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竜胆の東屋  作者: いつき
本編
79/109

60.5話 私は……

 たとえば、私のためになることなんて、アルはたくさん知っているはずだ。

 いつもどおり笑ってここへ来てくれたらよかった。普通にお茶を飲んでもらえればよかった。時折妹に接するみたいに、頭をなでて貰えたら嬉しかった。

 だから今更自分を支配する欲が少し信じられなくて、動揺した。引き止めてほしいなんて、そんなこと……。

「ここにっ、いたい」

「そうだな、俺もいてほしい」

 その優しい声が、信じられないほどの力を持って私を揺さぶる。

 涙が止まらなくなった。ごめんなさい、こんなことをあなたに伝えたかったわけじゃない。ごめんなさい、こんな私をあなたに見せたかったわけじゃない。

 あなたの前で、私はいつだってあの頃のままでいたかったの。何も知らない、妹でいたかった。

 あなたに恋情を向ける、女の姿を晒したくなんてなかった。『女』になってしまったら、私はあの方と比べられてしまうだろうから。

「辛くても、いいの。誤解されて、罰を受けてもいいの。アルに迷惑をかけたくないのに、それでも」

 ゆっくりとした手つきで、彼は私の手首を掴んだ。温かい手のひらが私の手首をすっぽりと多い、優しい仕草で私の手を顔から外した。涙でぬれた顔なんて見せたくはないのに。

 これはもう、妹の顔でも何でもない、ただの女の顔なのに。

 それでもアルの手を振り払うなんて選択肢、私にはなくて、ただなすがままに彼の手に従った。

 辛くたっていいんだよ、あなたに婚約者ができるのはもう仕方のないことなんだって分かってるんだ。

 あなたの意思ではどうにもならなくて、たとえあなたが嫌がったとしてもそれはもう関係なく進んでいくものだって、ずっと前から分かってた。

 そこにあなたの考えや思いは介入しない。

 あなたがどう考えようと、どう思おうと、そんなの『王族』には関係ないんだ。だから、もうそんなことで傷つくなんてこと止めたの。

 やっぱり少し、苦しいけど。

 どうにもならないことを嘆いて、あなたに心配かけたくなんてなかった。迷惑なんてかけたくなかった。

 それでも、傍にいたいなんて、ここを去りたくないなんて。

 誤解されても、罰を受けても関係ないなんて。

 そう思っていると、急に手を捉えていた彼の指先が滑って頭に移動した。そのまま引き寄せられて、あっという間に反対側の手首も捕まる。

 声を上げる暇なんてなくて、彼の手に捉えられた。ぎゅっと体の中心に力を込める。

「馬鹿だな、リゼット。お前がいて、傍にいてくれて――どうして迷惑になる? どうして」

 好きだよ、好きなんだよ、大好きでたまらないんだ。

 あなたがそこへいるだけで、どうしようもないくらいなんだ。

 あなたの迷惑になりたくないとか、あなたを困らせたくないとか、背伸びしてあなたのことを考えたふりをしているけれど、大人ぶって物分りのいい『少女』を演じて見せたけど、やっぱりあなたが好きで離れたくなくてたまらないの。

 婚約者の人を傷つけても一緒にいたくて、誤解されても知らないふりをしてしまいたいって思う自分がいるの。

 だから、アルの言葉が、嬉しくてどうしようもなくなるんだ。

 『馬鹿だな』って、仕方ないなってそんな風に苦く笑うあなたが、痛いほど愛しいんだよ。髪をすべる指先が、肩にかかる髪を優しく整えるその手が、暖かくて苦しかった。

「婚約なさる、から」

 こんなの建前、言い訳。本心じゃない。婚約するなんて関係ないって叫びだしてしまいたい。

 あなたを引き止めて、この心をすべて晒して、子ども扱いしかしないあなたがどんな顔をするか見てみたい。

 あなたのことがこんなに好きなの、とこの心を切り取って晒せたらどんなに話が早いだろう。

 きっと信じないあなたを黙らせることができるだろう。

 敬語に戻ったのは、最後の垣根を自ら越えないため。これを越えてしまったら、もう後戻りはできない。優しい関係にも戻れない。

 受け入れられたとしても、拒絶されたとしても、私に残された道はひどく険しい。

 そして拒絶されたら、私は絶対に立ち直れない。この人しか、見えてなかった。今更他の人になんて目が行かない。

 それはもう刷り込みのように、体のいたるところに刻み込まれてるんだ。この心が、全てあなたのものだって。

「そんなの、関係ないだろ。相手だって、好きで婚約するわけでは」

 ちらりとでも、嬉しいと思ってしまった自分が恥ずかしかった。関係ないって、そうやってアルが言って、自分は少しだけ喜んだ。

 その浅ましさに腹が立つ。アルにじゃない、自分にだ。あの方がどんな思いで花を贈ったか、私は知っているのに、喜んだのだ。

 あの方に向けられる思いなどありはしないのだと、そのことに安堵した。

「それは分からないよ!」

 掠れる声は、ひたすらに痛い。彼を責める言葉になってしまって余計に怒りが抑えきれなくなった。

「婚約する相手は、アルを愛しておいでかもしれない。心底っ、慕っておいでかもしれない。そうは、思わないの? そんな、アルバート様を、アルを愛する人から見たら、私はっ」

 違うのに。気まずさと怒りは思いもよらぬ言葉を口から吐き出させる。あの方がアルを好きだなんて、知らせたくないのに。

 どうしてか私はそんなことを口にする。

 ……アル、ねぇ、あの人の思いを聞いても、本当に私の方が大切だって、そう思ってくれる?

 本当にそんなこと、あなたは言えるの? あなたに迷惑かけたくないなんて言っておきながら、『出て行く』と言ってしまう。

 本当に出て行く人間は、こんなこと口にしない。口にしてあなたに知らせて、本当は。

「私、我侭なの。どこかでアルが引き止めてくれるのを待ってた。引き止めてほしかった。でも」

「それは我侭じゃない」

 アル、違う。違うよ。

 我侭なの。引き止めてほしかったの。あなたが動揺すればいいって、引き止めてくれたらいいって、私思っちゃったの。

 あの方に目を向けずに、私を心配してほしいって。そうやって、あなたの気を引いたの。

 悲しいくらいに私、『女』なんだよ。恋してるんだよ。醜いくらいに、私、恋してるんだよ。


 私は…… ―悲しいくらいに、『女』です―


 ねぇ、もう気づいてほしいよ。気づいてほしくないよ。

 我侭でどうしようもなく溺れている私を助けて、さもなくば二度と浮き上がらないくらいに沈めて。どうしようもないほどのこのさがを。

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