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青鹿


 ぽーん。

 石を飛ばす、飛んでゆく、その軽やかな曲線を見つめながら、となりを歩く伊木の横顔を盗み見た。いつだって二人は連れ立って歩いていたので、わざわざ今、伊木の表情を確認する必要なんてない。たいしたイベントもない七月の終わり、夏休みモードに馴れ始めた倦怠をまとう身体をともなって、ふたりは歩いている。

 伊木が飛ばす小石の軌跡。明らかに不自然に、川面をすべる石のように、あるいは蛙が跳ねるみたいに、小石は飛んでいた。その石の、生きているみたいな跳躍。

「宮部。なにも、付いてこなくてもいいのに」

 伊木がふたたび呟いた。

 用があるのだ、と淡白に返す。

「用?」

 図書館に行くんだ。

「そんなのいつだっていいだろ、こんな朝早くじゃなくたって」

 涼しいから。

「涼しい?」

 そんなに詮索してひどいな。友達と歩くのに理由がいるのか?

「そんな殊勝な性格してないくせに……よく言う」

 ……。

 ある程度のじゃれた会話を切るように、伊木はため息をこぼした。

「なにか気になることがあるんだろ。言ってみろよ、今度はなんの霊が憑いてる?」

 伊木は両手を広げ、おどけたように聞いた。しかし何も答えるつもりにはなれない。

 べつに、たいしたことじゃないさ。

「お前の『たいしたことない』は、ぜんぜん、これっぽっちも信じられないんだよなあ」

 言って、伊木は再び小石を蹴った。

 重力に逆らって、たいした引力も斥力も磁力も電磁誘導も弱い力もないうちに、伊木はその小石を踊るように操っていた。まるで見えない透明な糸があるかのよう。いつだったか、伊木に尋ねたことがある。どうやって、石を動かすのか? 彼は答えた。

「どうやって腕を動かすのか、どうやって幽霊を見るのか、おまえ説明できるのか?」

 問われて、完全に口をつぐんだ。たしかに、「できる」ことは「できる」から「できる」のだ。宮部が動物の霊を見ることが「できる」のと全く同じように。

 そう、宮部は動物の霊を「見る」ことが「できた」。

 そして伊木は、小さな動くものの「軌道を変える」ことが「できた」。

 あまりにささやかで、しょうもなく、そして不思議なちから。説明できない、できたこともない、周囲に告げたこともない。ただ伊木と宮部はお互いの能力を知っていた。この力の源泉は分からなくとも、その力が「ある」ことだけは本当だ。

 理由なんてない。どうしてたった二本の足でもバランスを崩さずに歩けるのか、犬に聞かれても答えられない。どうして皮膚というやわらかい表層しか持たず、外殻を捨てているのに、毎月かすり傷をつくりながらも何とか生きていけるのか。どうして目が二つあって同じ方向を向いているのに混乱しないのか。あるいは爪も牙も保護色も足のはやさも持たない人間が、どうやってここまで繁栄を極めることができたのか――も。それと同じ。

 分からないことはどうしたって説明できない。

「ほんとうに大切なことは目に見えないのと同じように?」

 ファンタジーだな、伊木啓太。俺はゲーテの話をしたんだ。

 伊木はもう一度顔をしかめ、そして唐突に笑った。彼はよく笑う少年だった。

「でも、俺にとって大切なことはたった一つだ。宮部、お前もきっと同意してくれると信じてる。ああウィルヘイム、この真実は決して変えられないということなんだ。俺は小石を意のままに動かせるし、君は動物の霊が見える」

 伊木があまりに劇画的な物言いをするのに、宮部は半ば飽きかけていた。しかし彼の、括弧書きの台詞を唱えるような語り口には理由がある。単純に単調に、彼は演劇部の部員で、役者で、近々大舞台を控えているのだ。

「帰り、遅くなるけど大丈夫? 今日初めて合わせるんだ」

 本と一緒だからな。いくらでも待てる。

 伊木が青春よろしく演劇部の活動にいそしむ間、丸一日、図書館に篭る気でいる。

「さすが本の虫」

 そっちは? 劇、休み明けすぐなんだろ。

「うーん、俺はいいんだけど……相手が、なかなか」

 相手?

「そ。恋愛ものだからさ」

 なるほど、と得心する。

 伊木と、その「相手」とが、カップルで、そしておそらくはどちらかが主役なのだろう。華やかな伊木の青春らしいことだ。

 ま、当日を楽しみにしてるよ。じゃ、五時にまた。

 ひらり、と手をふる。伊木は笑って手を振りかえしてくれた。

「ああ――また」



 とは言ったものの、宮部は図書館を三時に出された。夏休みは閉館時間が早いらしい。

 約束の時間までは二時間もある。先に帰るか、二時間待つか――どちらにせよ、伊木に会う必要があるな、と考え、演劇部の部室を訪れることにした。

 それは北棟の端にある。遠大で蒸し暑い廊下を、宮部はたびたび休みながら歩いた。誰もいない学校の空気はどこか心地いい。いつもと違って汗臭くもないし、静寂の香りがしている。共用の教室が、自分専用の王宮のようにすら思えた。普段は立ち入りづらい上級生のフロアを横切って、宮部は北へ進む。

