若葉図書室考
木のカウンターに肘をついてネクタイをちょっと緩め、透明なコップから褐色の液体を呷る、と言ってみると、何だか非常に気取った気分になれる。さぞかし素敵な夜だろう、とか渋くてカッコいい、とか思えるわけだが、目を開けてみるとカウンターは確かに木製だけど何だか白くて安っぽいし、プラの使い捨てコップに烏龍茶を注いだだけで、しかもネクタイが緩いのは校則違反なのでまたちょっと上げ直す、というルールに縛られた悲しい高校生の性にため息が出る。
「っていうのが、一般的な男子高校生だよ。理想と現実のギャップに哀愁を覚える、多感な時期なんだね」
僕がそう言い、烏龍茶を飲み干すと、和倉葉若葉は困ったように微笑んだ。
「私には良く分からないですね」
「それはまあ、君が女子だからだよ。例えば僕の姉にこの話をすると諸手を上げて賛同してくれるけど、それはあれが大人の……大人の、女性だからだね、うん」
若干濁し気味になったが、大学生の身分でありながら探偵業を兼任しているあの姉に「大人の女性」という形容詞はちょっと付けたくない。趣味は合うんだけど。
「そうでしょうか? そんなハードボイルドな人は、小説の中にしかいないものだと思いましたが」
曖昧な笑みを浮かべる彼女は僕の烏龍茶を物欲しげに見ているが、彼女のバッグにはコーヒーの入ったタンブラーが常備されている事を知っているので、そんな慈善の気持ちは起きない。烏龍茶だって後少ししかないのだ。
多少からかうような口調で言われたので、流石の僕もちょっとお返ししてやる事にする。
「君の方が小説の登場人物っぽいだろう。どっちかっていうとおとぎ話か」
「どこがです?」
「近所の子供に『魔女』だの『悪魔』だの呼ばれてるだろ」
僕がそう言ってため息をついてやると、若葉はムキになって、身振り手振りを交えて主張した。
「誤解に尾ひれも背びれも胸びれも付いた結果そうなったんです。特におかしな事はしていませんし、まして『魔女』なんて呼ばれる謂れは無いです」
基本的にはもの静かな若葉だが、この件に関する話題だけは過剰気味に反応した。ただ、彼女が近所の駄菓子屋に関するちょっとした事情に携わり(と言うよりむしろ引き起こした張本人なのだが)、結果として近隣の子供達に『魔女』扱いされる羽目になった上、駄菓子屋の集客にほんの少しだけ打撃を与えたのは事実で、当人は「おばあちゃん(駄菓子屋の主人だ)に会わせる顔が無い」としょげているのだった。まあ、話を聞く限りでは正義を行ったわけだし、件のおばあちゃんはその事に関しては何も知らないようなので、そこまで気にする必要は無いと思うのだが。
実際のところ、これっぽっちもやる気の無い雷雲のような黒の巻き毛が多少伸びているので怪しい雰囲気こそ醸し出しているが、魔女というには背丈が小さすぎる。濃紺のブレザーを着た魔女というのも締まらないし、常に浮かべている曖昧な微笑は、どちらかといえば柔和さを感じさせる。誰に対しても敬語で接するので少し取っ付きにくい印象はあるかも知れないが、別にそう言うわけでもない。多少理屈っぽい所はあるが、先人曰く、女性のささやかな欠点には目を瞑れ、ということだ。
そういうわけで、和倉葉若葉は放課後の暇を持て余す結果となり、時間的拘束の比較的長い図書委員の仕事の内でも一際不人気な仕事である第二図書室の放課後当番代理を仰せつかった僕と、薄暗いカウンターを挟んで向き合っているという事なのだ。
「大体、何故司書の代理など? テスト前の一週間、放課後の図書室担当は先生の受け持ちではなかったですか?」
若葉が首を傾げるので、僕は肩をすくめる。
「いきなり副校長に呼び出されたんだとさ。まあ、テスト前だし、色々と面倒もあるんだろう」
実際何も聞かされていなかったらしく、内線電話を切るなり慌てて出て行ったので、面倒事なのだろう。多分。
「そういう事だから、先生が来るまでここに居なくちゃいけない。黴臭く埃臭い上に薄暗くて湿っぽいから変人以外は滅多に来ない、この第二図書室にね」
「そうですか」
僕は皮肉たっぷりで言ったつもりなのだが、若葉はいつの間にか取り出した単語帳とにらめっこしながら、やはり曖昧に微笑んでいた。僕はと言えば、確かに勉強道具は持ってきているし試験範囲の確認は終わっていないのだが、まあ、急造の代理とはいえ、一応書籍の貸出業務を請け負い責任を持つ立場になっているので、それを放り出して試験勉強をしているわけにもいくまい。いや全く、学徒の場たる図書室に居ながら学徒たる僕が学徒の義務たる勉強が出来ないのだから、これも学徒の義務の一つである図書委員とは因果なものだ。
