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竜胆の東屋  作者: いつき
本編
89/109

69話 もう触れない

 自覚してしまったんだ、この手はお前を汚してしまうと。知ってしまったんだ、この想いはお前を壊してしまうと。

 そう、だからもう、この想いのままお前に手を伸ばしたりしない。


 もう触れない ―十分、自覚してしまったから―


 こちらへ近づくリゼットから目を逸らし、目覚めたばかりでぼんやりとしている頭を振った。いつの間にかぐっすりと眠っていたらしい。そのときに見た夢を意外なほどはっきりと覚えており、自らの諦めの悪さに笑いも込み上げてこない。

 リゼットが目の前に立ったことが分かり、その靴の先を見つめた。相変わらず男物の服を着ているらしい。動きやすそうな足元だとどこかぼんやりと考えた。

「アルバート、さま? どうしてこちらへ?」

「ん、まぁ、息抜きだ」

 なるべくいつも通りに、何もなかったように。せめてリゼットの負担にならないようにと声を絞り出して立ち上がった。

 何もなかったんだと言うように、しかし彼女を怖がらせないように距離を保ちつつ。

 するりと彼女を避けて足を踏み出し、湖に手をくぐらせた。気まずい沈黙は以前よりも少しましな方だろうか。彼女との距離を、今はかろうじて掴みかけているようだから。友人のときより少しだけ遠い、今の距離。

「リゼットこそどうした? ここはお前の仕事場から随分と離れているだろう?」

 何気なく言ったはずだったが、だからこそ自分はここにいるのだと言っているようで口を閉じた。確かにここへいればリゼットに会わなくて済むと思ったのは事実だったが、それが彼女自身に知られるのは気まずい。

 気温の低い今の季節は寒くなるのもすぐで、太陽が落ちればさすがに自分も体調を崩すだろう。湖の冷たい水から感覚の鈍くなった手を引きあげて、マントの裾で拭った。

 それからここを立ち去ろうと彼女の横をすり抜ければ、マントの端が何かに引っかかってそれ以上進めなくなる。くん、と弱い力で引っ張られた気がして、違和感に眉を寄せて振り向こうとした。

 しかしそれもできず、背中にわずかなぬくもりを感じて動きが止まる。

「私を避けているアルを――探してた。ううん、探すのに疲れて、何もかもが嫌になって、ここに逃げてきた」

 ごめんなさい、とリゼットが小さく謝罪の言葉を口に出した。

 その言葉にどんな意味が含まれているのか分からず、ただ背中に寄せられた温かさをひどく意識する。自分を恐れていたはずの彼女が、どうして今になってここまで自分に近づくのか。

 拒絶して、目も合わせなかった彼女のしていることがうまく整理できずに固まった。振り向くという選択肢などなくて、前を向いたまま声を絞り出す。

「お前が謝ることなんて、何もない。お前は何も悪くないから、だから」

「違うよ、本当に何も悪くないのはアルだよ」

 言われたことが分からない、理解できない。悪くないが拒絶はするということか、視線さえ合わずに辛い思いをしたのはあの行動が『間違って』いたからではないのか。

 間違っておらず、悪くなければ、彼女は拒絶しなかった……?

 それは彼女が自分を思っていることと同義ではない気がした。それは彼女に無理をさせてはいないか?

 拒絶しないということが、気持ちを受け入れたという意味にはならないだろう。

「リゼット、離してくれ。手を、離せ」

「離したらっ、アルはここから立ち去っちゃう!」

「っ。当たり、前だろ」

「避けないで!!」

 低く命令口調で出した言葉など、リゼットには関係ないようだった。ぎゅっと新たに腹へ手を回されて、体を押し付けられた。

 ほのかに温かく感じていたその体温がよりはっきりと伝わるとともに、彼女の柔らかさと確かな熱を知ってくらりと眩暈がしたように思えた。

 そしてそれに連なって吐き出された言葉へ、『避けているのはお互い様だろ』と小さく返した。なかったことにしようと思った。あれは間違いだったと思うことにした。

 時が戻ってもまた同じことを繰り返すとしても、それでも自分は今同様に後悔するんだろう。お前に悪いことをしたと思って、お前を避けるんだ。

 これ以上お前を傷つけないように。触れてしまえば自分が何をするか分からないから。

「避けるだろ、普通。お前も、避けていた。こっちが悪いと思ってるよ、ちゃんと」

 『お前も』という言葉にリゼットが小さく体を震わせたのが分かった。責めているわけではないことをどのように伝えてよいか分からず、言い訳のように自分が悪いと付け加えることしかできなかった。

「避けていたのは、少し混乱していたからです。アルバート様を、嫌っていたわけでは」

「分かっている」

 分かってるから、もう自分から触れようとは思わないんだ。お前が嫌っていないのは、優しくて頼りになる兄役の『アル』であって、その『好き』という感情もきっと兄妹を慕うようなものでしかないんだろう。

 そう理解すればするほど、リゼットの言葉は針にしかならなくて、胸に表しようのない痛みが走った。後ろから抱きしめられたまま動くことを止め、ひたすらに手を握りしめて衝動に耐えた。

 抱きしめて、口づけて、そうやって傷つけるようなマネはもう二度としないように。この子は自分を兄として見ているだけなのだと掌に走る痛みで自分を律した。

「分かってる、リゼット。ちゃんと分かっているんだ。それでも、俺はまだ混乱してる。お前をまた傷つけてしまいそうで」

 お前が好きな『アル』ではなく、お前が恐怖しか抱いていない今の俺を見て嫌うのは、辛いんだ。

 分かってはいても、やはりうまく整理できずにいるんだ。それはもう、自分ではどうしようもできない。

「アルは、何を分かったって言っているの……? 私、まだ何も、何も、あなたに伝えてないのに」

 そんなことないと首を振り、そっと彼女の手首を掴んだ。細すぎるそれに触れて、慎重に自分の腹から腕ごと外すとリゼットの顔が目の前に現れた。

 変わることのない紫の瞳に、ぐっと噛みしめられた唇、青白い頬は引きつっている。

 その顔色の悪さに思わず手を伸ばしたが、指がぴたりと止まってしまった。手を握りしめて彼女から視線を外して笑いかける。

「伝えてなくても、お前の目に映る恐怖は見逃さないぞ。――兄、だからな」

 お前はもう妹ではない。想う相手で、大切な存在で、この身に宿る欲の矛先にいる愛しい人。

 もう自分は、彼女を汚す存在。守るだけの存在などと、皮肉交じりでしか口に出せない。

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