 演劇部の部室からは、外からでも聞こえるほど賑わいに満ちていた。ぴったりと閉ざされた扉の隙間から、人の声が漏れ出ている。

 ガラリ、と引き戸を開けても、特に誰の注意も引かなかった。十数人がまばらに作業する部室の奥に、衣装を合わせている伊木の姿が見える。お取り込み中のようだ。

「あれ? 宮部くんじゃん」

 突然の侵入者に、快く話しかけてきてくれたのは同じクラスの女子だった。えっとたしか名前は。

「川崎! もう、宮部くん有名だよね。名前覚えらんないって」

 ばれていた。照れ隠しするように頭をかき、しかしその仕草もどこかしらじらしい気がして、宮部はすぐに本題に入った。

「ああ、伊木くんね。二人仲良いよね~。結構、なんでも知ってたりするの?」

 なんでもじゃないけど、それなりには。

「ふうん……いいね、そういうの。男子の友情、って感じで。伊木くんと宮部くんも、恋バナとかする?」

 こっ、恋バナ? と思ったが、実は結構する。ただ、実体験というよりも、小説の中の話ばかりだけど。

 あいまいに微笑んで済ませることにした。

「あっ! 伊木く……だめだ、ごめん。監督が話しかけちゃった。ちょっと待っててくれる?」

 まあ、直接話す必要もないんだけど。伝言だけしてくれれば。

「伝言? するする! なんて言えば良い?」

 川崎さんは顔が弾けとぶんじゃないかと思うほど笑った。明るい人なのだ。

 ありがとう。今日、先に帰るからって伝えてくれれば。

「夏休みにまで、一緒に来たり帰ったりしてるんだねえ……」

 そう。俺は図書館、伊木は演劇。

「すっごい仲良いんだね。そんなんじゃ伊木君、今日一人で帰るのさびしいぐらいなんじゃない?」

 いや、さすがにそんなことはないと思うけど。

 なんなら、なんで付いてくるんだよって朝なじられたぐらいだ、と思うけれどこれは川崎さんには言わないでおく。

「ふうん、良いねえ」

 そんなことより、部屋の中央にいる、とあるものに、ひどく心惹かれていた。

 あまりに美しい。霊だった。

 それは鹿の形に見えた。角は切られて丸まっているが、少し伸びはじめてきている。雄なのだろう。天井につくほどの巨大さ。細い足。鹿というのは優美な生き物だ。そして極めつけ、鹿はその角の先から蹄まで、塗られたように緑一色だった。

 あまりに優しく、あまりに偉大。おそらくただの霊ではない、と思う。これほどに夢幻の香りを放つ霊は珍しい。たいていは生きているものと大して変わらないように見える。平凡な犬が路傍に寝転がってる、と思っていたら、その上を自転車が透けて通ってしまい、驚いたことが何度あったか。たいていの霊は、一見では生死の区別がつかない。ひどく怪我をしていたり、あるいはこのように、ひどく幻想的なかたちをしていない限りは。

 鹿は天駆けた。室内なのに、突風が吹いたように感じたけれど、髪の毛一本ゆれてない以上、きっとこれは本当の風ではないのだろう。事実、誰も驚いていない。

 鹿はその細い足を川崎さんの前に出した。半分、彼女は鹿の下にいるような格好になる。影が落ちて、彼女の表情が見えなくなった。

「知ってると思うけど」

 と鹿の向こう側から、川崎さんが言う。

「伊木くん、王子様役だよ」

 だろうな、知らなかったけど。と、宮部は声には出さなかった。

 そして、君が姫?

「え、あたし?」

 川崎さんは微笑んだ。

「あたしは侍女の役よ」

 侍女と王子の恋物語か、いいね。

「ちがう、ちがう。あたしは端役ってこと」

 手をぶんぶんと彼女は振る。不思議だ、と思った。その手の隣に、あまりにも巨大な緑の鹿が佇んでいる。鹿は女神のような、あるいは天使のような、人離れした――というとこれまた変だけど、ともかくも慈愛をぎゅっと凝縮して固めた樹脂のような瞳で、見守っている。

 あるいは監視しているようにも見えた。

「え、なに?」

 なんでもない。伊木に、伝言伝えてくれる? 俺、そろそろ行かなきゃ。

 べつにこのままここに居ても良かったけれど、なんとなく、出たくなった。伊木以外に顔見知りの人間も少ないし、伊木の劇は本番で見たい。

 鹿が鼻を鳴らした――気がした。

「じゃ、伝えとくね!」

 ありがとう。

 と伝えて、踵を返す。さ、まだ暑いけど、影の間を渡り歩いてなんとか溶けずに喫茶店まで歩こう。

「あ」

 滑らかな木のスライド扉を閉める瞬間、伊木がこちらを見た。にやり、と口元が歪みきるよりも先に、扉は慣性に従って閉じた。



「よっ、お待たせ」

 突然現れた伊木に、眉をひそめる。ここ、教えたっけ。

「先に帰ってる、なんてむくれる困ったやつがいたからさ」

 別にむくれてない、と首を振った。伊木はそのまま、向かいのソファに掛ける。

「ここ、宮部好きだよな。流れてる曲がいい」

 曲なんて意識したこともなかった。まあでも、椅子のすわり心地、出てくる紅茶のおいしさ、長居をゆるしてくれる穏やかな雰囲気、それらをトータル的に気に入っていた。

 しかし、影が差す。手元の本が読めない。

「あれ、どうした?」

 いや、なんでもない。

「なんでもなくないだろ」

 むっとした顔を作る(そう、彼は作っているのだ)伊木の背後で、鹿が座り込んだ。こちらは雌鹿だった。

 そう、さきほどみた雄鹿と、まさにうりふたつ。

 兄妹のような、姉弟のような、親子のような、双子のような。あるいは夫婦のような。

「……ま、いいや。すみません、珈琲一つお願いします」

 伊木は沈みこむように、重くもない体重をソファへと預けていく。足と腕を組み、完全にリラックスモードのようだ。

「で、どうした? 先に帰るなんて言い出して」

 図書室、三時までだった。

「そりゃお生憎」

 そっちはどうだったんだ。劇の様子。

「うーん、まだちょっと微妙かな」

 一回目なんだっけ。

「そ。いや、前の子とは何回かやってたから、俺のほうは慣れてるんだけど」

 前の子?

