怪異殺しは発見され、住処を得る
Ⅰ
「人のまえで剣を振るうな。他人より自分が大切ならな」
親父が最期に残した言葉が、いつも頭の片隅にあった。
「――見付けたぞ。あんたが……」
張り詰めたような、絞り出したような声に、一滴の水音が混じる。
アスファルトの地面に広がりを見せた艶めかしいそれに、一雫が合流する。
音を鳴らして同一となり、波紋はその領土を拡大するように波を打つ。
緩やかな円の揺らぎは、そしてあるべき場所へと回帰するように、伏した亡骸へと辿り着いた。
「あんたが、そうなのか。――怪異殺しか!」
怪異殺し。
実際にそう呼ばれたのは初めてのことだが、とにかくその余裕のない切羽詰まった声音が、俺自身をこの上なく追い詰めていた。
親父の言葉が脳裏を過ぎる。
人に見られた。
剣を振るうところを晒した。
どうするべきか。
一瞬のうちに思考が巡る。
そうして導き出した結論は――殺さなければ。
「なッ、動くなッ!」
疾く、疾く、殺さなければ。
薄闇を裂くように駆け、静止の言葉も敵対の構えも意に介さない。
その命を絶つためだけに、身体は正確に駆動する。
対象を定め、過程にある障害を排斥し、この剣は風のように、五体を強張らせた彼女を――擦り抜ける。
「へ?」
素っ頓狂な声が薄闇に響く。
幅の狭い路地を反響し、それが消えるころには剣は命を絶っていた。
彼女を背後から襲おうとしていた、怪異を斬っていた。
「――その……手際、やっぱりあんたが……」
見られてしまった。見せてしまった。
なら、それはもう仕様がないのだろう。
物事は常に不可逆だ。
失敗を帳消しにすることは出来ても、なかったことには出来ない。人が死ねば終わりなように、この世は取り返しのつかないことばかりだ。
「あぁ。怪異殺しって、呼ばれているらしいな」
暗闇を斬って、刃に付着した血液を払う。
斑を描くように血飛沫が地面を穢し、刀は清浄を得る。
抜き身の刀身は、そうして鞘へと収められた。
「どこかの組織が、俺の所業をよく思ってないことは知っていた。だから、いつかこうなるとも覚悟していたんだ。さて、俺が大人しく捕まったとして、その後はどうなるんだ?」
「それは上が決めることだ。私の一存でどうなることでもない」
警戒心を剥き出しにしたまま、彼女は答えた。
「そうか、ならいいや。どうせ、近々話をつけにいくつもりだったからな」
「なっ。あ、あんた、本部に乗り込むつもりだったのか!?」
「いつまでも追い回されたくないからな」
常に何かに追われている、と言う状況は好ましくない。
「……なんて奴だまったく。正気とは思えないな……それに、やけに殊勝じゃあないか。もしかして私の裏を掻こうとしているのか?」
「そんな気は更々ないから安心しろ。その気ならさっき殺してるし、俺はその本部の居所も掴んでる。生かしておく理由はない」
「む、むぅ、たしかに……って、絆されるなよ、私ぃ!」
そう一人で感情の起伏を荒げると、彼女はこちらに向けて手を翳す。
すると、瞬く間に身体の自由を制限された。
体表を蛇のような何かが這いずって、締め上げているような感覚に襲われる。
安全管理として拘束魔術を施されるのは、仕様がないと諦めもつくが、この蛇がのたくったような感覚はどうにかならないものか。
「これで良し。いいか? 妙な真似はするんじゃあないぞ。ちょっとでも素振りを見せたら――」
その時、首の辺りに圧迫感が生じた。
「こうだからな」
「わかった。大人しくついていくよ」
「よろしい。あっちだ、先に歩け」
彼女に促されて、先の道をいく。
「あぁ、そうだ」
「なんだよ」
「名前、なんて言うんだ?」
足を止めて、横目で彼女を捉えながら問いかける。
「……尾喰瑞樹」
「そうか。俺は切風四季――よろしくな、瑞樹」
「しっ、下の名前で呼ぶなッ!」
平手で思いっ切り背中を叩かれた。
Ⅱ
打ちっ放しの冷たく狭い空間に、パイプ椅子と安っぽい事務机が二つずつ、机上にはデスクライトもあって、気分はさながら取り調べを受ける容疑者だった。
「よう、キミが怪異殺しか。なんだ、随分と若いじゃあないか」
自身の向かい側に、一人の女性が腰掛ける。
彼女は容姿端麗であり、知的であり、大胆でもあった。
顔立ちがよく、よく似合う眼鏡を掛け、胸元を大きく開いてある。
気怠げな態度も、指に挟んだ火のついた煙草も、組んだ艶めかしい足も、それらの印象を加速させる。
「聞いたよ。キミ、無許可で怪異を狩りまくったんだって? それも取るに足らない有象無象から名の知れた大妖怪まで、だ。最近じゃあ鳩を撃つのにだって許可がいるのに、大それたことをしたもんだねぇ」
「目の前で人を襲おうとしてる怪異を見掛けたら、なんとか仕様と試みるのが道理だろ?」
「おや、私達に非があるって主張するつもり? 組織の治安維持活動に問題があるって?」
「いいや、そうは言ってない。どれだけ手を尽くしたって、手が回らないこともある。そのくらい理解してるさ。俺はただ、手を伸ばせば救えそうな奴がいたから、手を伸ばしただけだ」
「ふぅん」
そう含みのある相槌を打って、彼女は一度、煙草を吹かす。