のんびりそんな事を考えていたら、出かけていた先生が戻ってきた。先生は図書室に入ってくるなり、大きくため息をついた。
「どうしたんです?」
「どうもこうも無いわねぇ」
僕の問いに答える気がないのか、投げやりにそう返してきた。若葉は涼しい顔で単語帳をめくっている。
「……ここだけの話なんだけどね」
先生は声を潜め、身をかがめた。僕と若葉と先生以外はいないのだが。
「盗まれたみたいなのよ」
「何が?」
僕が発した問いに、若葉が答える。
「国語のテストの問題用紙ですか?」
先生はびくりと跳ね上がり、カウンターの端に肘を強打して呻いた。
「な、何で知ってるの」
「予想しただけです。先生はさっきから、私の単語帳を横目で見て、渋い顔をなさっていらっしゃいました」
若葉は単語帳をひらひら振った。
「この単語帳は国語の漢字対策なんですけど、先生は社会科担当なのでそこまで気にする事は無いですよね? 試験期間の今、盗まれて一番困るのは当然試験問題です。一番妥当な推測だと思ったので」
「……すごいわねぇ」
先生は感嘆の声を上げるが、若葉は特に表情を変えず、曖昧な笑みを浮かべたまま言葉を続ける。
「それで、犯人とおぼしき人物はもう見つかっているのに、その犯人は関わりを否定しているんでしょう?」
今度こそ先生は絶句した。僕はある程度こういう事態に慣れているので、特に思う所はない。こういうちょっとした問題を解くのが、若葉の趣味なのだ。
「犯人が見つかっていなかったら生活指導部でもない先生が呼び出されるとは思いません。わざわざ呼び出されたという事は、先生の担任クラスの生徒に関係、もとい疑いがあるという事だと考えられます。そして、あっさり戻ってらっしゃったという事は、恐らく水掛け論に発展した上に物的証拠が見つからず、一旦お開きの形になったのではないか、と考えました」
「……驚いちゃったわ」
拍手でもしかねない勢いの先生に、若葉は丁寧に会釈した。
「勝手に邪推してすいませんでした。これ以上は詮索しませんから」
「……ううん、これは貴方にお話しした方がよさそうね」
完全に若葉の術中に嵌っている。……いや、彼女にそういう意志はない、と思う。ただ、この場合は若葉に任せた方が早いだろう。
先生は、僕の方を不安そうにちらっと見た。
「僕は何も覚えられないし何も言えない病にかかってるんで」
そう言って口にチャックする仕草を見せると、先生は安心したのか、カウンターの裏に入ってきた。聞こえないとは言ってないのに。
一応図書室内に他人がいないか首を巡らせて確認したが、先ほどと変わらず僕と先生、そして若葉しかいない。辺境で辺鄙で偏屈な図書室なんて、試験勉強にはもってこいだと思うのだけど。
「ええと、一応名前は伏せるわね。A君という子がいるんだけど、彼には、定期試験の問題を盗んだ疑いがかけられてるの」
先生は手帳を見ながらそう切り出した。
「盗まれたのは国語の高田先生。貴方達の学年で現代文を担当してるでしょ」
言われて思い出す。ちょっと太った、初老の男性教師である。色々とルーズなところがある人で、あまり生徒受けは良くない。校内で煙草を吸っているのが目撃され、怒られた事もあるらしい。最近は健康志向だから教育者は肩身が狭いだろう。僕のクラスはその先生に現代文を教えてもらっているが、クラスの違う若葉は知らないらしく、少し残念そうに頭を振った。
「ウチの学校は、各教科の先生方で集まって問題用紙の確認と校正をやることになってるのね。今日がその〆切の日で、国語科は放課後に職員室に集まる事になってたんだけど、高田先生は今朝プリントした問題用紙を国語科準備室に忘れてきたんで、取りに戻った。すると中にA君がいて、机の上にあったはずの問題用紙が消えてた、と言う事なの」
僕は、何度か入った事のある国語科準備室を思い出してみた。教材やら本やらが床にまでうずたかく積まれ、移動に苦労しそうな事極まりない部屋である。あとタバコ臭い。すごく。
一方、若葉は入った事が無いらしく、イメージに苦労しているような、中途半端な微笑みを浮かべていたので、僕の思う限りの所を伝える事にする。
「古紙回収所と喫煙所の融合みたいな部屋だよ」