「うんそう。実は、ヒロイン役が変わったんだ。コケて怪我しちゃってさ」

 ふうん……怪我、ねえ。

「怪我、だよ。この劇、ちょっとミュージカル調でさ。踊ったり歌ったりと、結構足使うんだ。だから今回は降りてもらうってことに決まった」

 それ、賛成したの?

「意地悪い聞き方するよな。うん、賛成した。ただの捻挫らしいけど、痛いまま無理して演技したりとか、あんまりしてほしくないし」

 ふうん、らしくない。と、声には出さず。

「ところで、そっちの進捗は? 三時まではやってたんだろ?」

 伊木は何か物を書くようなジェスチャーをした。執筆、の意味だ。二人の間でしか伝わらない手話を、伊木と宮部はいくつか持っている。

「文化祭、楽しみだな~。俺の劇に、宮部の小説。なかなか面白い。宮部の両親も来るの?」

 来ない、来ない。いや、父親は言えば来るかもしれないけど、言ってない。

「そりゃ危ないぞ。俺の母親がスーパーとかでぽろっと言っちゃうかも」

 両親、来るの?

「来る来る。一族郎党にて。ま、劇の観客は多いほうがいいしね。囃されるのがちょっと面倒だけど」

 ああ、王子役だから。

「しばらくプリンスって呼ばれるし、あの子は彼女かって言われる」

 光景の想像がたやすい。気のいい伊木の親族のことだ、皆さぞかし面白がるだろう。

 そうだ。恋バナ。

 俺たちって、恋バナしてると思うか?

「……なんだよ、急に。面白いこと言うなよ」

 伊木が口元をゆがめて笑う。さわやかそうに見える彼は、どうしてか笑うときには卑屈そうに見えるところがあった。

「恋バナねえ。小説の相談に乗ってる時間も含めるなら、それなりにしてると思うけど?」

 頼んだ珈琲が運ばれてきた。その香りと湯気が、ぐんわりと立ち上る。

「あ、話逸れてた。で、次回作どうなの?」

 うーん。

 唸り。黙り。

 だめかも。

「まだ時間あるもんな」

 とはいえ、何を書くのかすら。

「恋愛ものなんだろ?」

 それは部のテーマ。そっから先、何も決めれてない。

「霊出せばいいじゃん」

 安直。かつ、俺は動物の霊しか見れない。

「うーん……じゃ、超能力者出してみる?」

 伊木が、角砂糖を取る。頂点一点だけで接点させて、くるりと回す。

 あまりに不安定な立方体は、回り続ける。決して速度を落とさずに。

 ……けど、地味。

「だめかー。でも、書けないときってさ、やっぱり身近なものを書いたほうがいいって思うんだよなあ」

 創作の世界においては、霊が見える能力のほうがまだ、使いようがあるかもな。

「なに、創作の世界においては、って」

 見えるだけの俺と、物を動かせるお前と。現実においては、どう考えてもそっちのほうが有利だろ。

「そーかなー?」

 俺なんて、勝手な妄想だと医者に宣言されたらもう自分ですら自分を信じられない。

「小物を動かせたところでなあ……」

 そうだな。死んだ動物の霊が見えてしまうのと同じぐらい、役に立たない。

「――そうだな」

 伊木はもう一度笑って、鞄から台本を取り出した。まだまだ舞台のうえの王子様の役から、離れる気はないらしい。

「恋の話、書いたことあるんだっけ?」

 台本をぺらぺらと捲りながら、伊木が言う。

 ないよ。

「そっかあ、じゃあ初挑戦か」

 そう。伊木は……恋の劇、は……多そうだな。

「多い、多い。まあ、冒険ものもあるけど、やっぱりご好評いただけるのは恋の話かな。みんな好きだよね」

 俺だって嫌いとは言わない。

「ところで俺たちひょっとして付き合ってるって思われてるらしいよ、あまりに仲が良くて」

 ……。

 それを俺に言ってどうしたいんだよ。

「別に。他に恋人作りたいんなら、いつだって公衆の面前で喧嘩の芝居打ってみせるぜ、ってこと」

 他に、って。と、口には出せずに、ただ呆れた顔をするにとどめた。

 ……これは、恋バナとは呼べないよなあ。

「なに、恋バナしたいの? その前にちょっとここ、相手役やって欲しいんだけど」

 ……。いいよ。

 伊木から台本を受け取る。指差されたのは、ローザ、という名前。これがヒロインだろう。前後をざっと読み、なんとなく性格をつかむ。ちょっと不思議ちゃんみたいだ。

「――ああ、ローザ。君のことを忘れない」

 当然です。でもあなた、わたしのことを変えてしまうかもしれないし、事実わたしはあなたのことを変えてしまった。わたしのことを忘れてもいい。だからあなたに何か変化をわたしは与えたいし、あなたによってなにかを、わたしは変えられたいのです。

「しかしどうして僕が、君のなにかを、あまつさえ感情を、どうこうできるというんだろう? だって、君はまるで自由な風のようじゃないか」

 わたしはあなたにさえ、従属することはできません。わたしをどうこうできる方がいるとすれば、それはあの方だけ。ええ、わたしは感情すらも縛られているといえるのかも。でもときたまには。

「ときたまには?」

 サイコロが勝手に転がり続けるように、風のない日に回る風車のように、誰もいないのに窓を叩く音が聞こえるような、そんな……。

「不思議な力が」

 そう、不思議な力が。

「きっとわたしたちの運命を変えてくれる」

 そう、糸などなくとも、この世すべてがもしも、わたしたちの味方をしてくれるなら。

「そう、糸などなくとも……ありがと、ここまででいい」

 ふう。

 ため息をついて、伊木に台本を手渡した。うーん、ここだけじゃ、どんな話なのかぜんぜん分からないな。

 ところで、侍女ってどの役?

