63話 口付けは
自分は後戻りのできない境界線を越えた。では彼女はどうなんだろうか。彼女は無理やり越えさせられたんだろうか。二人の関係が音を立てて壊れた気がした。
口付けは ―関係崩壊の合図―
フルフルと目を見開いたままこちらを見つめるリゼット。その視線に優越と戸惑いがじわじわと忍び寄る。
彼女が自覚したと分かるその目が、自覚を強いたのだとこちらを責める。後悔する気など毛頭なかったが、それでもちくりと良心は痛んだ。
身勝手すぎるこの想いを彼女へと押し付け、あまつさえ彼女が今まで慎重に引いていた境界線を越えさせた。兄妹がいいのだと言った彼女に、それ以外の道を、それ以上の関係を望んだ。
一方的に、彼女もそうであってほしいなどと願った。手放してやるのが一番なんだと、身に染みているはずなのに。巻き込みたくないと、偉そうに思っていたくせに。
「リゼット、お前に辛い思いをさせた。これからも多分、させるんだろう。俺の身勝手さを許してほしいなんて思わない。だけどな」
もう何度も考えたんだ。出会わなければよかったのかと、そう考えたことさえあった。二度と会わなくてもいいと、そう考えた時期も。
そうやってあらゆることを繰り返し自分に問うた。どこに彼女の幸せがあるのか、自分はどうしたいのか。どうする『べき』か。自分の取る道は最善か。
恋をしたことのない自分が考えたところで、正しい答えなど出てくるはずもないのに。
「ごめん、なかったことにできない。忘れることは、絶対ない。捨て去ることもできない。俺が一方的に」
お前に口づけて嬉しかった。とても、身勝手に。彼女の気持ちなど構いもせず。初めて手に入れた『恋』なんてものの捨て場を見つけられずに。その上自分はそれを大切にする道をとろうとしている。
「俺が一方的に、お前を慕っているよ」
もうリゼットを想うことに、後ろめたさを感じぬほど。あきらめて、手を離すことができぬほどに。深く深く、彼女を想う。
理性や良心だけでは止められなくなって、彼女を傷つける恐れさえ捨てさせるほど。他の誰かに、たとえそれがレオンでも渡したくない。
目を丸く見開いたまま微動だにしないリゼットにそれを伝えれば、彼女は静かに口を開いてから、冷たい声を吐き出した。
「もう二度と、戻れないと知って……それでもあなたは、私へそれを伝えるのですか。もう友人でさえいられぬと分かっていて、それでも」
それでもあなたは、この選択をするのか。
リゼットは目を伏せた。その目に宿る感情は見ることができなかったが、その声は震えていた。そこでようやく自分の気持ちを伝えることと、相手の真意を知ることはほぼ同時なのだと思い当たった。
そして彼女の反応から、彼女が持つ感情が自分とは大きく異なることを知る。分かり切っていたことだったが、やはり自分は彼女にとって『友人』である『兄』だった。その関係を壊されるのをひどく忌んでいた。
彼女が欲していたのはただ変わることのない関係で、それは少し前に自身が欲しているものと一緒だった。自分が求めていたものを、何の疑いもなく大切にしていた関係性も、彼女もまた同じように大切にしているだけだった。
疑わなければ、この関係ほど心地よいものなどないのだから、何も言えない。
「分かっていて、伝えてるんだ。戻れないのも知ってる。それでも俺は」
「そ、れは」
リゼットが息をのんで口を開いた。しかしその口から洩れた言葉は途中で途切れ、その後は何も出てこなかった。ただ苦しげに眉を寄せ、何度も口を開こうとする。そのたびに口からわずかな吐息は洩れるが、結局意味を成す言葉にはならなかった。
彼女を困らせているのだとすぐに分かった。彼女は優しいから、はっきりとした拒絶が口にできないのかもしれない。
「リゼット、お前には」
辛いけど、寂しいけど、こちらの気持ちだけで何もなせないのは知っている。ありきたりな言葉でいえば『振られた』のだろう。無理もないことだ。
リゼットにしてみたら、ついさっきまで兄のように見ていた人物から突然こんなことを言われたのだから。驚くだろうし、混乱もしているだろう。場合によっては嫌悪さえ感じるのではなかろうか。
「言い訳も弁解も、弱い俺はたくさんしたい。婚約のことも母のことも、何もかも話したい。だけど、俺にとってもお前にとっても辛いことしか口にできないから」
たくさんの誤解をさせた。それをできれば言い訳したかったし、本当のところ知ってほしかった。
しかしそれを話したところで彼女のためになることなんて何もなくて、逆に気を遣わせてしまいそうで。結局のところ自分の身勝手な思いと行動のせいであるから、責任逃れもしたくなかった。ぐるぐると回って最後に口を閉じた。
「止めよう。わざわざ暗い話なんていらないだろうな」
「アル、私」
辛そうな顔は確かに見たくなかった。だけど忘れてくれとも言えずにいた。元へ戻れないところまで来て、彼女の記憶にとどめておきたかった。
心を通わせたかったわけではない。それ以上に心を伝えたかっただけだ。自分の心を、自分の想い人に、ただありきたりで陳腐で簡単な言葉に乗せて。誰もがやっているように。ただそれだけ。
「返事は、聞かないでおこう。お前の辛い顔も見たくないし、それに何より俺が」
俺が耐えられなくなりそうだから。渡す相手も置き場所も、捨て場さえ失ってしまったこの気持ちの重さに、自分自身が耐えきれなくなってしまいそうだから。
だから自分の身を守るために、彼女の口を塞いだ。先ほどとは違い、自分の唇によってではなく、指先を使って。
するりと撫でた唇は怖いほどに震えていて、それが余計こちらの動揺を誘う。はっきりとした拒絶をくれといつか願ったが、今はその拒絶の言葉でさえ避けたかった。生まれて初めて持った感情は、自分を驚くほど臆病にさせる。
わずかな傷も、今は命取りになるような、そんな気分だった。