第19話 爽やかな朝
子供編
4才のわし、少しずつ変化する日常 ぱーと1
フォルカ聖暦1817年、4月25日。
爽快な目覚めに、わしはわしに呆れる。
ベッドを降りて軽く伸びをしてみるが、疲れも気分の悪さもまったく感じられなかった。我ながらなんて頑丈な体であろうか。
錐で刺しまくった指の怪我も、綺麗に治っている。長く捨て置かれていた錐だったので、少し心配だったのだが、膿まなくてよかった。
「ボリン、おはよう」
わしは窓際の砂場に鎮座するラブリンナの雛を見に行く。
餌は乾燥虫が1つ減っていた。
糞はしていない。
「いい子、いい子」
わしはボリンの首をくすぐるように撫でたあと、水の入った器を持って洗面室に向かう。水替えはわしの仕事だ。
器を綺麗に洗って、水を新しく入れると、こぼさないようにボリンの食器台に戻す。
「今日も晴れかな」
わしは外の光がボリンにあたるように、カーテンを少し引いてみる。庭に護衛官がいれば、起床したことが分かってしまうが、仕方がない。
エドゥアールは無事だろうか。
『おはようございまぁす。皇女様ぁ』
ビュンッと扉を通り抜けて部屋に飛び込んできたのは幽霊のブリジットだった。
「おはよう、ブリジット。何していたの?」
『はい。2階の大広間で舞踏会が開かれていたので踊っていました』
「舞踏会?」
『はい。シーラ様も参加されたんです。とてもお上手で、皆様をそれはもうメロメロにしていましたよ。わたしも男性と踊ることが出来て、はぁ、素敵でしたわ』
ニコニコと嬉しそうに報告するブリジットだが、わしは全身に鳥肌が立つ思いだ。
「シーラ、シーラ」
わしはベッドでやっぱり逆さまになって眠りこけているシーラを揺り起こす。
「幽霊がそんなにいるとは、聞いていない。舞踏会って、舞踏会って……」
わしは掛け布団を引っ剥がして、うつぶせで寝ているシーラの肩をバシバシと叩いた。
『うーん。どうしたの?』
「幽霊ってどれぐらいいるの? なんでそんなにいるの?」
1人1人と会うならよい。
会話が出来れば、怖くもない。
だが、幽霊が集団でうようよしているのを見るのは嫌だ。
「怖過ぎる」
『あはははは』
「シーラ」
まったく、笑い事ではないというのに。
『皇女様。心配いりませんわ。幽霊はよほど強い恨みがなければ生きている人に何もしません。何かすれば、魔力が減りますし』
ブリジットもホホホと笑って言う。
そうかもしれなくても、怖いものは怖いのだ。
『昨日の夜は、宮殿中の幽霊が集まったみたいだからね。50人ぐらいいたかな。でも、普段はこの近くにはいないみたいだし、平気、平気』
マシエラは起き上がって胡座をかくと、眠たそうに欠伸を堪えながら答えた。
そうだろうか。
それならまあよい。
「幽霊にも舞踏会とか、あるのか。シーラは、その服で何も言われなかった?」
ふと気になる。
大昔だからか、シーラの衣服は黄ばんだブラウスに、大きなポケットが二つ付いた草色のワンピースである。下着はドロワーズらしく、スカートの裾からレースが時折覗いている。靴下は履かず、頑丈そうな革のブーツに素足を突っ込んでいた。
ブリジットも上等な衣服ではないが、彼女は胸元を見せていれば男は寄ってきそうだ。
『まぁね。それだけ長く生きている幽霊ってことで、尊敬はされるけど……』
「わたくしの服はナタシアとレノアが管理しているし、サイズも合わないし。地下にコレクションされている服とか、着てみたらどう?」
今となってはアンティークになった衣服やドレスがあったはずだ。
『え? 服とか着替えられるの?』
「靴が脱げるのだから、服も脱げるでしょう? 物が持てるのだから、服も着られるんじゃないかな」
何となくマシエラは何でもありな気がする。
『考えたこともなかったわ』
マシエラは目をぱちくりと瞬かせ、ニンマリと笑みを浮かべた。
「後で試してみたら? ブリジットも一緒に」
『そうする』
『え? わたしもですか? わたしは無理です。着替えられません。あの、そのぅ、試したことがあるんです。せめてカーディガンぐらい羽織れないかなと』
ブリジットは恥ずかしそうに胸元を手で隠した。
『……いいなぁ、おっぱい』
マシエラがボソッと呟く。セクハラ発言ではなかろうか。
「顔洗ってくる」
そういえば、ボリンの水を替えただけで自分の顔はまだ洗っていなかった。
わしは聞かなかったことにして、洗面室に入った。
朝食はパンケーキのようである。
いつものより3倍も分厚く、それが2段になっているので、ホールケーキのようだ。
「なぜ、トマト?」
イチゴでもなく、玉子でもなく、パンケーキの上に飾られていたのは薄く輪切りにされたトマトであった。付け合わせとして横に置いてあるなら分かるが、なぜ上に。
マシエラとブリジットが隣で、ないわーと首を傾げている。
「美しゅうございますこと」
ナタシアはニッコリと笑う。
