07話 ダンスをしようか
ゆるゆる流れる音楽にあわせて、ゆっくりとステップを踏み始める。放心状態の彼女を無視して、ただ拙いステップを刻む。
ダンスをしようか ―それも悪くないだろう―
幼い頃に出会った彼女は、少々知識欲がすごいかった。
特筆すべき項目は薬学であるが、その他のことでも彼女は大抵興味を持つ。頼られるのが嬉しかったあの頃は、自分の持ち得る全てを彼女に教えた。
礼儀作法、王宮史、狩の仕方まで。
その中にはダンスも入っており、踊るだけならどの令嬢にも引けはとらないだろう。
今ではすっかり頼られることもなくなってしまったので、本を貸す程度のことしかできないわけだが。全く、その知識欲には恐れ入る。
自分にはどうなったってないものだ。断言できる。
「リゼット。ステップを踏まないとそのうち足を踏んでしまう」
「その前に、ダンスをお止めください。こんなのっ」
かろうじて我に返ったらしい彼女が声を上げるが、聞こえないふりをしてステップを続けた。
しばらく無言の攻防戦が続くと、彼女は諦めたように合わせてきた。
呆れたのか、はたまたこれ以上このままでは足を踏まれかねないと危惧したのかは分からないが、こちらにとって好都合であることに変わりはない。
「そう不機嫌そうにしなくてもいいだろう? 久しぶりに躍っているのに」
闇に紛れてしまいそうな紫の瞳は、それでもやはり月の光を受けて鮮やかに輝く。
今それは怒りの色を示していたが、変わらず美しかった。
「アルバート様、どうしてダンスなんて。……庭師の制服なのに、私なんて」
ひらりひらりとわずかに膨らむその服は、確かに夜会には適していないだろう。
しかしここはそもそも夜会会場でも何でもないんだから、別に気にすることでもない。むしろその簡素さは逆に好ましいとさえ思っているのに。
動きやすく、無駄の一切ないそれは、まるで彼女自身のようで愛しくさえある。
「それにしても、上手くなったな。リゼ」
つい昔の愛称で呼んでしまうのは、あの頃が懐かしすぎるからだ。
まだずっと身長も低く、足元が危なっかしく思っていたあの頃。思ったように足が動かず、何度もこけそうになった彼女を支えた。
それでも彼女は泣かず、諦めようともしなかった。
普通に生活をしていれば、彼女には一生なんの役にも立たないものなのに。それでも、少しずつ練習を重ねた。
「足が覚えているようです。今思えば、覚えなくてもいい知識でした」
少しだけ沈む声に『違うだろ』と口を挟めば、彼女は驚くほど目を見開く。
まとめ損ねた後れ毛が、顔にかかって影を作った。幼いと思っていた顔立ちが、それだけでぐっと大人っぽくなる。
確かに、役に立たない知識だった。だからといって、まるきり無駄な知識ではないはずだ。最初から無駄な知識だったなどと、考えたくもなかった。
「リゼが覚えておいてくれたから、今こうやって躍れるんだ。俺はそれが嬉しいし、楽しい。教えてよかったって思った。
それも無駄だと、お前は思うか?」
「いいえ……」
――ただほとんど、使うことがないと思っているだけです。
そう零した声は小さかったが、確かにそう聞いてそれに関しては何も返せなかった。
右へ左へ、ふわふわと音にあわせて躍るそれは穏やかで、心地よかった。
彼女がいれば、夜会にだって一晩中出て、躍り明かせるような気がした。暇さえ、彼女となら感じないだろう。
妹のように見守り、教え、過ごしてきた彼女のなので、話すことが尽きることもないだろう。
この前植えたという新しい薬草も、新作の茶菓子の感想も、街で評判の舞台の噂も。
話すことは考えれば考えるだけ出てきて、少しおかしくなった。貴族のお嬢様との会話は、あんなにも退屈なのに。
「アルバート様は、変わり者なのですね。きっと。こんな私の方がいいなんて」
曲の拍子が一変する。穏やかなそれは一気に激しくなる。
目まぐるしいその音に後押しされるように、足の動きを早めた。それと共にゆったりと取っていた彼女との距離も縮まって、一瞬彼女の手が強く握られた。
しがみつくようなその動作に、コトリと何かが動く気配がした。
「変わり者? そうか? 別に普通だと思うが」
「あっ、アルバート、様」
付いて来れなくなり始めた彼女が声を上げるが、止めるつもりはなくまるで抱え込むようにして回る。
今自分の中にあったその予感から、目を逸らすようにその腰を攫って回り、笑い声を漏らす。
もう音楽にあわせる気もなく、くるくると回り続ける。
「アルバート様!!」
「いや、あまりにも一生懸命だから、つい」
やっとその手を離すと、彼女は逃げるように距離をとり、恨めしそうにこちらを見た。
速すぎた回転のせいか、わずかに紅潮した頬が見える。それを見て笑えば、今心の中になった『何か』さえ霞んで、その気配さえなくなってしまう。
思い違いだったのかもしれない。
「リゼット、怒ったか?」
「怒っておりません!!」
――彼女を力いっぱい抱きしめて、一生離したくない、なんて。