56話 悲しいのは
王子なのに、大切な人ひとり守れない。たった一人を幸せにしたいだけなのに、こんなにも上手くいかない。
自分の持つ力は、結局のところ、何の役にも立たなかった。
悲しいのは ―守れないから―
全てが終わった後、胸を占めるのは痛みでも怒りでもなかった。リゼットと別れ、レオンとともに帰っているときはほとんど何も考えていなかったが、独りになると急に色んなことが頭に浮かんだ。
青いリゼットの顔に、笑顔へ真剣さを混ぜたレオン。それから無邪気に笑って見せる母。
その全てを振り切りたくて、目をきつく閉じた。それでも何かを振り切ることなんてできるはずもなく、一層迫ってきたそれらが恐ろしくなる。
じっとしていることもできなくなり、すぐ傍においていた愛剣を手に取った。こんなときでも長年使っていた剣はすんなりと手に馴染んだ。
「アルバート殿下?」
「少し訓練場に顔を出してくる。何かあればすぐ帰る」
「では、私も」
「たかが気晴らしだ」
真面目な護衛の言葉を退け、長靴を鳴らして部屋を出た。そのまま足早に廊下を進み、宮殿の外へと足を向ける。
冬の気配が濃くなった風は頬を容赦なく叩き、マントを揺らした。体温を奪おうとする風から身を守るようにマントを引き寄せながら、訓練場に急ぐ。
一刻も早く剣を抜いて動き回りたかった。
「おや、珍しい時間にいらっしゃいましたな」
「ちょっと、な」
いつもどおり部下を扱いていたらしい将軍は、こちらを見てにやりと笑った。最近時間が取れなかったので、将軍も暇を持て余していたのだろう。
将軍の周りに倒れている屍を見れば、敵うはずもないのに相手をさせられていたのはすぐに分かった。
倒れるまで何度も扱かれたのだろうと思うと、同情を禁じえずぐるりと一帯の人間を見渡した。
「丁度よいところへいらっしゃいましたな。体が鈍りそうになっていたところです」
「今日は、思いっきり打ち合いたい気分なんだ。容赦なく指導して欲しい」
からんと投げられた木剣をとり、腰に下げていた剣を傍にいた兵士へ預ける。
それから振り向こうとした瞬間、首元スレスレに剣が通り、背中に嫌な汗が流れた。確かに、『容赦なく』とは言ったが、ここまでしろと一体誰が言った。
逃げるように後ろへ下がると、それを追いかけるように剣が躍った。木剣で右へ左へと受け流しながらも、何とか体勢を整えようと息を吐いた。
「今日は随分と弱気ですぞ。受身でこちらの剣は避けられますかな? 打ち合いたいのなら、前に出るのみ!」
全く息を切らしていないのもどうなんだ、と心の中で思いながら小さく舌打ちする。技術面で劣るのは仕方のないことにしても、やる気まで負けるわけにはいかない。
木剣を振る手に力を込めれば、将軍は嬉しそうに笑った後続けざまに打ち込んでくる。一つ一つが重いそれを懸命に凪ぎ、何とか反撃しようと前に出る。
踏み込み、右側で剣を払って、その勢いを殺さずに相手へ切りかかる。
「殿下、何を悲しんでおられるのです? 今日の剣は嫌に大人しい。聞き分けのいい、型どおりのものです。理性的で、模範的。あなたが一番嫌っておられることだと思っておりましたが?」
少し残念そうな声で、将軍が小さく眉を寄せた。
いつもどおり振るっているはずの剣だったが、長く見てもらっている先生の目は誤魔化せなかった。隠すことを諦めて、こちらが剣を引くと相手も大人しく剣をしまう。
情けなくてため息が漏れた。上手く隠せなくなっていく感情が忌々しくて堪らなかった。
今までごく自然にできたことが、次々と難しくなっていく。その不自然さはあまりに穏やかで、少しずつ身動きが取れなくなっていく。
それに気付くのは体が動かなくなってからで、まるで少しずつ足元から水に沈みこんでいるような感覚だった。
「守れないんだ、将軍」
絞り出した声は自分が思うよりずっと弱かった。泣き出す子供のような、震える声だった。
自分の胸を占めるのは、不甲斐ない自らへの怒りでも痛みでも、まして焦燥でもなくて。
ただ苦しいほど悲しくて、膝が笑った。今更ながら何もできない立場にいることを知ったのだ。彼女を、守れないのだと。
自分が庇えば庇うほど、彼女の立場は悪くなる。
「守るための剣も、力も役に立たない。俺を守っている地位は、彼女を傷付けこそすれ、何の守りにもならない」
悔しいとか、腹立たしいとか、そういう感情ではなく、ただひたすら悲しいと思った。
住む世界が違うのだと、言葉で言われるよりもずっと深く刺さった。自分の持つ力も地位も、今もっている剣でさえ何の意味も持たず、彼女を守ることはできない。
誰かを守りたいと習い始めた剣が、急に色褪せて見えた。
積み重ねた知識が、全ていらないと思えてきた。
結局こんなもの、誰かを守るために必要なかったのだと。
「殿下は、ご友人をお守りしたいのですか?」
「いや、初めて好きになった人を」
何に代えても守りたいと思える彼女の心を、守りたかった。
柔らかい栗毛や繊細な指先、紫の明るい瞳、笑顔も声も。彼女を形作る全てのものを守ってやりたかった。
守っていけると思っていた。
「大切な人を、守りたかった。自分の力で、自分の手で、守りたかった。だけどっ」
握り締めていた剣が震えて、地面をわずかに削っていた。がりがりとした耳障りな音も今は気にならず、耳を素通りしていく。
声も同じように揺れていて、それでも涙など流せなかった。
「無理なんだ! 俺では、『アルバート』では!」
アルバート、では、大切なもの一つ守れない。
唇を噛み締めても、剣を握り締めても、何も変わらない。無力なことは知っていたはずなのに、友人一人くらいは守れると思っていた。
だけど王子という地位は、一番大切な人を守れないと知った。
もっとも守りたい、『好きな人』を守れないと突きつけられた。王子という身分の自分は、笑ってしまうくらい力を持っていなかった。
笑ってしまうくらい、何も持ってなどいなかった。
まだまだ恋=守るの図式から抜け出せない、可哀想なアルなのです。