「大輪の花火のようでございますね」
レノアも助けてくれない。
わしは渋々ナイフとフォークを手に取った。
『どお?』
『どうですか?』
「……美味しいかもしれない」
ナイフを入れた瞬間分かった。パンケーキはふわふわではなかった。もっちりしており、甘くない。トマトには岩塩が振り掛けてあって、一緒に食べると絶妙な味わいになる。
トマトのサンドイッチでは駄目なのか? だが、これはこれでいける。
「2段目は、シナモンとクリームチーズを添えていただくのだそうでございます」
ナタシアが2つのボウルを並べる。
「わたくしが今日しなければならないことは?」
わしはナイフとフォークを置いて、リンゴジュースに手を伸ばす。
「先ず謁見の儀で、ザラヴェスク皇子殿下にラブリンナのお礼を述べることと、何がお好きかお尋ねすることです。お部屋に戻られてからは、書き取りと計算ドリルを。午後はお散歩と、ピアノの練習をいたしましょう。それからエリック・スファン教授の授業に少しでもついていけるように歴史のお勉強を、媛様の御負担にならないように初等教育の教科書に沿って、わたくしがゆっくりとお教えいたします。今日の予定はこれだけですわ」
ナタシアが勉強のことでわしの負担を考えるなど、今まであっただろうか。
わしの前に乳母をしていたシルヴァーナと比べて、わしの出来の悪さに嫌みばかりを言っていたナタシアが。
わしはぽかんと口を開けて、ナタシアを見る。
「レノア、媛様が今日お召しになる衣装はどれですか?」
「すぐに御用意いたしますわ」
ナタシアは目を泳がせて、レノアを連れて衣装部屋へ向かう。
わしのやる気のなさに、過度な詰め込みと期待は無駄だと悟ったのだろうか。
『ロカ、ロカ。あーん』
マシエラが大口を開けてねだる。
わしは笑って、トマト載せパンケーキをマシエラの口に入れた。
「美味しい?」
『うん。思ったより、合うね』
口をもごもごさせて、マシエラは幸せそうに言う。
「それはよかった。ブリジットも、あーん」
『わ、わたしもですか?』
ブリジットが身を屈めて控えめに口を開ける。マシエラにしたのと同じように、切り分けたパンケーキをブリジットの口に運んだのだが、それが飲み込まれることはなかった。
『わたしには無理なようです。せっかくの皇女様のご厚意を、わたしがダメダメなせいで、申し訳ございません』
しゅんと落ち込むブリジット。
「ブリジットは悪くない。わたくしが配慮に欠けていた。たぶん、マシエラが特別で凄いのだと思う」
きっとブリジットが幽霊として普通なのだ。
『フフン。あたしはすごいのよ』
胸を張るマシエラ。
「ブリジットにはごはんもあげられないし、何かわたくしに出来そうなことで、して欲しいことがあれば言って?」
今の内にとせっせとマシエラの口にパンケーキを詰め込みながら、わしはブリジットの望みもなるべく叶えてやりたいと言葉にする。
『そんな、わたしは皇女様にお仕え出来るだけで幸せですぅ。たくさんお役に立って、1番の召使いになるのが、わたしの目標ですから』
だというのに、ブリジットはモジモジと照れながら言うのだ。
いやいや、待て待て。
なんか違う。
『召使いじゃなくて、スパイね、スパイ』
『あ、そうでした。立派なスパイになってみせますわ』
意気込むブリジットをどうしようかと思いながら、わしは自分の口にもパンケーキを運ぶ。トマト載せも美味しかったが、シナモンとクリームチーズの組み合わせも好きだ。
「それより、どちらかといえば、わたくしは宮殿の外が知りたい。どんなおもちゃが流行っているのかとか、何に関心を寄せているのかとか」
宮殿で起きていることにはあまり興味がない。
政治のことや、各組織のこと、ゴシップもどうでもよかった。わしにはもう終わったことだと思うからか。
『それでしたら、映画を見ればよく分かると思うのですけれど。コメディーとか恋愛ものはどうですか? アニメとかファンタジーではよく分からないと思いますから』
「……ルイズお兄様に聞いてみる」
『あたしも現代の勉強が必要だわ。ブリジットの言っていること、さっぱりだもん』
わしとマシエラは顔を見合わせて、揃って肩を落とした。
『とりあえず、ブリジットは宮殿生活を満喫しつつ、隠し部屋とか探すっていうのはどうかな?』
『まあぁぁぁ、隠し部屋ですか? ワクワクしますわぁぁぁ』
『でしょう? 金銀ザクザク、一冊の本からレールモント城の謎に迫る、星の槍が沈む井戸、昔からモルツィア宮殿はお宝伝説がたくさんなの。他にも……』
幽霊同士、急に盛り上がりを見せ、わしはついていけなくなる。伝説が本当かどうかわしにも分からないが、発見されるのもよし、お宝が眠ったままでもよし、深追いし過ぎて迷子にだけはならないようにと思う。
「媛様。今日はこちらの衣装でよろしゅうございますか?」
「はい」