すると、彼女は珍しくきっちり口角を上げて笑った。
「了解しました。高田先生の机の位置は?」
僕は覚えていなかったので首を振った。先生も知らないらしく、首をひねっている。若葉は特に何も言わず、先を促した。
「それで、高田先生はA君を職員室まで引っ立ててきて、あー、その、身体検査をやったのね」
先生はものすごく言いにくそうにそう言って、若葉をちらっと見た。彼女は微笑を崩していない。僕個人の意見で言えば、訴えたら勝てると思う。最近は色々うるさいし。
「でも、彼は持ってなかったの。高田先生はまだA君がどこかに隠したと思ってるみたいだけど、現状では見つかってないわ。大体、高田先生が準備室を出て職員室に行って、問題用紙を取りに戻るまでせいぜい一分ってとこでしょ?」
その通りなので、僕と若葉は同時に首肯した。職員室と国語科準備室は同じ廊下の延長線上にある。間には倉庫が二部屋あるきりなので、時間がかかるはずも無い。
「その一分くらいの間に問題用紙は盗まれたんだけど……A君は盗んでない、と」
「でしょうね」
若葉はまるで他人事のように軽く言ったが、自分の置かれた状況を果たして理解しているのだろうか。ここまで知ってしまったら、最早正答を導き出す以外無いのだ。先生の縋るような目つきがそう物語っている。
「A君が言うには、準備室に行ったのは、他の先生に用事があったからで、ノックしても返事が無かったので、中に入ったんだって。高田先生が鍵をかけ忘れたみたいね。誰もいなかったから出ようとしたら、高田先生が入ってきて、いきなり『貴様盗んだな!』と言われたから、何が何だか分からない、みたいな風に言ってたわ」
先生は淡々と説明する。先生と同じく、A君の心中は文字通り「理解不能」といったところなのだろう。
「A君は準備室に入って中を確認し、出ようとするまで十秒にも満たなかったと言ってるわ。それを見てた生徒が二人いて、ええと、証言っていうのかしらね、とにかく裏付けしてくれたわ」
「じゃあ、無理って事じゃないですか」
僕が口を挟むと、先生は大げさにため息をついた。
「高田先生が頑として譲らないのよねぇ。それまでは誰かが必ず準備室に居たし、時間的に考えて、自分が準備室を出て中が無人になった後に入る事が出来たのはA君だけだと。確かに準備室を離れたのはほんのちょっとだったし、その間に準備室に入った事が確認出来たのはA君だけ、なんだけどね」
そこまで言うと、先生は渋面を作ってこめかみを揉んだ。
「正直なとこ、私は個人的な感情でA君じゃないと思ってる。……教育者としては失格かもね」
弱々しく微笑んだ先生は、頭を振る。それが保身の為でない事は、彼女の評判から推して計る事が出来るので、名も知らぬA君は良い担任を持ったものだ。
「でも、状況証拠が揃いすぎてる。水掛け論じゃ埒が開かない、それでさあ、どうしましょうってわけ」
……意外と厄介な問題だ。
A君が国語科教員室に入ったのは事実、その場で見つかってるのも事実、何も持ってなかったのも事実。
「……あのごちゃごちゃした部屋ですし、本とか資料の間に挟んでしまえば分からなかったんじゃないですか?」
僕が言ってみると、先生は首を振った。
「入り口のあたりも部屋の奥も他の国語科の先生が全部探したけど、見つからなかったみたい」
なるほど。よっぽどの作業だったろうに、徒労だったというわけだ。
大体、A君は現場に居た所を捕まっているわけで、タイミング的には彼以外に盗む事の出来る人間なんて居ないとなると、答えは一択にしか思えない。
……だめだ、僕じゃ分からない。僕と先生の視線は、一点に集中した。視線を受けた若葉はアルカイックスマイルのまま目を閉じて、数分黙りこくっていた。やる事が無さ過ぎて喉が渇いたが、先生の手前、図書室で飲食するわけにもいかないので我慢する。
沈黙を破ったのはやはり若葉で、それはひどく小さな声だったが、僕にはそれが確信に満ちている事が分かった。
「……二つ、確認したい事があります」
若葉が伏せていた顔を上げて、右手の指を二本立てる。
「高田先生の作った問題用紙は、パソコンで作成したものですか?」
「そうだったって言ってたけど」
「国語科準備室に、パソコンに接続されたプリンターはありますか?」
「無いわね。欲しいって要望が前からあるわ」
先生はよどみなく答え、それがどうしたの、と言いたげに、眉間の皺を深くする。
彼女の側だとよく見えなかったと思うが、若葉の微笑みが少しだけ大きくなっている。
