未完の大器
人は概ね、最初に好物を食べる派と、最後に好物を食べる派の二種類に分けることができる。
好物を先に食べる派は、食事の最中の不慮の事態に、折角の好物が食べられなくなることを警戒しているのかも知れないし、最後に食べる派は、好物を前に沸き上がる気持ちを食事中ずっと持続したいのかもしれないし、後口を美味で〆ることによって、食事の終わった後まで幸福な気分を味わい続けようとする、快楽主義者なのかもしれない。
さて、今、炬燵に入った私の目の前に、山と積まれたミカンがある。寒い日の炬燵とミカンの組み合わせには、魔力めいた吸引力がある。
湿度の低い乾燥した日に炬燵の中にいると、程好く熱せられた体が、更に水分を失う。その不自然に渇いた体に、甘酸っぱいミカンの果汁が、なんとも気持ちよく染み渡るのだ。
実は、同じように見える山と積まれたミカンにも、一つ一つに個性というものがある。甘い実、酸っぱさの勝った実、食べ頃を過ぎてしまった残念な実、水分を失ったスカスカの実、甘味と酸味の調和した素晴らしい味の実。ミカンの木の生えていた環境の差か、同じ木出身でも、成る場所によって変わるのか、保管状況とタイミングの問題か、その味の差は、座椅子に座り炬燵に潜りミカンの味に集中する私には、歴然として感じられるものだった。
更に言えば、一玉のミカンの中にも味の優劣は存在している。日当たりに恵まれたミカンの実は、太陽の光を凝縮したような、溢れる愛を一身に受けて育った豊かな味わいを持っている。そして、東から登り南の空を通り西に沈む太陽は、当然、一玉のミカンの実の全てを平等に照らすことはない。最初の一口は素晴らしかったのに、食べ進める毎に残念な味に変わっていくミカンも少なくない。円状に並んだミカンのどこから食べ始めるかは、ルーレットのごとき、れっきとした賭けなのだ。
そう、私は、食事を美味しいもので〆め、いつまでも幸福感に浸ってたい快楽主義者だ。
年末の慌ただしい時期、やらなければならないことは山とある。しかし、美味までもう一歩といったミカンに当たる度に、次の巡り会いに期待を抱いて、新たなミカンに手をかけてしまう。しかも、たとえ美味しいミカンに当たったとしても、口に入れた最後の一房が満足できるものでなければ、後ろ髪を引かれるような心持ちを感じてしまう。 炬燵を離れた後も口に残り続ける後味に、後悔を感じないという確信。これぞ究極と断言出来る一房に出会うまで、果てしなくミカンを剥き続け、口に運び続けるのだ。
思えば、この思い切りの悪さで、今までどれだけの好機をフイにしてきたことだろうか。今よりもっと良い条件がそろうのではないかと期待し、待ち続け、そして時期を逃す。これは間違いなく、私の悪癖と言えた。
私もいい加減目の前の快楽に振り回されるのを止め、もっと大きな成果を手に入れる為に立ち上がる時期ではないのだろうか。
そう決意した私は、今、皮を剥いているミカンの味がどうであろうとも、そこで一旦見切りをつけ、たまりにたまった雑事の片付けに取りかかるのだ。考えてみれば、私を振り回しているのは、取るに足りないただのミカンである。寒い日のミカンと炬燵には、確かに強大な魔力があるが、世の中の人間すべてがこの魔力に陥落していたならば、この世界の秩序が、今まで保たれているはずがない。そして、人に出来ることが、同じ人である自分に出来ないわけがないのだ。
粛然と立ち上がり、ミカンと炬燵から与えられる快楽の奴隷の立場から、雄々しく己を解放するのだ。
そうして私は、最後のミカンの白い筋を、その立場に相応しくなるよう、丹念に丹念に取り除いた。この一房が例えどんなに残念な味であっても、決して不満は漏らさない。この一口を最後に、小さな幸せとわずかな不幸の繰り返しに一喜一憂する、生ぬるい現実とは決別する。私は覚悟を決めて、極楽のような炬燵から体を引き抜いた。外の世界は冷たかったが、体を動かしてい働いていれば、そのうち暖まってくるだろう。そうして、私はミカンの一房を口に運んだ。
挑んだミカンは、今日食べた沢山のミカンのどれよりも素晴らしかった。
強い甘味に刺激を加える調和のとれた適度な酸味。鼻に抜ける鮮やかな香り。
決して贅沢とは言えない、どこにでもあるようなミカンが、これほどまでに心を揺り動かす。一体これは、どんな神の悪戯なのだろうか。
私は、小さなミカンのもたらした感動に耐えることが出来ず、再び暖かい炬燵に潜りこむと、新たなミカンに手を伸ばした。もう一度、同じ感動を味わいたいという欲望に、打ち勝つことが出来なかったのだ。
そして私は、みかんの大器と成り果てたのであった。
自戒を込めるのと、文章練習で書いてみました。駄洒落ですみません。雑事頑張る。