02 元勇者、暗黒大陸に到着する
俺を乗せたキャラック船は、数多の海域を超えて、ぐんぐんと進んでいった。
途中、嵐や怪鳥の襲撃、海賊船長の後継者争いなんかに巻き込まれつつも、おおむね順調な船旅だったと思う。
(ああ、でも、海賊船の新船長に祭り上げられそうになったときだけは、さすがに焦ったな……)
最終的には現船長の娘を俺が推薦し、「女に後継者など務まらない」と喚いた数名の反乱鎮圧に手を貸したことで、なんとか問題の片は着いた。
彼女に求婚された時には、どうしようかと思ったが……。
そんなこんなで、色々あった航海も、ようやく終わりを向かえる時がきた。
出発から二百日目――。
「勇者様、暗黒大陸の近海に入りましたよ!」
「おっ。ついに辿り着いたんだな!」
甲板に座っていた俺は、勢いよく立ち上がり、水先案内人の隣へ向かった。
「あれの靄が目印なんです」
水先案内人は、海の向こうに立ちはだかる淀みを指さしていた。
ものすごい勢いで水面からモクモクと沸き立つ、コバルトグリーン色の靄だ。
「なんだあれは?」
「この辺りの海流に沸き立つガスです。毒性はないらしいんですが、なんとも嫌な色ですねぇ……」
俺たちを乗せたキャラック船は、吸い込まれるかのように、淀みの中へ飲み込まれていった。
気付けば船が浮かぶ海面も、毒々しい紫色に染まっている。
辺り一帯を覆う淀んだ靄のせいで、視界がどんどん悪くなっていく。
目的地である暗黒大陸の、シルエットさえ見えない。
その時、唐突に雷鳴が鳴り響いた。
「ひいっ」
暗雲から走る稲光を見上げて、水先案内人が肩を竦ませる。
「ゆ、勇者様……本当にあそこに行くんですか? 俺も金はもらいましたけど……でも考え直したほうがいいんじゃ……」
「これだとよく見えないな……」
「へえっ?」
「――大地を包む虚無の風」
俺は指先に力を流し込んだ。
風魔法の呪文を詠唱し始めると、魔力の集中した指先に熱が宿るのを感じた。
空気の中に静電気のようなピリピリしたエネルギーが混ざる。
「我の求めに従い、今、此の地に吹き荒べ――『疾風神』!」
詠唱が終わると同時に、俺はパチンと鳴らした。
その瞬間、吹き上がった突風と共に、暗黒大陸を覆う靄がかき消された。
「うわわっ!」
隣で水先案内人が腰を抜かしている。
俺は彼に手を貸しながら、目の前に現れた大陸を振り返った。
「ようやく姿を見せたな……」
靄の間から覗いたのは、そそり立つような岸壁だ。
岩肌は剣先のように尖っていて、紫色の波しぶきがそこにぶつかる。
やけに大きな鳥が飛んでいると思ったら、その上半身は人間の女。
姿を現したのは、獰猛で食欲旺盛な怪鳥、ハーピィだった。
だが、せっかく払った靄も、すぐにまた濃度を増していく。
それだけ海面と空気に温度差があるのだろう。
「あれが暗黒大陸か……」
外観を見ただけでも、ここが今まで暮らしていた大陸とは、まったく異なる地だということを痛感する。
そんな現実を前にして……。
「ゆ、勇者様……」
「どこから散策しようかな……!」
「え!?」
――そう俺は、めちゃくちゃわくわくしていた。
「きっと見たことのない生き物や植物が、山ほど生息しているんだろうなぁ」
ハーピィだって、人間界にはめったに現れない魔物だし。
この紫の海も、泳いだり出来るんだろうか?