「分かったと思います」
「えっ?」
「もう?」
先生と僕は同時に声を上げた。若葉は小さく頷き、怪訝そうな先生に微笑みかける。
「国語科準備室にプリンターが無いという事は、問題用紙は職員室でプリントされたという事です。今日の昼休みに職員室で確認する問題用紙を、職員室で刷ったのに国語科準備室に持ち帰るというのは不自然じゃないですか? 刷った後に職員室の自分の机に置いておけば済むし、鍵のかからない国語科準備室に置いておくよりずっと安全です」
「自分で校正したくて持っていったのかも知れないじゃない」
「そうかも知れませんが、それだと校正する必要を感じたほどの書類をいざ確認する段階で忘れるなんて、それも不自然ではないでしょうか」
「……かもね」
先生は、若葉の言わんとしている所が分からないようで、答えながらどんどん複雑な表情になっていく。僕にも分からないが。
そんな僕たちの事は全く意に介さずに、若葉は外人みたいに大きく両手を広げた。
「それから、高田先生が出てからA君が入り問題用紙を盗んだとしたら、時間的には高田先生が職員室に入った直後にA君が入った事になりますが、準備室にある高田先生の席は窓際、つまり部屋の一番奥ですから、ちらかった部屋の中を……」
「ちょっと待った」
違和感を感じて、僕は若葉の話を強制的に止める。
「……さっきの話の中で、高田先生の席は誰も分からない事になってたと思うんだけど」
「煙草です。最近の学校は、愛煙家の先生方には過ごし辛いでしょうけど、高田先生は御法度の校内で吸っていらっしゃったのが知られています。準備室に入ってすぐにバレるような場所では吸わないでしょうから、つまり準備室の一番奥、ある程度換気の出来る窓際に席を置いているだろうと予想出来ます」
なるほど、理にかなっている。先生は、また感心した風にため息をついた。
若葉は巻き毛に包まれた頭頂部を得意げにちょっと撫でて、話を再開した。
「乱雑な準備室の奥まで行って問題用紙を回収し、どこかに隠すかどうかして出てくるなんて十数秒で出来る芸当じゃないと思います。大体、今朝刷った問題用紙が国語科準備室にあるなんてそれを持っていった人じゃないと知らないだろうし、ましてや生徒のA君が知る術なんて無いでしょう」
「じゃあ、問題用紙はどこに行っちゃったんだよ?」
僕の質問に、若葉は少し微笑を大きくした。
「……私の想像ですが、元から無かったのではないでしょうか」
「元から無かった?」
いよいよ混乱してきたらしい先生に、若葉は優しく、ゆっくりと話し出す。
「問題用紙は出来ていなかったのです。あるいは、家かどこかに忘れてきたのかも知れません。高田先生は前から物事にルーズだという事ですから。でも今日は〆切の日、定期試験の問題用紙が出来てないなんて大問題です。それで、最初から誰かに盗まれた事にするつもりだったところに、A君がいたものだから渡りに船、ということではないかと思います」
「……それは確認、というか証明が出来ないんじゃない?」
先生がぼそりと言う。
「いえ、問題用紙はパソコンで作成されたんですよね? それなら、職員室のパソコンで、プリンターの印刷履歴が確認出来るはずです。今朝書類が印刷されたかどうか調べられると思いますよ」
若葉がそう言うと、先生は数秒固まったように動かなかったが、黙って立ち上がり、何も言わずに図書室を出て行った。
僕はまた静かになったカウンターの上に新しいプラのコップを置き、裏に隠しておいた烏龍茶のペットボトルから褐色の液体を注ぎ、若葉の方に指で押した。
「……なんですか?」
「ご褒美。僕のおごりだ」
何となく、二人で笑った。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
二度目の投稿になります。
前作より少し長くなりました。「僕」を登場させたからですね。
「僕」の名前は何となく考えてありますが、今回は出る幕が無かったと言うか、出す必要が無かったと言うか。最早「僕」も要るのか微妙な所ですが……。
後少し若葉がチート気味に仕上がりつつありますね。修正の必要有りかも知れません。
前回よりは推理風味に仕上がったかと思います。アンフェアかどうかは置いといて。
思いついた中では比較的フェアなオチだったと思っています。
感想等ありましたら宜しくお願いします。すっごく喜びます。