第十一章:七人
「ちょっと待った。この血を掃除するのはもう少し時間が経ってからにしないか?」
俺の提案に、彰子が不機嫌そうな視線を投げかけてくる。
「なんで今すぐ掃除しないのよ。あんた血を見て興奮する性癖でもあるの? だとしたらキモイから私に近寄んないでよね」
「彰子さん、ほんとに俺に対する評価が厳しすぎませんか……」
俺は彰子の暴言に対してがっくりと肩を落としつつ、弱弱しい声で話を続ける。
「別に俺にそんな特殊な性癖があるわけじゃなくてさ、もう一つだけ考慮しておいた方がいい可能性があるんじゃないかと思って」
「まだ何か話すようなことがありますか? 荒瀬さんの言っていたことは筋もちゃんと通っていましたし、血を拭かない理由はないと思うんですけど」
涼森の問いに対して緩やかに首を振ると、俺は床に転がされている志島を指さした。
「さっきそこに縛られてる志島が、自分は犯人じゃないって言ってたよね。そのことを少し考えたほうがいいと思って」
「それって、日暮さんは志島さんが犯人なんじゃなくて、僕たちの中に藤林さんを襲った犯人がいると考えてるってことですか? いくらなんでもそれはないと思うんですけど」
荒瀬が少し焦ったような顔で言う。
「もちろんそんな風には思ってないさ。藤林が襲われたであろう時間には、志島以外皆アリバイがあるんだからさ。ただ……」
「そういえば、夏音は少しの間私を部屋に残してホールに出てってたわね。あの時って何してたの?」
俺の言葉を遮り、彰子が涼森に対して疑問をぶつける。
俺は彰子の言葉を聞き、二つのことに非常に驚いた。
「ちょっと待って、涼森さんは部屋の外に出て一人で動いてた時間があったの? いや、それよりも、彰子さんなんで涼森さんのこと下の名前で呼んでるの? それも呼び捨で」
「はあ? 別に夏音がそう呼んでほしいって言ってきたからそう呼んでるだけよ。なんか文句あるの」
彰子が苛立たしげに睨んでくる。
文句があるというよりも、俺だけが彰子から不当な扱いを受けていることが、何となく悲しいというだけなのだが。俺は彰子にそこまで嫌われるようなことを何かしただろうか?
そのことについて彰子に問いただしたい気持ちを抑えて、俺は話を元に戻す。
「まあその話は置いとくとして、涼森さんが部屋を出たっていうのは本当のことなの? それって大体何分くらい?」
彰子が口を開く前に、涼森本人が俺の質問に答えた。
「ええ、本当のことですよ。時間にしておよそ三分ほどのことですけど。私がホールにいるときにちょうど志島さんが上がってきたんですよ」
そうですよね、と言って志島に話を振る。
志島はこちらを見ずに壁の方を向いたまま、そうだよ、と投げやりに答えた。
今思い返してみると、涼森が一階の俺の部屋を訪ねてきたとき、俺と荒瀬しかいないのを見ても特に気にした様子はなかった。俺の部屋に来る前に志島に会っていたから、それを不審に思わなかったわけだ。
さて、少し考えをまとめなおす必要が出てきた。いや、これは明らかに……。
俺が考え込んでいるのを見て、涼森が微笑みながら話しかける。
「もしかして私が藤林さんを襲ったのかもしれない、と考えていますか? 残念ながら、それは無理ですよ。藤林さんを殺すこと自体は急げば可能かもしれませんが、そこで私に降りかかったであろう血を処理している時間はありませんから」
「そう、だよな……」
俺は小さく頷くと、本来話そうと思っていた内容を口に出した。
「少し予想外の話があって戸惑ったけど、俺が言いたかったのは、この中の誰かが藤林を襲ったっていうことじゃないんだ。志島が本当に藤林を襲っておらず、かつ俺たちの中に藤林を襲えた人物がいない。この二つから導き出される考えが、一つだけあるって話」
「それってもしかして、この塔の中に僕たち以外の誰かが潜んでいるかもしれないってことですか!」
荒瀬が驚きの声を上げる。俺は荒瀬に対して軽く頷きながら話を続ける。
「その通り。誰かがこの塔の中に忍び込んでいて、藤林を襲ったのなら志島の言い分も通るし、内容として矛盾は生じなくなる。まあ、なんで志島が俺らを襲ってきたのかの理由はよく分からないままだけどな」
「でも、そんな可能性ってあるのでしょうか? 私たちはすでにこの塔の中で約二日間を過ごしてきましたが、私たち以外の誰かがいる気配なんて少しもありませんでしたよ」