「侍女? ……って、ほぼエキストラだけど。ほら、こことかに出てくる」

 目に入ったのは、

「王子がおいででございます」

 という、簡素な台詞。

「侍女はたしか、衣装もまだ出来てないんじゃないかな。主役の俺たちのから作ってるから……余りの生地で作るって言ってたけど、けっこう裁縫班の腕が良くてさ。どの衣装も、布を使いまわしてるとは思えないぐらい違って見えるんだ」

 ほら、と伊木がスマートフォンを突き出してくる。たしかに、出来がいい。

「ここのシュシュの色と、このスカート、同じ生地なんだって。言われたら確かに! って感じだけど……凄いよなあ」

 シュシュ?

「これ。髪留めのこと」

 ああ、なるほど。お詳しいことで。

「結構常識だって」

 ところで伊木、侍女役の子って誰か分かる?

「うーん、三人ぐらいいるけど。渡辺さん、小林さん、川崎さん、かな。小林さんは、音響も兼務。てか、なんで?」

 じゃあ、今日伝言を頼んだのはそのうち三人の誰かだ、と思って。

「ああ、それなら川崎さん。てか、せっかく来たなら無理にでも見てけばよかったのに。何か刺激になって、小説書けたかもよ?」

 まあ、そうかもしれないけど。今度見に行くよ。

「ま、そうしてよ。いつか宮部の書いたシナリオで、劇やろうよ。映画でもいいよ」

 主役は?

「俺にしてくれないの?」

 伊木が笑う。その手元のカップの横で、依然、角砂糖は回り続けていた。



「まずいことになった」

 と、開口一番に伊木が言った。

 彼の傍らにいつもいる、巨大な鹿、その影に隠れて涼みながら、宮部は伊木の悩みを聞いている。

「また続けて怪我。元々、岩崎さんと町田さんとで悩んでたからさ。岩崎さんが降りるのは、まだ町田さんもいるし、って感じだったんだけど、次となると正直人がいない。いや、いなくはないけど……」

 力不足だと。

「ていうか、時間がもっとあれば俺もそんなに心配しないんだけど。今からだと、台詞覚えるだけで精一杯じゃない?」

 実は全部覚えてました、みたいな子はいないのか。

「そんな漫画みたいなことあるかよ。そりゃみんな台本はちゃんと読んでるし、通しの劇も見てくれてるけど、でも台詞までは……あと、衣装の問題もある。岩崎さんと町田さん、わりと小さいからさ。衣装もあんま変更しなくてよかったんだ」

 同じような体系の子、いないの?

「いないことはないけど。そんな理由で選ぶのもなあ」

 むしろ一人目の岩崎さんに戻すとか。

「うーん! やっぱ宮部もそれがいいと思う? いや、俺もそれ派なんだけど、岩崎さんちょっとなんか、オカルティックっていうか、わりとスピリチュアルな子でさ。続けて二人も同じ理由で怪我するなんて、ローザはのろわれた役なんじゃないか、とかなんとか……」

 嘘だろ。なんて繊細なんだ。

「別に頼めばやってくれるかもしれないけど、一度降りてもらった手前、ってのもあるし。でもそうなると町田さんだって……うーん、でも早く決めなきゃだよなあ」

 夏休みも中盤。もう八月。

「残り三週間しかない。練習の回数増やせばいけなくはない、か……」

 ま、そうだな。練習日増やせば、なんとかリカバリできるだろ。

「……宮部の小説、そういえばどうなの?」

 ぜんっぜんだめ。

「はあ……なんかお互い幸先悪いね」

 書かずにさぼっている宮部と、真面目に練習を続けている伊木とだと、明らかに宮部のほうが自業自得で、伊木はただの災厄の被害者だが、まあ、理由や原因はどうあれ、置かれている状況は似ている。

 でも、女子はまだまだいるんだろ?

「いやいや。役者じゃなくて小道具やりたいって言って入ってきてくれてる子もいるし、そんな誰でも良いって話でも……ああでも、やっぱ誰かに頼むしかないよなあ」

 誰にするか、伊木が決めるの?

「うーん、監督と脚本が決めるのが筋かな。でも二人も悩んでるみたいだから、俺が言えばその子になるだろうなあ……逆に、二人が、この子が良いって出してきてくれたら、俺はその子にするよ。三人で話し合って決めようってことにしてるけど……でも、部員全員で決めるべきかな?」

 いや。折衷案ぽく選ばれるより、王子様や監督様から強く希望して選ばれたほうがいいんじゃないか? 投票で選ばれてもやる気でないと思う。

「そう?」

 ぶっちゃけ誰でもいいと皆が思っちゃってるなら、なおさら。

「そんなふうには思ってないけどさあ……」

 伸びをするように両手をぐんと伸ばし、伊木が本当に困ったというように空をあおぐ。まあ、不運に見舞われて可哀想なことだ。

「はあ。でも腹決めるしかないよね。あ~あ、劇って難しいなあ」

 まあ、たしかに。

 恋愛や小説が難しいのと同じだ。と、宮部は思った。

「ところで、今日は図書館、ちゃんと開いてるの?」

 三時までは。

「そのあとどうすんの?」

 うーん、喫茶店かな。

「予定ナシってことね。じゃ、うちの部室来てよ」

 ん? どうして?

