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竜胆の東屋  作者: いつき
本編
75/109

57話 考えられない

 投げかけられた質問に言葉を失い、しばらく呆然と相手を見つめた。質問の意味を問いただそうと口を開き、言葉を吐き出そうとしたとき、唐突にその意味を理解した。


 考えられない ―考えたくないだけかもしれない―


 母に見つかって数日、何が起こるか不安な心持ちを抱えたまま生活をしていたが、恐れていたような事態は何も起こらなかった。

 婚約の話やリゼット本人の話さえ出てこず、逆に心配になってきた。それなのに、こんなときに限って仕事は山積みで、なかなか東屋に行けない日が続いた。

 母の監視があるなら頻繁に行かないようにすべきだし、何より心を整理しきれていない自分にしてみれば、逆によいのかもしれない、と思うこともあった。

 しかし、やはり心配が上回り、今日は書類を捌き次第部屋を出た。

 馬を借りようとしたが、すぎさま目立つことに気がついて方向を変える。今は注意しすぎるに越したことはないだろう。

 不憫さに眉を寄せながら、もどかしさを抱えて歩いた。冷たい風に身を震わせるのも惜しく手足を動かし、木々の間を抜ける。

 歩きやすいように整理された道を使うことは滅多になくなり、ここ最近はずっと道なき道を使っている。おかげで、大分歩きやすくなってしまった獣道を見て笑った。

「リゼット。どこにいるんだ?」

 リゼ、と呼びそうになって口を閉じる。

 親しげな呼び方に篭るのは、兄妹のような情ばかりではなかったと今更気がついた。家族以外呼ぶことがないという愛称を口に出して、自分は優越に浸っていたのだろうか。

 自分の中にあった嫉妬心やら執着心やらを見つけて小さくため息をつく。

 世の人が言うように、恋とはいいことばかりではない。自覚してこの方、自分の悪いところばかり突きつけられている気がした。

「リゼット」

 東屋の中に彼女はいて、こちらの声を聞いてリゼットは顔を上げた。

 驚きすぎて声が出ないのか、口がわずかに開くだけで目を瞬くだけだ。白い頬は寒さで真っ赤に染まり、その赤は目元まで届く。

「アルバート様、どうして、こちらへ……?」

「お前が心配で」

 理由は色々とあるし、口に出せないようなこともあったが、一番無難なものを選んで答えた。それは嘘ではないし、心配であることに変わりはない。

 ただその心配が友人や妹に向けるものとは少し違ってしまっているだけだ。リゼットの顔を見ながら、自らにそう言い聞かせる。

 それに対するリゼットは、少しだけ困ったような顔をしてこちらを見返した。

「アルバート様は、もういらっしゃらないのかと思ってました」

「どうしてそうなる?」

「友人とはいえ、婚約したお相手が、自分以外の女性に会うのを嬉しく思う方などおりません」

 ぼんやりとした口調のリゼットは、その笑顔に苦いものを少しだけ混ぜた。リゼットに何か言おうとして近づき、何も言えないのだと分かって伸ばしかけていた手を下ろした。

 婚約することになった自分は、たとえ友人だと言い張っても彼女に触れられない。彼女は立場や状況をよく理解しているから、きっとするりと手からすり抜けてしまうだろう。

「あれから何もないか、心配だったんだ。不都合なことになっていないか」

「何も、ありません。ただ、少し考えていました」

 言い訳を重ねて、自らを偽って、彼女の前でだけでも正しくいたいのに、それもできなくなる。

 作り笑いも、嘘も、誤魔化しも、リゼットにだけは向けたくなかったのに。今の自分はそれに塗れていた。

 何をやっているんだろう。彼女の前ではせめて、頼れる人間でありたいと願っていたのに。兄のように、友のように、ずっと正しくありたかったのに。

「私が、ここを去るといったら、アルバート様はどうしますか?」

「去らないから、考えたこともない。一度も、なかった」

「私がここからいなくなるなんて、考えたことがなかったんですか?」

 彼女の問いに即答すると、目を丸くして首を傾げられた。

 考えたことがないのは事実なので頷いてから、考えたことがないわけじゃなく、考えたくなかっただけではないのかと思い当たった。

「お前は祖父殿の仕事を好いているし、草花の勉強もできるし」

「……でも私は」

 こちらの言葉を遮ってから、リゼットはこくりとのどを鳴らした。とても、大切なことを伝えるように息を吐き出す。

「アルは、どう思う? 私がここを辞めること」

 彼女から目が離せなくなった。一瞬思考回路が完全に停止し、言葉の意味を取り損ねた。

 誰が、何を、辞めると? 目の前の彼女は何と言った?

 その問いの意味が分からなかった。どういう意味の質問か、彼女の求めている答えは何なのか。そもそも答えを欲しているのか。

 見れば彼女は少しだけ微笑んでいる。いつもこちらに向けるものではなくて、もっと愁いを帯びている、泣いている子供のような顔をしていた。

 眉を下げて、それでも口角をあげる彼女は何を考えているのか分からず、手を伸ばそうとした。

「リゼット、それはつまり」

 聞かなくてももう分かっていた。分かっていて、否定して欲しくて口に出した。

 それでも肯定されるかもしれないという恐怖に抗え切れず、言葉を止めた。順々に湧き上がる理解や感情に振り回されて、自分の行動が次々と決められていく。

 理性でコントロールしてきた行動が、感情を中心に狂い始めた。それをどうにもできず、ただなすがままになる。

「アルが傷つくのは嫌。この前みたいにアルが辛い顔をして、私を守るなんて嫌。それに何より――」

 私が臆病になって泣くのが嫌。

 リゼットが笑った。彼女が強いと思ったのは、今日が初めてだった。

 そこにいたのは妹でも友人でもなく、守ってやらなくてはと思うほど儚い存在でもない。紫の瞳は強い意志を秘め、冷たいまでの光を称えてこちらを見つめていた。

 逸らすことの許されない、強い引力だった。人の瞳がここまで美しく光るのかと、ただ呆然と思う。

 美しい目をした彼女は、自分よりずっと強かった。

 好きな人が弱くないと知って、彼はどんな風に思うんだろうか、なんて。

 リゼットがときどきかわいそうになる。

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