70話 涙を拭うことさえできず
この手を伸ばして、彼女の頬をとらえることなどできない。その頬を滑る涙を拭い去ることなんてできない。触れてしまえば、また傷つけてしまうだろうから。
涙を拭うことさえできず ―手を握りしめて耐える?―
「……なんで、そんなこと、言うの。話を聞いて。お願いだから、兄なんて、呼ばないで」
ぎゅっとリゼットが握りしめて言うので、まじまじと彼女の顔を見つめた。
絞り出すようなその声に、何を返したらよいか分からず戸惑う。何を返せばリゼットは落ち着くのか、いつもならすぐさま手を伸ばして彼女を取り巻く全てから守るように抱きしめるのに。
今の自分にはそうすることもできずに彼女の肩辺りで手を彷徨わせた。その肩に触れることを許してしまえば、今度こそ彼女から何もかもを奪ってしまう気がした。
体を自分のものにして、心を無理やり手に入れて、その庭師としての未来や薬草に関する熱意さえすべて摘み取って――。
そうしたら最後、彼女には何も残らないのではないか。
「話は、聞く。どんなことでも、お前の言葉ならすべて」
リゼットの言葉なら、どんなことでも聞くつもりだ。その言葉が、たとえ自分にとってどれほど辛いことであったとしても。その口から零れる言葉であるならば、甘んじて受け入れよう。
彼女が未だ自分に伝えていないと言い張った言葉が、どんなものかまるきり分かりもしないけれど。泣き出すような声を出して目を潤ませているリゼットの肩辺りで止まっていた手を下した。
「アル、どうしてそんな顔をするの? どうして、そんな悲しい顔して笑うの」
「それは」
悲しいのは、自分の手でリゼットを守れないと分かってしまったから。自分自身で彼女を傷つけることもあるのだと、知ってしまったから。
自分は彼女をいとも簡単に汚すことができると、身を持って自覚してしまった。
「私、アルを怖がってなんかないっ。アルを怖がるなんて、絶対に、ないよ」
リゼットの手が震えながらもこちらの胸元を掴んで、それから逃がさないようにと改めて強く握りしめた。
そうか、と返事をしてみてもその手が緩むことはなく、そればかりかより一層強く握りしめられることになってしまう。
分かっているよ、と伝えるために手を上げて、その頭を撫でようとしてまた迷う。その手は結局彼女の頭には触れられず、そのまま下におろした。
その気配を感じ取ったらしく、リゼットはまた力を込めて服を握りしめる。
「前みたいに、いつもみたいに……」
もう自分たちに『いつも』なんて言葉は似つかわしくないけれど。『いつも』と表されるその日常はもう遠くなってしまったけれど。
二度と戻れず、懐古するしかない思い出になってしまった『昔』の話。
「触れてよ、アル」
「無理だ。もう、無理なんだ」
「お願いだから、私が悪いなら謝るから、だから。――もう触らないなんて、言わないで」
嗚咽がリゼットの口から溢れて、言葉は涙に溶けていった。頬を撫でるように流れる涙に胸が痛んで、ぐっと下したままの手に力を込めた。
冷たい風にあおられて、顎の辺りから下へ落ちる滴がパタパタと音を立てて土に吸い込まれていく。
その様子を見て耐えきれず、指先で顎の涙を掬った。肌に一瞬だけ、触れた気がした。
指が、頭が、足が、心臓が震える。痛いくらいの感触に、彼女の存在を感じた。口づけてからずっと希薄に、遠くに感じていたリゼットは今確かに自分の目の前にいるんだと。
「アルが怖くて、避けていたわけじゃないの。アルが、嫌いで、逃げてたわけじゃないの。私が怖いのは」
アルが、私を『好き』って言うのが怖かった。
いつか自分が惨めになりそうで、その言葉に何か返して、決定的に全てが変わってしまうのが怖くて恐ろしくて、避けたかった。
拠り所がかくなってしまうんじゃないか、アルを失っちゃうんじゃないか。そんなことばかり考えていたんだよ。
リゼットが顔を覆って、泣いているように言った。その姿にここしばらく見ていなかった『少女』の姿を見る。
「婚約するアルの言葉を本気にして、真に受けてしまいそうになるの。喜びそうになるの。愚かなのは、私なんだよ」
びくりと震えたのは彼女か自分か。その言葉に痛みを覚えたのは胸か心か。
寒いという感覚もなくなっているのに、痛みだけは感じてしまう自分がおかしくて、彼女の頬に自らの手のひらを添えた。
びくり、と今度は彼女が震える。ほのかに温かいその感触に、悲しいほどの愛しさが胸に募る。消えることなく降り続いて、募って積もって心を揺らした。
「どう言えばいいか、もう分からないけどな、リゼット」
もう、伝わらなくていいんだ。真に受けてもらえなくていいんだ。
胸に募るこの愛しさだけ、吐き出しさえすれば。この勝手なだけの想いを持ち続ける以上、こうするしかないんだから。
「お前のことを大切だって、ずっと言ってきた。そう思っていた。でも大切にすることなんでもうできなくて、傷つけることしかできなくて」
彼女のため、なんてことがもう口に出せないくらい身勝手な思いしか出てこないんだ。
リゼットの両頬に手を添えて、自分の方へと向かせた。苦く苦く笑って彼女を見つめれば、彼女はくしゃりと顔を歪ませてまた泣きそうになる。
そんな顔、お前がする必要なんてないのに。愚か者なんてこと、お前が思う必要なんてないのに。
だからそんな、涙で濡れた顔を見せるな。抱きしめたくなるから。
「この身勝手な想いに、使っていいのか分からないけど。でも、お前が好きだよ。婚約とか王族とか、そんなことを一瞬忘れてしまうくらい。全部、捨て去っても後悔しないくらい。お前だけが、どうしようもないくらい、好きだ」
うん、と彼女の口が小さく動いた。小さく、冷たい風に溶け入るような声だったが、こちらの耳にはっきりと聞こえてきて、彼女を見つめる。
彼女の涙に濡れた瞳が、こちらをじっと見ていてその紫の瞳に惹かれた。
彼女の口から零れ出た『うん』という小さな一言は、一体何に対するどんな意味の答えなのか、それを考えるという余裕すらなかった。
この子たちにはある種の傲慢さがあって、自分の行動が逐一相手に影響を与えていると信じ込んでいるその『傲慢さ』が愛しいなぁと思います。