「誰がいいか決めてくれよ。ローザのことは、宮部、何回か付き合ってくれてるから性格は掴めてるだろ? ほら、物書きなんだし。合う子見つけてくれよ、もう俺自分じゃ決めらんないかも」

 分かった。まあ、あまり役にはたたないと思うけど。

「あとで相談に乗ってくれるだけで十分。じゃ、また三時にね!」

 伊木は手をひらひらとさせながら、北棟へと走っていく。宮部はその背中、そして一緒に歩幅広くグラウンドを渡っていく鹿の後姿を見送ったあとで、南の図書館へ急いだ。



 三時。時間きっかりに図書館を追い出されたので、南から北へ、渡り廊下を再び進む。冷房の入っていない校舎のなかを進むのは、歩くだけでもなかなか重労働だった。進軍中の一兵卒のような気分。

 以前と同様、部室の扉を開いても誰の注意もひかなかった。皆、忙しそうに部屋中を飛び回っている。

「あ、宮部くんじゃん」

 あ。……えっと。

「川崎! もう、忘れられてるの嫌だから、先に言っちゃった」

 川崎さん。伊木、いる?

「もちろん、いるよー。ほらあそこ」

 指差された先、伊木が再び衣装合わせをしていた。なんでいまさら、と思ったが、今朝の言葉を思い出す。そうか、相手役の衣装をいじらないといけないから、それに合わせて調整しているのか。

「二人ほんと仲良いよね。今日の劇も、どうしても見せたい! って伊木くんがワガママ言って通ったんだよ、知ってた?」

 え? 知らない、けど。

「演劇部ね、一応は、完成する前の劇は部外の人には見せないことにしてるの。あたしなんかは、練習中でも広くみてもらったほうがいいんじゃないの、って思ったりするんだけど」

 でも、そういう方針なんだ。

「そうなの。けど伊木くん、どうしても! って」

 そっか。よく練習につき合わされてるからかな。

「練習、って劇の?」

 そう。ローザ。

「うっそー」

 やってみせようか? と、言おうとしてやめた。仮に川崎さんがノリの良すぎる女子だったとして、やってやって! 今すぐここで、伊木くんと! なんて言われたりしたら、恥ずかしすぎる。あまりにも。

 なにより、そんなに台詞も覚えていない。

 ローザの台詞は難しい。婉曲的で、一つ一つが長い。そして何よりも、分かりづらい。詩的な趣もあって、読むにはいいのだが、聞いて理解するのは難しい。あの台詞を噛まずに言えるだけでもすごい。王子役は、いわばローザに呼応する形だから台詞も分かりやすいのだが……ローザは王子を導くような役割も持っている。問いにただ答えを返すだけではなくて、自身の思想について語り始める、そういう姫君。

 文句なしの、難役といえるだろう。

「あ、宮部!」

 ようやく伊木が来た。後ろにいるのが、監督、そして脚本の小室だろう。なぜ小室の名前だけ分かるかといえば、彼女はもともと同じ文学部所属だから。

「お待たせ。やっぱり皆で一度やってみようってことになってさ。見てってくれるだろ?」

 頷く。もちろん、そのために来たのだ。

「ありがと! じゃ、これで撮って」

 スマートフォンを渡される。なんで、と目で聞いた。

「だって。俺は舞台にいるんだから、見れないだろ。なんか後で動画で見れば分かることもあるかもなって」

 頷く。まあ、断る理由も特にない。

 スマートフォンを受け取り、横持ちにして舞台を正面から取る。カメラを構えると、気を使ってくれた演劇部員たち十数名が、波が割れるように引いてくれた。良い立ち位置を、独り占めするように陣取る。

 カーテンが閉まり、照明が落ちる。

「――ああ、ローザ。君のことを忘れない」

 あのシーンか。スマートフォンを持つ手がわずかに震えた。と同時に、録画開始できていなかったことに気付き、あわてて赤いボタンを押す。

「どうしたの?」

 小声で聞いてきたのは、川崎さんだった。さすがに名前を覚えた。

 いや、大丈夫。

 劇が始まっちゃってるから、と言外に示せば、川崎さんもあっと口をおさえて静かに後ろにひいてくれた。狭い部屋のなか、こんなに人がいるのに、宮部の周りには膜が張られたように誰もいなかった。

「当然です。でもあなた、わたしのことを変えてしまうかもしれないし、」

 暗いなか、カツラもつけているから、顔は良く見えない。でも、このシーンには表情はいらないのだ。まだ王子はローザの顔を知らないシーンだから。顔のないローザは台本片手に演技を続けている。

「しかしどうして僕が、君のなにかを、あまつさえ感情を、どうこうできるというんだろう? だって」

 そこで伊木は一拍置いた。

「君はまるで自由な風のようじゃないか」

 はっとローザが息を呑むようにした。うーん。ローザはそういう女だろうか。風と呼ばれて動揺するような繊細さを、持っているものだろうか。

「わたしはあなたにさえ、従属することはできません」

「うん、オッケー! 次のシーンにしよう」

 え。と、口に出しそうだった。

 この次からが難しいシーン、見せ場、問答続きの楽しいところなのだ。しかし、伊木は王子からただの伊木に戻っていた。そして姫に近づき、台本をぱらぱらと捲ってやっている。

