75.5話 機会なんていらない
そっと離れたのは彼の体温で、代わりにこちらを抱きとめた腕は彼より少し細かった。
声を上げる間もなくすっぽりと布で覆われ、そしてそっと『騒がないでね』と優しく言いくるめられる。
光を通さない厚い布の中で分かったのは、彼において行かれたという事実だけだった。それが何を示すのか分からずに唇を噛みしめる。
いや、少しだけ、分かってはいた。彼は明確な理由と意思があって、私を遠ざけているのだろうと。
そしてそれは、簡単には翻されないだろうと。
しばらく大人しくしていると、ふっと布を取り払われた。そして彼とよく似た顔立ちの人がこちらを覗き込み、眉を寄せて尋ねてきた。
「もしかしなくても、怒ってる?」
「いいえ」
「……怒ってるね」
苦笑いをしながらレオン様は馬を止め、先に降りた。
そしてこちらにそっと手を差し出す。その手を取ることにほんの少し戸惑えば、彼は無理やりこちらの手を掴み半ば引っ張るようにしてこちらを抱きとめた。
『彼』より少し細身で、そのことに言い知れぬ不安を抱いた。私を支える人が、今までとは違う。私を守る手が、求めているモノと違う。
「城から出たから、少し休憩しよう?」
「あの、どうしてこんな」
城を出たと聞いて体が震えた。
事態が呑み込めずに彼にしがみつく、私は追い出されてしまったのかと考えるとどうしようもなくなって、まるでレオン様を責めるように矢継ぎ早に言葉が溢れそうになる。
止めるすべなどなかった。
「どうして、私は城を出されたのですか。私は、もう、必要ないということですか。アルが……」
言葉が止まった。アルの言葉を思い出して唇を噛みしめる。
離れる直前にもらった言葉を信じていないわけじゃない。嘘だと思っているわけでもない。
それでも、城から出されたという事実は重くのしかかり、私の思考を乱し始める。
今までこんなことなかった。だからこそ余計心配になる。いったいアルはどうして、こんなことをしたんだろう。
「アルは、何か言っていた?」
「誰よりも想う。いつも、想っている、と……」
繰り返すが、本当にそう言ったのか自信がなくなってきた。彼が信じられないわけじゃないことは、レオン様も分かっているのだろう。
私が疑っているのは、他でもない自分自身であると。
レオン様は少しだけ微笑んでから、手を引いて歩き出す。私はそれを振り払うこともできずに、その手に従って歩き始めた。
何かあったのだ、理由が。
そう信じることしかできない。
「実は僕たち追われているんだけど、少し相手をしておきたいから、これ持ってそこの店に入ってて」
はい、と渡されたのは白い封筒で、それを書いた人が分かって大人しく受け取った。
渡されたそれに視線を落としたが、宛名も何も書かれていなかった。そして封も簡単にされているだけで、彼の印象とは少し違っていた。
「珍しいよね。アルがこんなシンプルなものにするなんて」
執務用の封筒だよ、それ。
レオン様はそう言ってからこちらを見る。
そしてそのまま私の肩を掴み、先ほど指差した店に向かって押し出した。強くない力だったが、つい一歩踏み出した。
耳元で『大丈夫だよ』と呟かれる。それは何に対しての言葉であるのか、よく分からなかった。
ただ振り返って目に入った表情を見ると、彼はとても優しい目をしていた。その表情に勇気づけられて、指差された店に入る。
少し騒がしい、食事処だろうか。
所在なさ気に立っていると、ぽん、と肩を叩かれる。びくっと肩を震わせると『あらあら驚かせてしまったかしら?』と柔らかい声が聞こえた。
「あの」
「お初にお目にかかります。マリアと申します」
「マリア、さん」
「アル様の乳母でしたの」
「あ! 薬の」
思い出した。そうだ、アルの乳母であった人の名前は幼いころ何度か聞いたことがあった。
とても穏やかで優しく、しかし怒るととても怖いという人だ。
手が荒れたとき、薬を分けてくれたのも確か乳母の方だった。
「その節は、お世話になりました」
「いえいえ。よく効きますでしょう? まぁ、そんなお話していたら後で怒られてしまいますね」
とりあえずこちらにどうぞ、と席を勧められ、お礼を言って腰かけた。
するとマリアさんはくすっと笑われて、それから『予想以上にお可愛らしくてびっくりです』と続けられた。
首を傾げれば、『レオン様は髪色と年齢しか教えて下さらなかったの』と答えられる。
よく見ると予想以上に若い方だったが、アルが言っていた通り穏やかそうに笑う人だ。
「殿下……いえ、アル様が好きになった方だと聞いて、一体どんな方かと思っていたの。とても可愛らしいわね」
「いえ、あの」
「でも、多分、アル様が好きになったんだから、可愛らしいだけじゃないのでしょうね」
その優しげな瞳に息をのみ、それから首を振った。そう言ってもらえる価値など、どこにもないのだ。
「アルにおいて行かれてしまったんです」
「そう」
「私にできることって傍にいることくらいしか思いつかないのにっ」
ぎゅっと手を握りしめると、その手の中にあった封筒も少し歪む。慌てて手から力を抜くと、マリアさんは『それは?』と問うた。
おずおずと『アルバート様からです』と言うと、『言い訳が書いてあるのでしょう』とふわっと笑われた。
「読んでみたら? 言い訳が書いてあって、少しはすっきりするかもしれないわ」
そんな言葉に促され、恐る恐る手紙を取り出す。
しっかりと閉じられていなかった封筒は拍子抜けするほど簡単に開いて、その中から白い便箋が出てきた。
手紙をもらったのは初めてだ、と今更気づく。幼いころから見慣れている字だったために、手紙をもらったことがないと気付いても、不思議な気分だ。
こうやって書くんだ、と手取り教えてくれたことを思い出す。
だから私の字を見ると、『女性らしくない字を書くのね』と皆苦笑いするのだ。私の筆跡は、少し、アルと似ている。
その字が、無理やり事を運んでしまったことに対する謝罪を綴っていた。それでも詳しい説明はほとんどされておらず、結局のところ『事を運んだ』という事実だけを謝っている。
何故そんなことをしなくてはいけなかったのか、私はどうしておいて行かれたのか、それは分からずじまいだった。
そして最後の文を見て、手から手紙が零れ落ちた。そこに書かれていた文字に、血の気が引くのを感じた。
機会なんていらない ―聞かなくたって、分かってるでしょ―
『これからも、こういうことが起こるかもしれない。リゼットが負担なら、逃げ出すことを勧める。俺は、お前を傷つけたいわけじゃない。一度、よく考えてみてくれ』
……そんなこと、言われたくなかったよ。
久々にリゼット視点を書きました。本当はアルの手紙を読んで延々と『考えてみてくれ』の意味を考えるリゼットを書きたかったのですが、あまりにも暗くなりすぎるので変更。
アルは言葉足らず。