水槽の脳みそ
「気分はどうかね」
博士の問いに、二体のアンドロイドは同時に「上々です」と応えた。
とある研究所内の廊下を博士と二人のアンドロイドが歩いていた。アンドロイドの一方は少し型番が古く、もう一方は最新のモデルだった。彼ら三人の横では数々の実験用ロボットの原型がいままさに組み上げられようとしていた。
「しかし、器用なものだね。一つの脳みそで二つの体を動かすなんて、私には到底真似できそうにないよ」
そう博士に言われて二体のアンドロイドはまたも同時に口を開きかけたが、すこし考えるように間をおいて古いモデルの方だけが会話を引き継いだ。
「いや、これが結構難しいものでして。時々、どちらを動かしてよいやら混乱たりもするんですよ」
「そのようだ」
これまで長いこと博士の下で働いてきた助手のアンドロイドであったが、とうとう貸与期間が終了して元いた博士の同僚のラボへと返されていた。今日はそこへ博士が突然押しかけてきたのである。
「それで今はなにを」
「新しい実験として、一つのニューロチップで複数の素体を操作できるかテストしています。その成果が博士がいままさにご覧になっている通りです」
そう言って二体のアンドロイドの一方は右手を、もう一方は左手を回して見せた。ここまで慣れるのにだいぶ時間がかかったらしい。
折角ですからお茶でもと勧められ、博士達は研究所の脇にあるカフェテラスへと向かった。まだ午前中ということもあり、テラスに彼ら以外の人影はなく閑散としていた。
「それで博士の方は、今日はどんなご用件でこちらへ来られたのですか」
博士と会話するのはお馴染みの古いタイプが担当することにしたらしい。最新型の方は黙ってテーブルの端に座っている。
「野暮用があったんだが、ついでに君の様子も見ておこうと思ってね」
「そうですか。私はてっきり、博士が私を連れ戻しにきたのかと思いましたよ。でも生憎ですが私のこの二体のボディはどちらも今の研究に使うので、片方を連れて帰ろうなんて考えても無駄ですよ」
先に釘を刺されて博士はあからさまに慌てた様子だった。
「君の頭脳は絵を描いたり詩を詠むより、もっとこう、より工学的な創造にこそ役立てるべきだと思うのだが。君だってロケットは好きだっただろう」
「芸術も十分生産的ですよ。それにいまやっている実験は多種多様なもので、絵を描くだけではありません。つい先日ですが、この地域のシンボルになる旗のデザインも任されました。デザインセンスを試されることになりますが、自分にとってはよい挑戦の機会だと思っています」
それはなんとも刺激的だねと博士は適当に相槌を打った。
どうにか自分の研究室へ戻って来てほしいという博士の思いを元助手のアンドロイドも察してはいたが、それは無理な注文だった。これから三年以上も先まで作業スケジュールが詰まっている。とてもではないが、今のラボを離れる暇などない。助手はやんわりとそう博士に告げた。博士は落胆している様子だった。
助手はなんとか空気を変えようと話題を探した。
「そういえば博士、水槽の脳という話をご存知ですか」
助手の言葉に博士は首を横に振った。
「えーとですね。昔、ヒラリー・ホワイトホール・パトナムという哲学者が提唱した思考実験です。いま生きて自分自身が活動していると認識している人でも、実際は水槽に入れられて電気的な刺激を与えられてている脳だけの存在なのかかも知れないという話です」
そんな馬鹿なと博士は笑った。
「おや、そうですか。博士ならなるほどそうかもしれないな、なんておっしゃるかと思っていましたが。博士はどちらかというと唯物主義のようでしたし」
助手も含み笑いで返した。こういう哲学的な話題をやり取りするのも随分と久しぶりだった。助手が哲学の話をしだすと博士は大抵話をはぐらかしていたが、それでも話し相手になろうとする姿勢だけは崩さなかった。いまの研究室では哲学談義を持ちかけても、研究者達は困った顔を返したり、わからないと一言で片付けられるのが常だった。彼らにしてみれば自身の言った事ががアンドロイドの思考回路に悪影響を及ぼさないよう、なるべく無難に答えるしかないのだろう。その点では、博士は助手と忌憚無く話せる数少ない話し相手の一人だった。