「これ。次はここ。――で、いいよね監督?」

 茶化すように伊木が笑う。その笑顔はいつもと違って、まるで本当に風のような爽やかさがあった。なんというか、演劇部というよりサッカー部、という感じで。

 これ、この表現、書き留めたいな。と思ったが不幸にも両腕が埋まっている。

「じゃ、次。――ああ、ローザ。ようやくまた会えましたね」

 呼応するように、ローザがベールを取る。二回目の逢瀬のときだ。

「どれだけわたしが、あなたのことを想っていたか。きっと伝わりませんわ」

「いいえ、ローザ。わたしも同じです。同じぶんだけあなたのことを」

「……どうして、そう保障できますの? 私のことをしっているというのかしら」

 ああ、そこは違う。

 台本上はたしかに「知っている」と書かれているが、それはルビ振りが後尾にあって、「あいしている」と読むのだ。

 まあ、初読じゃあれは無理だよな。ここはこう、と苦笑しながら解釈をたれる、伊木の顔を思い出す。変な読みをさせるのは、小室の悪い癖だ。

「よし、ここもこれでオッケー!」

 伊木の元気な声と共に、照明が再びつく。伊木は一瞬だけ監督のほうを向いた。どう? と聞いたように見えたし、いまいち、と監督が答えたように見えた。

「……えっと、ああそうだ」

 伊木はとつぜん宮部を見た。いや、宮部の背後を見た。

「川崎さん」

「うん」

 お、次は川崎さんが行くのか。と思いきや、彼女は舞台袖にひっそりと立った。伊木の合図で、照明が落ちる。伊木は一度カーテンのところまで退避した。舞台の上には一人、ローザが残されている。そして川崎さんが聖歌隊のように、腕を前で組んで、高らかに言った。

「王子がおいででございます!」

 声に呼応して、カーテンが引かれた。突然部屋が明るくなる。

 その光に、呼ばれたようなタイミングだった。

 唐突に、巨大な鹿が現れた。

 もちろん、見覚えはあった。前回見たこの鹿。あるいは毎日見ている鹿。この鹿は雄だった。

 伊木の鹿は、雌。そしてこの鹿は、雄。双対の鹿だ。

「ああ、王子!」

 ローザが演技を始めたが、いい出来とはいえなかった。そもそも手を使うところなのに、台本を見ながらでは無理がある。素人目にも、あまりうまい演技とはいえなかった。



「で、どうだった?」

 どう、って?

「いや。そんなふうに改めて言われると困るんだけど。三人のなかで、誰が良かった?」

 うーん。二人目ならまだ、化ける可能性があるかと。

「化ける、とか宮部が言うとちょっとホラーだね。……あの子、まだ一年なんだよ。最近入ってきたばっかりでさ。ちょっと上がり症で。どうかなあ、本番に強いタイプだといいんだけど」

 やっぱり怪我した一人目のスピリチュアルな人に戻ってもらったら?

「うーん、それがいいかなあ。今日の見て、岩崎さんも気持ち変わったかもしれないし。そうだ、ムービー見てみよっか!」

 伊木はジャケットからスマートフォンを出して、横にしてテーブルの上に置いた。イヤホンを挿して片耳ずつ分けて使う。この喫茶店のBGMは、それなりに煩い。

『私のことをしっているというのかしら』

「ああ、ここ、脚本の小室さん怒っちゃってさあ。いやいや分かんないでしょ、とは思うんだけど。後ろにはちゃんと書いてあるんだから、まともに読んでれば分かるはずだって」

 まともに、ねえ。まあ、そりゃ一理あるかもしれないけれど。

「えー、一理ある? そうかなー? まあ、やっべえこりゃ小室さん怒るな、って俺も思ったけどね」

『王子がおいででございます!』

 川崎さんの声が響く。同時に、あの鹿のことを思い出した。動画の中にはもちろん映っていない。宮部の視界のなかだけに現れた、巨鹿。

 今、鹿の雌のほうが、伊木の横にぴったりと寄り添っている。この鹿はなんなのだろう? 思い出せる限り、六歳の頃にはすでに伊木の隣に居たが、しかしそれ以前はいなかった……ような気もする。どうして突然鹿の霊が、と驚いた記憶が、おぼろげにあるのだ。

「じゃ、二番目の子かなあ」

 そうだね。いいんじゃないかな。

「本当にそう思ってるか?」

 思ってるよ。だってその子と伊木だけだろ、ちゃんと台詞が最後まで言えたの。この後、木こり役のやつまで台詞噛んでたし。

 伊木が苦笑する。

「そうなんだよなあ。あ、あと川崎さんもか」

 王子がおいででございます。

 脇役の台詞が、なぜか耳の中にいつまでも、響く波の音のようにしばらく残り続けていた。



「本当にひどいことになった」

 どうした、と促すまでもなく、伊木はとうとうと話し始めた。

「関野さんが怪我をした。絶対覚えてないだろうから細かく説明するけど、あの、こないだ劇見に来てくれたときに、二番目に演技した、俺がヒロイン役お願いした、一年の子」

 ああ、その子。って、怪我?

「そうなんだよ! 宮部、助けて、たぶん霊のしわざだと思う」

 スピリチュアル。

「いや、本当に馬鹿にできないんだって! 同じ場所を同じ理由で怪我したんだ」

 また? どこを。

「石につまづいて足を。ねえ、本当に呪いじゃないかな? 岩崎さん怖がって、予定より早く足治ってきたのに部室来なくなっちゃった」

 それは繊細に過ぎるにしても。

「ねー、でも三人とも全く同じなんだよ? 練習の帰りに、ローザを演じた人が石に足をとられて……って、流れが全く同じなの」

 ……ふむ。

「え、なに? もしかして何か解決策が、あったり!」

 いや、小説のネタによさそうだなあって思って。

「あー、宮部先生に期待した俺が馬鹿だったよ。まあいいよ。でも……はーあ」

 伊木は深く息をつく。だんだん可哀想になってきた。

「ねえ、おかしいと思わない?」

 なにが、と簡単には返事をしなかった。

「三人。続けて三人、同じ怪我」

 しかも小石。

「言う必要はないと思うけど。俺じゃないよ、宮部」

 ふむ。

 分かってる、と答えようかどうしようか、迷ったすえに。

 しかし、無意識に力が生じないとどうして結論づけられる?