俺の考えに対して否定的な意見を涼森は述べる。
確かに、涼森の言うことは正しい。俺自身も第三者がこの場に関与してくるとは本音では思っていない。が、今は……。
「俺もそう思うよ。この二日間、眩暈の塔には俺たち六人以外誰もいなかった。それは間違いないと思う。もちろん、隠し部屋があったりすればその限りじゃないけど、彰子が知らないってことはおそらくないはず。彰子の父親がわざわざ隠す必要なんてないだろうから」
「そうね、パパが私に対して隠し事したりするわけないもの。多少子供っぽい一面もあるから、もしそんな隠し部屋なんてのがあったなら、それを利用して何か驚かそうとしてきたはずだわ」
誇らしげに彰子が言う。
ちょっとしたことで簡単に機嫌がよくなったり悪くなったりする彰子さん。
せっかく彰子さんが調子に乗っているので、一つ質問を試みる。
「そういえば、志島が俺たちを襲ってるとき、彰子さんはなかなか四階まで上がってこなかったけど、何してたの? もしかしていったん自分の部屋に戻ったりした?」
俺がそう質問すると、自分が疑われていると感じたのか、途端に不機嫌そうな顔になってそっぽを向く。
「そうよ。なんか危険な感じがしたから自室に避難したの。万が一にも私の美しい顔に傷がつくようなことでもあれば、人類にとって大きな損失になるもの。何か文句ある」
半ギレでそう言ってくる彰子さん。
まあ彰子さんが類まれな(残念)美少女であることは認めるが、相も変わらず随分大げさなことおっしゃっています。
とはいえ、知りたいことは聞けたので、俺は満足して彰子に対して微笑みかけた。
「いやいや、文句なんてありませんよ。単純に彰子さんが自室に戻ったのかどうかが知りたかっただけだから」
そういうと、俺は荒瀬と涼森のほうに向き直る。
「さて、隠し部屋もなくこの二日間俺たち以外にだれもいなかったとすると、考えられる選択肢はただ一つ。今日、俺たちが部屋で喋っている間に塔の外からやってきて、藤林を襲ったんだ」
「そんなこと……いや、可能性としてはなくもない、のでしょうか?」
荒瀬が困惑気に呟く。
よくは分からないが、この塔の出入り口は外側から鍵がかけられるような仕組みになっているようなので、外部からの侵入自体は難しい話ではない。
「今回の金光の計画に共犯者がいて、そいつは元から藤林を殺すつもりだったとする。そう考えれば、この外部犯説もあり得ない話ではないだろ?」
納得しているようではないが、かといって反論するほどの根拠もないため誰も口を挟まない。そんな皆の様子を見まわしてから、俺は話を続ける。
「あくまでこれは仮の話ではある。ただ、これが事実だった場合のことも考えておきたいんだ。それで、もし外部犯が藤林を襲ったとしたら、今そいつはどこにいると思う?」
涼森が額に手を当てて、少し考えてから答える。
「おそらく、もうこの塔から脱出して遠くまで逃げてしまったのではないでしょうか。この塔にい続けたら疑われるに決まっていますし、塔の外に出て行くのが最も自然だと思います」
俺は涼森の言葉に対して、首を横に振って答える。
「まあその可能性もゼロではないと思うけど、俺は違うと思う。理由は単純で、藤林が生きていることだ。ここまでの舞台を用意しておきながら、藤林を殺さずに塔の外に逃げ帰る理由があるとは思えない。おそらく、志島が来たのを察知して上の階に逃げたんだと思う」
「どうやってその人は志島さんが来たのを察知できたのでしょうか? それに、今なぜこの時間帯に藤林さんを襲ったのでしょうか? もっと殺すのに適した時間があったと思うのですが」
「俺の予想でしかないけど、犯人は俺たちの部屋に盗聴器を仕込んで会話を盗み聞きしてたんだ。その上で、誰か特定の一人が殺したとしか思えない状況ができるのを待ってたんじゃないかな。結果としてそれが裏目に出たのか、藤林を完全に殺す時間を得られずに、途中で殺人を放棄して逃げたんだと思う」
涼森は俺の話に矛盾がないかしばらく吟味した末、特に異論をはさまずに俺の言葉の続きを待った。
「この考えからすると、犯人が逃げ込んだのは三階から六階のどれかの部屋ってことになる。他の部屋には人がいたからね。そしてこの四階の部屋には、さっき俺と荒瀬さんが入ったけど人が隠れているような気配はなかった。そもそも隠れられるような場所がほとんどないしね。それに、彰子さんも自室、つまり三階の部屋に入ったみたいだけど、当然誰にも会ってないはず。つまり、犯人がいるとしたら五階か六階のどっちかの部屋ってことになる」