ナタシアが持ってきた衣装に、わしは頷く。毎日色が違うだけで、フリルとレースとリボンがゴテゴテとついているのは同じだ。いつか言えるだろうか。カタログで見た、シンプルなデニムワンピースやシャツドレスが着たいと。
部屋着よりもすっきりしたそれでは、謁見の儀に臨めないかもしれないが。うーん、今着ているパジャマより地味になるかもしれない。
わしはパンケーキを食べきって、ハムとレタスのサラダに取り掛かる。
「……ぬぅ、油断した」
「まあ、媛様……」
吐き出さなかったのを褒めて欲しい。苦いドレッシングに悶絶したわしを、ナタシアはクスクスと笑い出す。
『うわー』
『だ、大丈夫ですかぁ?』
本当にこんなにも不味いものが、よそで出てくることがあるのだろうか。確かに、これに比べればどんなドレッシングが掛かっていても食べられる気はする。
わしはフォークをサラダに突き刺しては、ドレッシングを振り落とし、涙目になりながら咀嚼を繰り返した。わしは毒でないかぎり、食べられるものは食べるのである。
『ロカの食べ物に対する姿勢は尊敬する』
『皇女様、偉いですわぁ』
幽霊二人が拍手をくれる。
今日の朝食は、50点である。
ゴテゴテだがそれなりに可愛らしい衣装を着せてもらい、頭はリボンではなくヘアピンがよいとごねてみた。
ナタシアとレノアは渋い顔をしながらも、水色のガラスの花が付いたヘアピンを選んで、わしの前髪を留める。
「媛様も、オシャレに目覚めるお年頃になられたのでございますね」
ナタシアは感慨深げに溜め息を吐いた。
「媛様のオシャレセンスを磨く為に、ファッション誌を購読いたしましょうか」
レノアがウキウキと嬉しそうに言う。
いや、オシャレに目覚めたわけではなく、ただ兄ルノシャイズに頭を撫でられたいだけというか。だが、それを正直に言うのも恥ずかしい。
マシエラがケラケラ笑っているのを見ると余計に言えない。
コン、コン。
「わたくしが」
部屋の扉がノックされ、レノアが動く。
この時間には珍しいことだ。
「媛様。オーエン3佐とナルビエス1尉がいらっしゃいました」
「お入りいただいて」
昨日の報告だろうか。
わしはナタシアに手を引かれ、部屋の中央に置かれたクリーム色のコーナーソファーに座らされる。
「ナタシア」
ひっくり返りそうになるのを、すかさずナタシアがクッションを集めて背もたれにしてくれる。
早く大きくなりたい。
「おはようございます。ロナチェスカ皇女殿下」
護衛官2人が揃って片膝をついた。
「おはよう」
朝から黒スーツをビシッと着こなした2人は、護衛官らしく精悍で爽やかだ。
……だが、血の匂いがする。
「本日からしばらく、自分とナルビエス1尉が皇女殿下の護衛にあたります。窮屈に感じられるかもしれませんが、御身をお守りする為、御理解を賜りたく存じます」
オーエン3佐はしれっと言う。
「いいえ。守って下さるのに文句などありません。よろしくお願いします」
わしもしれっと応じる。
身代金目当ての誘拐未遂、護衛警備の見直しが終わるまでという名目である。もうわしが否を唱えることは出来ない。
「謁見の儀の後、自分とナルビエス1尉は交代で皇女殿下につきます。皇女殿下の御予定など教えていただきたいのですが」
わしはナタシアを見る。
ナタシアは先ほどわしに聞かせた今日の予定と、明日からの予定をざっくりと話す。
「私的な質問をしてもよろしいでしょうか?」
オーエン3佐はそれをメモに取った後、妙な緊張感を漂わせて問うてきた。
「どうぞ?」
「皇女殿下のお好きなお菓子は何でしょうか?」
「お菓子?」
なぜそんなことを。
『……ありゃりゃ、ロカを怒らせるようなこと、しちゃったんだね』
マシエラはオーエン3佐に同情するような苦笑いを浮かべた。
『お詫びの品ってことですか? あ、じゃあ、行列が出来るゲイリーズ・チョコレートはどうですか? すっごく美味しかったです』
ブリジットはうっとりと頬に手を当てる。
「チョコレートはまだ食べてはいけないの。マシュマロは?」
わしはナタシアにお伺いを立てる。
「よく覚えておられましたね。チョコレートは6才になってからにいたしましょう。マシュマロでしたら構いません」
ルノシャイズからもらったチョコレートの箱を取り上げられたのは最近である。ロナチェスカとしてはまだ食べたことがない菓子であった。
「オーエン3佐。いただけるのなら、マシュマロがいいです。6才になったら、ゲイリーズ・チョコレートを下さい」
行列が出来るほどなら、是非食べてみたい。
わしの図々しい願いに、ナタシアも護衛官2人も呆気にとられたようだ。
よいではないか。わしは子供なのだから、菓子をねだるぐらい。
「ぜ、是非、贈らせていただきます」
「フフ」
理由は後でじっくり聞くからと目を細めれば、オーエン3佐はビクッと体を震わせた。
何か問題が起きたに違いなかった。