「もちろん、確約はできない」

 伊木は苺ミルクをストローで一吸いした。そして、念押しのように言った。

「でも、俺じゃないんだ」

 知る限り、伊木が無意識に力を使ってしまったことはない。力の存在を知らなかった子供のころと、そして感情がよほど高ぶったときを除けば。

 ――彼はポルターガイストを起こす子供だったのだ。

 ま、伊木が違うっていうなら、そうなんだろうけど。

「ご理解いただきどうも。――信じてないだろ、宮部?」

 役者のようにひらりと差し出された手のひら。お手をどうぞ、と台詞付きで上演されそうだ。

「明らかに妙だ。だから何、ってわけでもないけど、でも……」

 伊木は言いよどむ。無理もない。宮部とて、部活関係で似たようなこと……例えば、小説のなかで書いたことが次々本当に起こったりしたら、きっと驚き悩むことだろう。

 いや、それって面白いんじゃないか?

「……なんだよ、その顔」

 いや。別に。

「宮部の『別に』はぜんぜん信じられないんだよなあ……。はあ」

 違う違う、不穏なことではなく。小説にしようかなと思って。

「ああ、そういう悪趣味な方向ね。なるほどね」

 悪趣味、って。ひどいな、とは言えず。

「はー、でもどうやったらいいんだろ」

 ……。

 伊木に言うべきかどうか、迷った。

 なにせなんの確証もない。しかしもう、聞くしかないだろう。

「……また、悪趣味な話?」

 いいや違う。ところで伊木、好きな女の子はいないのか?

「はい? いないよ」

 そっか、いないか。

「いや、なになに。宮部、好きな子でもできたの」

 そういうことじゃない。

「なにそれー。気になるなあ」

 一つだけ良い手がある。

「ほんと!」

 無邪気に飛びつく伊木の純粋な危うさ。なんだかそれを、ものすごく哀れに思った。

 そう、一つだけ。事故って全部、練習終わりの下校時に起きてないか?

「……た、たしかに……?」

 一緒に帰ればいいんだよ。小石が原因だっていうんなら、これ以上に伊木の出番はないんじゃないか?

「う。敏捷性が問われるな……いや、でもいいね! たしかに、そうしてみる……けど」

 けど?

「宮部、ついてきてくれる?」

 いや、別に、一人でも寂しくはないから、そういう配慮は……。

「ねえ、お願い!」

 頷いた。まあ、断る理由も特にないし、なんなら一つ仮説がある。



「……わ。宮部くん?」

 川崎さんが驚いたように目を見開いた。

 結局、四人目のローザは川崎さんに決まったらしい。順当にいけば以前に演技比べをした三人の、残り二人のうちから選ばれるべきだと思ったが、どちらも辞退したそうだ。まあ、たしかにプライドの問題もあるだろうな。

 ごめん、なぜか一緒に帰ります。

「あ、別にぜんぜん良いんだけど! びっくりしちゃったあ……ほんっと、仲良いんだね」

 このあと二人で予定があって。家のね。

「そうなんだ! じゃ、邪魔者は私のほうだね。ごめんね!」

 予定があるのは嘘だった。なんというか、なんの理由もないのに必ず連れ立って帰る二人、なんて、まるで中学生の女子みたいだ。少なくとも男子高校生のやることじゃない。

「お待たせ!」

 伊木が遠くから走ってくる。その隣には巨大な鹿が、相変わらず連れ添っていた。

 そして。

「ううん、おつかれさま!」

 彼女の隣にも、巨大な鹿がいた。雌雄、鹿がそろった。

 これで、あの鹿の正体が分かった。仮説が実証されて、宮部のなかで確固たる真実に生まれ変わる。まさか川崎さんの守護霊だったとは思わなかったけれど。

 しかしこの真実をどう解釈するべきだろうか。

 本来なら、いますぐに川崎さんを降板させるべき、なのかもしれないし、もしくは川崎さんが無自覚である可能性を考慮して、とりあえず彼女自身を問いただしてみるべきなのかもしれない。しかし、そんなことをしてどうなるというのだろう。

 それよりも、このまま放置していた場合のことを考えてみよう。このまま。つまり、宮部が去って、伊木と川崎さんが、二人で帰ったとして。

 多分、何も起こらない。絶対に。

 ――となると、ここで伊木の善良なる友人、宮部の取る手はたった一つではないだろうか?

 伊木。

「どうした?」

 あの予定、なくなったって母さんから連絡きた。俺、いつも通り喫茶店寄って帰るから。

 スマートフォンを掲げて見せる。家族から来たメッセージ画面でも表示させているように、川崎さんには見えただろう。

「おっ、うん……分かった、けど。じゃ、また明日な」

 うん、また明日。それじゃ川崎さんも。

「あっ、うん! それじゃあね」

 それじゃ。

 と、挨拶して邪魔者は去ることにした。スマートフォンの画面を見る。行け、という簡素な二文字を、黙って許容してくれた友人のことを、あまりに素直だと思った。



 それから、行きは一緒に、帰りは別々に通学する日が続いた。通学、とはいっても夏休み期間中のことだから、毎日じゃない。いよいよ部誌の締め切りが近づいており、宮部は連日図書館か喫茶店に篭って書いていた。進学コースでは来年から受験勉強が始まるんだし、こんなに悠長にしていられるのも最後かもしれない。苦しんで、楽しんで書こう。

 字数は足りていたが、まとめるのが難しい。もちろん、彼らのことをモチーフにした……が、小石で怪我をし続ける、なんて一文でも書いてしまったら怒られかねない。ので、鹿の部分だけを使った。これなら宮部以外には見えていないし、伊木にも詳細には話してもいないのだから、変なふうにはとられないだろう。事実、演劇部の脚本の小室は気付かなかった。わりと幻想的なもの書くのね、と茶化してはきたが。

