歩き始めた。


  *


「――雨の幽霊?」

 無機物に魂があるわけではないさ、もちろん。と、宮部は少し笑って首を傾げた。そういうふうにしなければ、伊木は必要以上にこの問題を大げさに捉えそうだった。

「そっかー、昨日そんなことがあったんだ。心霊現象?」

 まあそうだ、むしろそうとしか言えないだろう。

 とはいえ、宮部にとって『心霊現象』は決して珍しいものではない。むしろ日常であるといってもいいぐらいだった。

 休みの日に家にいると、生きている人間よりも幽霊のほうを多く見る日だってある。たいていの霊は無害だし、昨日のような怪異と化すことはない。ただ、もしも宮部以外があの場にいたとしたら、あの現象はどのように観測されていたのだろうか、とふと思う。例えば伊木が隣にいたとして、彼はガラスがちぎれるように割れていくあの現象を見ることはできたのだろうか?

「宮部が見えるのって、動物の霊だけだよね。雨の中に微生物がいて――とか?」

 どうだろうな。そういう可能性はあるのかもしれないが、たとえば微生物がびっしりいそうな川へ行ったところで、俺の視界があんなふうになることはないし。

「水中の藻の霊とか、いない?」

 なんだそれ。見えるはずがない。

「ダメ? じゃ、ついに人間の幽霊が見えるようになったんじゃない?」

 人型じゃないのにか?

「あ、たしかに。でもなー、ガラスが割れるって、人間っぽいよなあ。動物は別にガラス割らないじゃん?」

 と言う伊木の下を、尾が潰れた犬が駆けていく。人間の足にぶつかるのをなんとも思っていないところを見るに、おそらく死んでからもう長いのだろう。

 宮部は、動物の霊が見えた。生まれてこのかた人型の霊は見たことがないから、おそらく視界に映るのは動物限定らしい。

「で、その話を俺にしたってことは、お祓い希望とか?」

 そう。伊木に、ちょっと手伝ってほしくて。

「えーっ、俺自身はまだ何もできないよ。寺系の仕事ならおじいちゃん呼んでこないと」

 そういうわけじゃないんだよ。伊木の得意分野について頼みたい――ちょっと、小さい物を動かしてほしいだけだ。

「ふーん? 動いてるものじゃないと動かせないけど、そのへんの前提条件はもちろん大丈夫だよね?」

 もちろん。その『物』は、とてもよく動くものだから。


  *


「――あー、そういうことか」

 伊木が納得したように校舎の窓枠の縁にある巣を見てうなずいた。

 巣があるのは、昨日宮部が怪異に出会った廊下の外側にあたる場所だった。

 あまり目立たないその巣には、一羽の鳥がいる。おそらく巣立ちを迎えているのに、ちょっとした構造の問題で、その鳥は巣の外に極めて出づらい状況になっていた。巣が作られている庇の上に落とし物防止の網のようなものが掛けられており、鳥にとってはまっすぐ飛び立つことができないのだ。

 動物だけど、動かせるか?

「生き物かー、微妙だね。まぁでも、鳥ならギリ大丈夫なんじゃない?」

 なんだそれ。と思わなくもなかったが、宮部が「藻の霊は見えるか微妙」と言うのと同じようなものなのだろう。

 伊木は目線をその黒い鳥に合わせ、根気強く待ち続けた。静止しているものを動かすことはできない――できない、わけではないらしいが、とても疲れるので、あまり向いていないらしい。

 伊木はかつて、自分の能力を、「ハンドルを切り替える仕事」だと言っていた。

 対象の物質そのものを動かし始めることはできない。ただ、その下にあるはずの、見えないレールの方向を切り替えることができる。そのレールやハンドルの存在を、生まれた時から知っている――というのが、彼の持つ能力の正体らしい。

 なお、人間を動かすことはできない。伊木の能力は基本的に『物』に対して働きが良いのだ。

 待ち始めて五分も経たず、鳥はその両翼を広げて大きく飛んだ。そして自身の知る最短距離で空を目指そうとして道筋にある網に当たる――はずだったところを、伊木がレールを切り替える。一度下に沈んでから網を避けて再浮上させれば、少しおぼつかない飛び方ながらも、鳥は問題なく飛び立った。

「結局、宮部が見た変なガラスとか真っ暗闇とかって、なんだったの?」

 さあ?

「あの鳥を助けてあげてくれ、って宮部に頼んでたんじゃない? たとえば、事故死した親鳥とか」

 そうかもしれないな。

 あるいは全然関係ないのかもしれない、とも思う。

「はっきりしないなあ……」

 まあでも助かったよ、飛ぶ鳥の軌道を変えられる友人なんて、なかなかいるもんじゃない。

「そりゃどうも。鳥の悪霊をお祓いして、みたいな依頼じゃなくてよかったよ」

 寺の息子としてはそういう依頼のほうを解けるようにしておくべきなんじゃないのか、と思いながら、宮部はついに木々の間へ消えていくその一羽の鳥の影を見送った。

 その姿が見えなくなった頃――コツン、とまるで窓ガラスを小さな嘴が叩くかのような音がして振り返る。

 もちろんそこにガラスはない。礼を言われたような気がして、宮部は一応小さく会釈を返した。


<了>



20260920 60M ワンライお題「廊下の雨音」 - 終了後最後の5文字だけ付け足しました……

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