(魚がいるかも興味があるな)
どうせなら、食べられる魚がいい。
まあ不死身の俺は、毒素のある魚を食べても腹を壊すとか、吐いて寝込む程度だけれど。
とにかく散策をするのがめちゃくちゃ楽しみだ。
なんなら博物学者として過ごすという手もある。
(俺が神様からもらったうちの一つ……『例の』スキルも活かせるしな)
気になるところに行って、気になるものを見て……。
蒐集日記をつけるのはどうだろうか。
文章は苦手だから、スケッチでもいい。
「しまった。採集瓶でも持ってくるんだったな」
まるで冒険家になったような気がしてきて、胸が高鳴る。
本当は勇者じゃなくて、ずっとそういう暮らしに憧れていたんだ。
(この世界に転生したての頃を思い出すなぁ……)
見るものすべてに感動して、とにかく大興奮の日々だった。
もともとあっちの世界の俺は、ファンタジー系のゲームや小説が大好きだったから、神様に転生の説明を受けた時は、死んだことにがっかりするより、喜びのほうが断然大きかった。
宝くじに当たったみたいな感覚ではしゃいだものだ。
そんな俺を尻目に、酒場で会ったときは元気いっぱいだった水先案内人は、萎れたように口を開いた。
「あのー……すんません……。オレがお供できるのはここまでってことで……。小舟を降ろしますんで、あとは自力でお願いします」
「あんたも上陸して、少し散策を楽しんでいけばいいじゃないか」
「へっ……?」
「せっかくここまできたんだ。焦って戻らなくても……」
暗黒大陸に近づく機会なんて、滅多にない。
ましてや上陸する人間は、俺たちが初かもしれないんだ。
彼には、誰も船を出してくれない中、唯一名乗り上げてくれた恩がある。
まだ幼い子供が五人もいて、お金がかかるんだと言っていたし。
子供たちにも、いい土産話になるんじゃないだろうか。
そう考えて気を使ったつもりだった。
ところが水先案内人は、喜ぶどころかサアッと顔を青ざめさせた。
「イヤイヤイヤ! 勇者様もご冗談が過ぎますって! 最凶の魔物共がウジャウジャ跋扈する暗黒大陸に降り立つなんて、そんなこと考えるのは勇者様ぐらいですよ!」
「すまない、俺は勇者じゃなくて元勇者なんだけど……」
そんなやりとりを交わしていたとき……。
高波の音と共に、水先案内人の上に暗い影が落ちた。
靄の中からゆっくりと姿を現したシルエット。
これは、もしかして……。
「元勇者様。オレは魔物が現れる前に、ちゃっちゃと帰らせてもらいます」
「……すごい……」
「へ?」
振り返った水先案内人は、声にならない叫びを上げて尻餅をついた。
「ヒッギャァァッ……!!」
どうやら再び、腰を抜かしてしまったみたいだ。
うんうん、分かるぞ。
こんな幸運に出会えるなんて、びっくりだよな。
「ななななっっ……なんだぁッ!? あれはッ……!!」
震えた腕で、水先案内人が指し示した先には、城ほどの大きさをした、見たこともない巨大な怪物の姿があった。
怪物はこの船目掛けて迫りくるところだ。
俺はテンションが上がっていくのを感じながら、腕まくりをした。
「さっそく初めて見る生き物に巡り会えるとはな」
「勇者様……! なんでそんなに落ち着いてるんですかッ!! このままじゃ船ごと木っ端微塵にされてしまいますッ!! ああああ、お、お助けをぉぉッ……!!」
そう見えるかもしれないが、落ち着いてはいない。
これでもかなり興奮している。
「安心しろ、水先案内人。お前の船を壊させたりはしないよ」
とはいえ、本当なら戦いは避けたかったな。
今回の目的は戦闘じゃなくて、共存と観察だったんだ。
なんとか殺さずにいきたいところだけど、向こうに敵意があるからには難しいだろうか?