 二人はそれなりに上手くいっているようだった。夏休み終了まではおよそ二週間を切っている。時間はないが、しかしなかなか相性が良いようで、脚本家小室の評判も上々だった。なんだか空気が華やぐ気がするのよねえ、だそうだ。まあ、そうだろうな、と思う。それこそあまりに幻想的な言い方をするのならば――つまり、魂同士が同質、ともいえるのだから。

 仲良くやってる、と伊木から連絡が来るたびに、宮部は少々口元をゆるめた。

 しかし同質の魂の絆は、あっけなく終わりを迎えた。

『今日から一緒に帰れるドン! ってことで、門前集合ね』

 茶化しているような感じがありながら、どこか冷たい感じがするメッセージ。うーん。怒っているだろうか、と宮部はため息をついた。



「よっ」

 と、伊木が手をあげた。一応、聞いておくか。

 今日は川崎さん、一緒じゃないの?

「うーん。……まず、一つ確認したいんだけど」

 なに?

「いつから気付いてた?」

 ……。気付いてたこと前提、なんだな。

「だってー。なんか可笑しかったもん。なに、何が見えてたの?」

 二人の守護霊。

「ふうん。それで?」

 たぶん、同じ力を持ってるんだろうなって。ほんとうにそれだけだよ。

「それだけ分かってりゃ十分じゃん。俺、気付くのに結構かかったよ。劇まであと十日しかない、どうしよう」

 どうしよう、って? 上手くいってるんだろ?

「いや、川崎さんじゃなくてね。俺、降りることにしたんだ」

 ――そう来たか。

 いや、順当な流れだ。彼の性格を思えば。

 伊木に真実を告げなかった理由はこれだった。勝手になにかしらの責任を背負おうと、しそうだったから。

「教えてくれたらよかったのになー。そしたらもう少し前に降りれた。わざとダンボール降らせて、怪我ってことにしたんだけど、さすがに監督焦っちゃってさ」

 ちらりと、伊木の足元に目線をやる。怪我を演出したんだろう、仰々しいテーピングによる手当が施されていた。

 でも、教えたって教えなくたって同じだろ。

「どういうこと?」

 彼女が役を盗れた以上、もう事故は起こりようがない。

「ああ、そういうこと。……やっぱ、盗った、ってことになるのかな」

 なるな。でも彼女自身、意識的にやっているかどうかなんてわからないじゃないか。

「うーん……ところで、どうして彼女に俺と同じ、PKの超能力があるって分かったんだ?」

 動物。

「え?」

 伊木みたいな力のある人の後ろには、巨大な動物がいるんだ。伊木のは鹿。

「ああ、なんか昔、そんなようなこと言ってたね」

 でもなぜか最近、その鹿がもう一匹増えてた。雄鹿と雌鹿が対になってる。……鹿のほうは、その子が好きみたいだけど。

「……それで?」

 だから。伊木も川崎さんのこと好きになるかなと。

「はーあ。宮部はほんと馬鹿だなあ。人間の絆がそんな、なに、守護霊? で決まったら苦労しないよ」

 しかしだな。

「じゃ、宮部にはなにか憑いてるの? そしてそれは鹿なの? 俺、五歳のときから仲良くしてる宮部と、相性が良くない、なんて絶対思いたくないんだけど」

 恋だけは別かもしれないだろ。

「あー、恋、恋ねえ。まあ、恋は違うのかもね」

 絶対そんなふうに思っていなさそうな呆れた顔で、伊木はそっぽを向いた。ちょっとだけ申し訳ない、と思った。

「ま、いいよ。宮部が珍しくも色恋方面で気を利かせてくれた、っていう面白いエピソードを獲得できただけでも」

 たしかに、聞かれてないとはいえ、教えなかったのは悪かった。

「ま、良いんだもう。別に宮部にあたりたかったわけじゃなくて、一緒に帰りたかっただけだし、でも」

 そこで伊木は一拍置いた。

 まるで、劇中の王子様のように。

「やっぱこれだけは。いつから分かってた?」

 逡巡。青空を眺めた。その空に、巨大な鹿の顔が被る。どうした、と覗きこんでくるみたいに。だめだ。隠し事は向いてない。

 最初から。と言ったら怒るか?

「ほー。最初から?」

 最初から。物語の序盤のほうから。

「神のような言い草だな。ローザが言ってたよ、神なんてどこにもいない、あるとすれば運命だけ」

 ぜったいに、運命の相手だと思ったんだけど。

「それはない」

 どうだろう? 分からないぞ、人間のほうがどう思っても、霊のほうでつりあうなら、ぜんぜんありかもしれない。

「霊を見ることで相性も分かると言いたいのか?」

 少なくとも、傾向は合っているように感じる。

「へえ?」

 伊木が笑う。

「ということは――宮部は運命の糸を信じている、って?」

 糸を信じるんじゃない。俺の視界を信じているんだ。



 ぽーん。

 石を飛ばす、飛んでゆく、その、奇妙で奇天烈で、重力も斥力も電磁力も影響しない、不思議な軌跡を、石は定められたレールをなぞるかのように進んでゆく。

 まるで、魔法だ。

 その軽やかな曲線を眺めながら、自在に物を操ることができるのはどんな気分だろうと考えていた。思うとおり、やりたいように、小石が飛んでいく。すべての法則を超えて、あるいはすべての法則を捨てて。

「お前にとって見えるものがすべてなら、俺にとっては動かせることがすべてだよ」

 つまんないなあ、いい小説になったと思うのに。

 石が飛んでゆく。

「うん、ちゃんと、思った方向に飛んでゆく」

 そう言う彼の微笑みは、いつもと同じく口端だけの、にやりとニヒルな笑みだった。


<了>

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