俺がそこまで言って言葉を切ると、荒瀬が恐る恐る手を上げて発言した。
「じゃあこれから上の部屋を調べるってことですか?」
「まあそういうことになるかな。調べるとはいえ、誰か人が隠れていないか確認するだけだけどね。どう? ただそれだけの作業で外部犯がやったかどうかは判断できると思うんだけど、やってみていいかな?」
最後は志島と荒瀬を交互に見ながら言った。
五階と六階の部屋を今使っているのはこの二人だし、志島からしたら渡りに船の提案だと思ったからだ。
志島はぶっきらぼうに、好きにしろ、とだけ言い、荒瀬は少し弱弱しそうにしながらもうなずいた。
荒瀬は怯えたような表情を浮かべながら、俺に問いかける。
「その、上にもしかしたら藤林さんを殺そうとした人がいるかもしれないんですよね。だったら、見に行くのってかなり危険だったりしませんか?」
「まあ多少の危険は伴うけどさ、俺と荒瀬さんの二人で行けば何とかなるでしょ」
荒瀬は弱弱しい笑みを浮かべて黙る。黙ってしまった荒瀬の代わりに、涼森が不思議そうな顔で俺を見つめてきた。
「私は上に行かせてもらえないんですか? 私の方がお二人より強いと思うのですが」
俺と荒瀬はびくりと体を震わせる。恐る恐るといった感じで俺は涼森に言う。
「そ、それはそうでございましょうが、志島を放置しておくわけにもいかないですし、彰子さんの護衛も兼ねて、ここに残っていてくれたらなぁと……」
涼森は無表情で小さく頷くと、分かりました、と答え無理についてこようとはしなかった。
俺と荒瀬はほっと息をつくと、互いに顔を見合わせた後、五階に向かい始める。
五階――志島が使っている階のホールには予想通りというべきか、誰もいなかった。
次に、一応の警戒をしながら唯一の部屋の扉に手をかけ、中に入る。
こちらも完全に無人。一通り部屋の中を探ってみたが、結局誰も発見することはできなかった。
二人して無後のまま、今度は六階に向かう。
六階のホールにも誰もおらず、そのまま荒瀬の部屋へ。
荒瀬が部屋に入ろうとしたところで、俺は口を開いた。
「自分の部屋に他人が入るのって、ちょっと抵抗があるでしょ。俺はホールにいるから荒瀬さん一人で見てきていいですよ。もし誰かいたら呼んでください」
荒瀬は苦笑しながら俺を見返す。
「別にそんなこと気にしませんよ。まあ、おそらく誰もいないと思いますし、僕一人でも構いませんが」
「じゃあ任せました」
俺は笑いながら荒瀬を部屋の中に入れる。
荒瀬の部屋の扉が閉まったのを確認すると、俺は階段の近くまで足早に向かい、階段周辺の床をペタペタと手で触っていく。
ある箇所で俺が望んでいた、ベタッとした感触のする場所を発見する。俺は何度かそこを触り、十分に確認をすますと、荒瀬の部屋の前まで戻り扉をたたいた。
「どうです、誰かいましたか?」
俺がそう呼びかけると、少し慌てたようにしながら扉を開けて荒瀬が出てきた。
「いえ、やはり誰もいませんでした。日暮さんの唱えた外部犯説はどうやら間違っていたようですね。やっぱり犯人は志島さんなんですよ」
「そう、だな……」
俺は何気なく荒瀬の部屋に目を通すが、やはり誰か人がいるような気配はなかった。
荒瀬はほっとしたような表情になって、
「それじゃあ下に戻りましょうか」
と言い率先して歩き始めた。
俺も荒瀬のあとを追ってゆっくりと歩いていく。
「少し不安要素はあるけど、まあ何とかなるだろ……」
「何か言いましたか?」
「いや、何も」
俺がそう荒瀬に言うと、後は二人して黙ったまま彰子と涼森の待つ四階まで歩いていった。
四階に戻りつくと、さっそく涼森が尋ねてきた。
「誰かいましたか……って聞くまでもないようですね。誰もつれてきていませんし、二人ともけがをしている様子もありませんしね」
荒瀬が照れたような笑みを浮かべながら、涼森の言葉を肯定しようと口を開く。
「はい。結局誰も見つかりませんでした。やっぱり今回の犯人は」
「志島じゃなかったな」
荒瀬の言葉を引き継ぐようにして俺が言う。ただ、その内容は荒瀬が言おうとしていた言葉とは真逆のものだが。
驚いた様子で俺を見つめてくる荒瀬をよそに、俺は推理小説に出てくる探偵たちを思い出していた。
「さて……」