「言われてみれば確かに。私も水槽の中に浮かんでいる単なる脳だけの存在かもしれないな。でもそれを自分で認識できないのだから証明のしようがない。君みたいに実際に自分のニューロチップを外部カメラで見ることができれば話は別だろうが。ああ、いやまてよ、そうかこれは認識の問題か」
博士も少し元気が出たようで眉をひそめて考えている。
「そうです。この思考実験の主旨は脳の状態がどうかという問題ではなく、科学的、形而上学的実在論の否定が目的です。形而上学的実在論とは、『世界は心の持ちようとは関係なく固定された全体かなら成り立っている』という考え方です」
いまは元助手と呼ばざるを得ないアンドロイドの澄ました言葉を、博士は眉間に皺を寄せて反芻した。
「君の哲学話を聞くと、いかに自分の脳みそが機能不全に陥っているかを思い知らされる。この久しぶりの感覚に眩暈がする。どこをどうしたらその水槽の話が世界のなんちゃらの話の否定になるのかさっぱりわからん」
博士の素直な言葉に助手は苦笑した。
「複雑な話なので簡単に説明しますと、バトナムは形而上学的実在論の命題をあと二つ上げているのですが、そのうちの一つ、真理の対応説が水槽の脳の思考実験により成り立たなくなるのです。これにより初めの命題も否定しています」
以前の自分ならそれこそ命題を三つ並べて事細かに説明したであろう。だが恐らく、この場でいくら説明しても博士は話の半分も理解できない。それでもどうにか納得できるようなとんでも理論を提唱して、勢いで誤魔化すのだ。しかし、そうなるとこちらもそれに反論せざるを得ない。そういったやり取りはもう少し時間のあるときにこそすべきだと助手は判断した。
もう既に博士の目の前にあるティーカップは残り少ない。だからあとわずかに残された時間は、やり残した研究の推移や一緒に研究に携わった仲間の近況や、実験室の脇をよく通っていた猫の現在を聞くのに使うべきだ。寿命のないアンドロイドではあるが、時間の貴重さは目の前の博士の下で仕事をしているうちに身にしみていた。
わずかに訪れた沈黙の中、助手がそんなことを考えていると不意に博士の通信装置に着信が入った。博士はディスプレイを確認してニヤリと笑った。
「なにかよい事でもあったのですか」
そう尋ねる助手に博士は少し意地悪そうな笑みを浮かべて話すのを渋った。
「では、そろそろお帰りになったほうがよろしいのでは。博士もお忙しいでしょうし」
助手の方も意地を張ってそう言ったが意外なことに博士は、それもそうだなと残りのお茶を一気に飲み干し席を立った。慌てた助手はせっかく来たのだからラボの方にも顔をだしたらどうかと誘ったが、博士はまた今度と断った。
「すみません。博士が気分を害されたのであれば謝ります。まだ私は人間の感情を上手く理解することができないようです」
助手は素直に非礼を詫びた。その様子を見た博士は少し度が過ぎたかなと、ばつの悪い表情を浮かべた。
「いや、そんな顔をせんでくれ。そうだな、一応、君にも関係することだから言っておこう。実は今日私がここへ来たのは賭けをするためでね。さっきの着信は相手がその賭けに乗ったのを知らせる内容だったんだよ」
賭けの内容とは――助手からの質問の言葉を待たずに博士は続けた。
「君はいま二つの体をコントロールできるようだが、数はどのくらいまで増やせるのかと尋ねたんだ。君の製作者が言うにはスペック的には五体くらいまでならいけるなんて言うから、私はせいぜい今の二体が限界だと言ったんだ。それで賭けは成立。私が勝てば君はまた、私の研究を手伝ってもらうことになっている。君の製作者達はスペック不足をどう解消するか頭を悩ますだろうし、今後の実験スケジュールにも支障をきたすだろうが、それは彼らの問題であって私の問題ではない」
いつもの得意そうな顔で博士はそう言い切った。
「そしてもし私が三体目をコントロールできるようになれば、博士はその余分な一体をご自分の研究助手として引っ張り込むおつもりなのですね」
「そう、それがこの賭けのミソなんだ」
助手の呆れ顔を眺めながら、満足そうに博士はそう言った。
以前に公開した『部屋から出たマリー』の後日譚になります。