55話 良心という名の毒
良心から出た言葉か、それとも違う感情から出た言葉か。どちらにしろそれは毒でしかなくて、強い痛みを持って体を巡った。
死ぬことのない、ただ苦しいだけの毒だった。
良心という名の毒 ―巡るのは一瞬、苦しむのは……?―
「すまなかった。二人には迷惑をかけてしまった」
「謝るところはそこなんだね」
「他に何がある?」
苦しい息の下、やっとのことで話していたが、レオンには関係がないらしい。少し皮肉っぽい口調で言われて、苦く笑ってしまった。
自分たちはたったこれだけで、相手が何を考えているのか伝わってしまう。
こちらが気持ちを伝えるつもりがないことも、彼がそれに対し苛立ちを持っていることも、お互いに分かってしまうのがいいのか悪いのか。
しかし、今はそれがとてもありがたいと感じた。目配せ一つで、全てを了解してしまう彼の存在が。
「悪かったな、リゼット。あまり気にしないでくれ」
「でも」
「こっちの話だ。リゼットが気にすることじゃない」
何も言わないで、何も感じないで。全ての問題から目を逸らして、何も聞かなければいい。
婚約の事実も、レオンの愛する女性という言葉も、全て忘れてくれたらいいと思った。それなのに、ようやく見ることができた彼女の顔色は悪く、白い頬は色をなくしていた。
それは何に対するどんな反応なのか分からず、顔も見ないように彼女の頭に手を載せる。
「母は、誤解したんだ。お前と俺の関係を」
「誤解……?」
「恋人だと思われたらしい。人騒がせだな」
俯いた彼女の顔はよく見えなかったが、見えなくていいと思った。
どんな表情をされても、傷ついてしまいそうな自分がいて、その自分の顔も彼女には見せたくなかった。
ほのかに温かい彼女の髪を梳き、苦く口元を歪める。こんなにも彼女の感触を求め、心の中では彼女のことを愛しく思うのに、どうしても口には出せなかった。
溺れているのだと笑うより早く、彼女を大切な友人だと言い張った。
レオンが羨ましくないと言ったら嘘になる。自分はあのとき確かに思ったのだ。自分もそう口に出せればどんなにいいか、と。
「レオンの言葉を信じてくださるかどうか」
「嫌だな。その場凌ぎで口に出しているわけじゃないよ。女性を口説くときはいつも本気」
びくりと手の下の頭が震え、そろそろと窺うようにリゼットが顔を上げた。レオンが笑いかけると、困ったようにわずかに赤く色づいた目元を拭う。
あからさまな母の態度に傷つくのは当然だ。こちらをただの兄役として見ている彼女からしてみれば、いい迷惑以外の何ものでもない。
そう思う一方で、レオンの言葉が頭にこびりついて離れなくなる。
「ご冗談はお止めください。たかが庭師を、レオン様がどうして」
「たかがって言うなら、それこそ僕、ただの王子補佐だしね。アルはどう思う?」
何と答えればいいか迷った。
多分、少し前の自分ならば、どんなに反対していても最終的には賛成していただろう。
レオンの優秀さは自分がよく知るところであるし、彼の実家が放任主義なのも分かっている。何だかんだ言いつつ、遊びと本気を分けているのは学生時代に知っていた。
本気になれないから遊ぶという最大の悪癖にさえ目を瞑れば、こんなに信用できる人間はなかなかいないということもよく分かっているのだ。
彼がもし、リゼットに本気になったら、彼女はきっと幸せになる。『アルの友人』と知っているなら尚更だ。
彼女をきっと、守るだろう。
「そうだな。まず遊び人を卒業してからにしろ。大切な友人を遊び人には預けられない」
だからきっと、彼女の幸せを祈るなら、背中を押してやった方がいいのだろう。
少しでも良心が残っているのなら、王族のごたごたに巻き込まれないうちに、他の手に委ねるのが正解なんだろう。
レオンを心底嫌っている女性などいないだろうし、リゼットもレオンに心を開きかけている。博学だし、気遣い上手だ。
考えれば考えるだけ反対する理由などどこにもなくて、ただ息をつく。
「大切な、友人ね」
「何より愛しい、友人だ」
弱くて、幼くて、力を込めれば折れてしまいそうで。だから愛しいわけでも、大切なわけでもないけど。
日に日に大きくなる自覚と、迫ってくる決断の時。もう選ぶほどの道も残されていなくて、自分はただ言い訳を並べるしかなくなる。
並べても、胸に宿る想いが消えるわけでもないのに。
レオンの方が、と無意味な思考を重ねた。それが彼女を守るのか、自分を守るのか分からなくなる
「リゼットはやらん、とかないの?」
「あるわけないだろう。リゼットは……もう、十七だ」
いつか『まだ』という言葉を冠して使っていた彼女の年齢を、自分は数ヶ月たった今、『もう』という言葉に挿げ替えて使っている。
このことにレオンは気付いただろうし、それが示す意味もきちんと受け取ったはずだ。
ついこの前まで子供だと思っていたのに、もうそんなこと口が裂けても言えやしなくなった。言えなくなって、だけどその事実を伝えることはできなかった。
「俺がとやかく言う必要はないんだ。リゼットは、自分で判断する」
自分の声が空しく響いた。
彼女の顔を意図的に見えないようにして、自分にとっての『良心』を口に出す。それは自分にとって、毒以外の何ものでもなかったけれど。
許された、数少ない道の一つだった。
「リゼットが誰を選ぼうと、俺は文句を言える立場にいないだろ。まぁ、友人として忠告はするがな」
鈍くて、重たい痛みだった。
逃げ道を全て塞がれたような、体をジリジリと押し潰されるような、鈍くて緩やかで致命傷にならないような痛み。
それはその痛みの種類に似合わず体中を巡った。
口に出した次の瞬間には侵食していて、体の隅々まで広がっていた。
いっそこの痛みで死ねたらどんなにいいだろう。いっそそうなれば、この想いも苦しみも痛みもなくなる。彼女の辛い顔も見なくてよくなる。
そうやって全て捨てられたら、自分はその道をとるんだろう。体中を占める痛みに抗えない自分は、そう思って苦く笑った。