水しぶきの間から時折見える下半身は、鯨とよく似ているが、胴体の先についた頭はドーベルマンそっくりだった。
威嚇するように歯をむき出しにした口からは、赤く長い蛇のような舌が飛び出している。
やっぱり暗黒大陸は興味深い。
俺は化物に向かって手のひらをかざすと、「スキャン」と呟いた。
俺にしか見えない半透明のグラフィックが宙に現れ、目の前にいる化物の情報をすぐさま提示してきた。
これが転生時、不老不死と共に神からもらった能力。
『全知鑑定スキル』だ。
全知と言うだけあって、このスキルを使えば調べられないものは何もない。
初めて見る化物の名前も、その弱点も。
この怪物の名前は、『ケートス』。
海獣類破壊科のモンスターで、水属性の生き物だ。
そして弱点は……『ひっくり返すと、驚いて気絶する。一度気絶すれば半日意識を取り戻さない』か。
よかった。
気絶してくれるなら、何も殺す必要はない。
「勇者様!! ヤツが来ますッ……!!」
「わかっている。俺に任せろ」
背中に背負っていた剣を抜き、柄の部分を上にした状態で構える。
タンッタンッと二度ほどステップを踏み、弾みをつけた俺は、甲板から飛び立った。
唸り声を上げたケートスの尾ひれが、勢いよく俺に向かって振り下ろされる。
なるほど、こういう動きをするのか。
興味深いな。
だけど、悪いが遅い。
尾ひれを敢えて直前で交わした俺は、逆にその上へ飛び移った。
忌々しそうに唸ったケートスが、俺を振り落とそうと躍起になる。
ケートスの尾ひれは、苔むしていてツルツルと滑り、バランスが取りにくい。
(おっと)
気を抜くと海に落とされるな。
でも面白い。
腰を低く落とし、落下しないように粘る。
ケートスはムキになって尾を振り回し続けている。
尾が奴の顎の下に限りなく近づいた瞬間、俺はその場所を目掛けてジャンプした。
剣の柄がケートスの顎に、ドゴッと音を立てて当たる手応え。
(だが、まだだ)
更に力を込め、顎の下から奴の体を持ち上げる。
その直後。
ザバーンッ!!!
激しい波飛沫をたて、ケートスの体が仰向けに海上へ倒れ込んだ。
奴の腹の上に、俺もストンと着地する。
ケートスは微動だにしない。
気絶しているのを確認した俺は、剣を鞘に戻し、キャラック船に飛び移った。
「……強ぇ」
水先案内人が、ごくりと喉を鳴らす。
「強すぎるッ……! さすが勇者様だ……!!」
「いや『元勇者』だ」
大事なところなので、もう一度訂正した。
今の俺は、魔物や魔族を殺す勇者じゃない。
彼らと同じ大陸に住む、良き隣人になりたいんだ。
生活が落ち着いたら、さっきのケートスにも、お詫びの品を持って謝りに来よう。
そのときは戦闘にならないといいな……。
「さてと」
ケートスが意識を取り戻すまでは、あと半日ある。
ただこの巨大な生物、先刻の様子からして移動速度はかなり速い。
水先案内人が帰路で襲われないよう、できるだけ急いで戻るよう指示を出し、俺は小舟を乗り換えた。
「それじゃあ勇者様ァ、お達者でー!」
甲板の端に立った水先案内人が、両手をブンブンと振り回している。
「『元勇者』なんだけどな……」
俺は去っていくキャラック船を見送りつつ、ポツリと呟いた。
そうして完全に船が見えなくなった後――。
オールを手にした俺は、小舟を暗黒大陸へと向かわせた。
しばらくは波の打ち付ける断崖絶壁が続いたが、崖を回り込むと小さな入り江が姿を現した。
さっそく小舟を寄せて、上陸する。
暗黒大陸に降り立つと、先ほどからずっと香っていた熟れた果実のような臭いを放つ空気が、いっそう濃厚になった。
「はは、清々しさとは無縁の場所だな」
だが、そんなことは構わない。
俺は感慨深い気持ちで辺り一帯を見回し、胸を高鳴らせた。
ようやく第二の人生の、スタートラインに立てたのだ――。