「まぁ、動機はなんだっていい。敵対の可能性についても、この際だ。棚上げするとして……問題は、キミの闘法――剣術についてだ」
彼女の瞳が、これまでとは違って鋭いものになる。
「キミが自称する切風の名は、はるか昔に没落した魔術師の家系のものだ。いや、没落じゃあないな。淘汰されたんだ、あまりに危険で、無謀で、倫理に反する試みを行ったことで」
没落ではなく、淘汰である。
それに間違いはないのだろう。とてもしっくりくる。
顔も知らないようなご先祖様が編み出し、俺の代まで密かに受け継いできた。
一族の悲願、その結晶、その結実が、今の俺に宿るものだ。
それは魔術師にとって、許されることではなかった。
「単刀直入に聞く。キミの剣術は――切風の剣は、どこまで昇華された?」
それを受けて、ある日のことを思い出す。
いつも厳しい親父が、その時だけは穏やかに、嬉しそうに言っていた。
「俺が剣を納めた時、親父はこう言っていた。我が一族の悲願は、ここに達成されたってな」
「そうか、成ったか」
彼女はそう言って、ゆっくりと瞼を閉じる。
「なら。ならば、聞こう。切風の最高傑作たる、キミ。これからキミは、すでに成ったキミは、これからいったいなにを成す。我々はキミの一族を闇に葬った。なら、復讐か? 報復か? 根絶か?」
それもいいかも知れない。
親父曰く、ご先祖様は酷く組織を恨んでいたらしい。
この剣は、いわば怨嗟の剣だ。負の感情を薪として執念を燃やしてきた。長年の悲願が完了した今なら、それを成すのも悪くない。
だが、俺には他に成さなければならないことがある。
「そうだな、何を成すかと聞かれれば――まず子を成すところからだな」
そう言ってやると、彼女の眼が見開かれた。
唖然としたように、呆気に取られたように、ぽかんと両眼と口を開けた。
「そのためには、まず嫁を探さないといけないな。いや、その前に色々と段階を踏んで――」
「ちょ、ちょっと待ちなよ、キミ。なんだって? 子を成すって?」
「あぁ。なにせ、生き残りは俺しかいないんだ。一族復興のためには、まず子を成さないとな」
「キミ、いま幾つだい?」
「十七」
「はっ――はははははははははっ!」
笑う。笑う。
腹を抱えて、息苦しそうに、天を仰ぎ見て、大仰に笑って見せる。
「いやー、私はいま死ぬ覚悟まで決めていたんだけれどね。キミが復讐鬼でなかったことを天に感謝するばかりだよ」
俺が復讐鬼だったなら、たしかに彼女の命を奪っていたかも知れない。
一族の怨嗟を晴らすため、手当たり次第に関係者を殺害していたかも知れない。
身体に施された魔術はあれど、俺がその気になれば容易く壊せるものだ。
得物もこの部屋に入る前に取り上げられていたが、指が十本もあれば人を殺すくらい訳ない。
まぁ、だからと言って、復讐鬼でない俺は、実行に移す気なんてさらさらなかったけれど。
「とどのつまり、キミに敵対の意志はない、と」
「あぁ、ない。この部屋に施された結界に誓ってな」
「へぇ、気付いていたのか。まぁ、こんな密室に押し込められれば、警戒くらいはするか」
ぱちんと、指を打った音が鳴る。
すると、硝子が砕け散ったように、空間の表面が崩壊する。
薄皮一枚を剥いだように、粉々になって砕け散る結界だったもの。俺の発言を監視し、心を観察し、嘘を暴く結界は、いまこの場で消失した。
「キミの言葉に嘘はなかった。結界の効果を誤認させた形跡も、改竄した痕跡もない。となれば、話は単純だ。無断で怪異を狩ったことは不問にしよう。キミが磨き上げた切風の剣を、この土地の治安維持のために振るって欲しい」
一度は淘汰したものの。水面下で続けられていた試みが実を結んだのなら、それを有効活用しない手はない、ということか。
敵対の有無も結界によって証明されたのなら、そうなるのが道理だな。
「いくつか条件がある」
「――当然だな。言ってみるといい」
「一つ、家がないから住処が欲しい」
「いいだろう。用意させよう」
「二つ、食費がないから纏まった金が欲しい」
「構わない。即金で五十万ほど都合しよう。それだけあれば人らしい生活を取り戻せるだろう。足りなければ言ってくれ、余った分は懐にしまっておきな」
「三つ、高校に通えていないから、どこか適当なところに入学させてほしい」
「そうなのか?」
「あぁ、お陰様でな」
暗にお前たちの所為だぞ、という風な含みを込めて言う。
まぁ、実際のところ、一族が淘汰されていなくとも、俺は学校になんて通わせてはもらえなかっただろうが。
来る日も来る日も、剣、剣、剣、俺のこれまでの一生は、すべてそれだった。それだけだった。
それでも最低限の教養は有しているつもりだが、学歴はどうにもならない。
「了承した。二日三日かかるが、ねじ込んでみよう。他にはあるか?」
「いや、後は自分でどうにかする」
「そうか。なら、決まりだ。これからよろしく頼むよ、切風四季くん」
「あぁ。……えーっと」
「律子だ。乱崎律子」
「よろしく、律子」
差し出された手を取り、握手を交す。
一人になってから、寝床と食事に困り続けた毎日だったが、これでようやく人間らしい生活水準を満たすことが出来そうだった。