53話 無邪気な問い
本人にしてみれば、ごくごく当然のことを聞いたのだろう。それが最善だと、あの人は当たり前のように感じているのだろう。だけどどうしても、思うのだ。
何故その問いを突きつけたのか。
無邪気な問い ―真綿で首を絞められるような―
彼女の悲痛な叫びは、余韻一つ残さず東屋に消えた。響くことも、繰り返されることもなく、俯いた彼女は動かなくなって静寂が訪れた。
気まずさよりも辛さが先にたつ、痛々しいまでの沈黙だった。
植物達さえ、気を遣って風に葉を揺らさなくなる。その静けさに耐え切れないのは自分だけのようで、身じろぎさえできなくなるその空間を壊したくなる。
「ねぇ、アル。ずっと、私、言わなくていいと思ったことがあるんだけど、やっぱり、言わせてくれる?」
沈黙を破ったの彼女のとても落ち着いた声。
しかし隠しきれない痛みもあって、同時に笑いも含んでいた。彼女から初めて聞く、嘲笑の声だった。
そのまま彼女の言葉を聞いてはいけない気がして、彼女の肩を掴んだ。
何を言われるのか分からないのに、彼女の口から出てくる言葉が取り返しの付かないものだということは分かった。
「リゼ、落ちつ……」
「アルが、来なくなったら、もう会えないんだよ。私はここで、待つしかないんだよ。私からはっ、行けないんだよ!! アルが、離れて行ったら私は!!」
掠れる声は笑いも悲しみも含んではいなかった。
ただ隠すことを忘れた不安が浮き彫りにされていて、情けないことにそこでようやく理解した。
自分が一方的に放してしまえば、彼女はその手をどうすることもできなくなってしまうのだ。改めて繋ぐことも、彼女から突き放すこともできないのだ。
彼女は初めから、待つことしか許されていないのだから。
彼女から来ることは、ないのだ。
何も言えなくなって、何もできなくなって、ただ呆然とその恐怖を考えた。彼女は今までずっとそんな不安を抱えていたのだろうか。
自分が来ない日が続いて、どんな気持ちだったのだろう。
たとえ、こちらに向ける情が兄に向けるだけの親愛だったとしても、不安なことに変わりはないだろう。
もう来ないかもしれないと、考えたことだってあるんだろう。
それはとても、怖い気がした。
自分の『離れる』という決意も、手を離せないのだという認識も、全て独り善がりの愚かな考えだったのだと思うと、全てのことが色あせた。
彼女を傷付けたくないなんて、とんだ思い上がりだったのだ。
恥ずかしいことに、それを今彼女の言葉によって気付かされた。
「リゼット、俺は――お前を傷つけたかったわけじゃない。俺にとってお前は」
妹であり、友人であり、大切な人である。庇護する対象で、そして欲望を向ける女性だった。
それを口に出してしまいそうになって、いっそ拒絶されればいいと思った。
自分勝手な考えで彼女を不安にさせて、傷付けて、危険に晒すのならいっそ、手ひどく拒絶されればいい。
兄としての信頼さえ失うのかと思うと辛かったが、もうどうやって彼女を想えばいいのか分からなかった。
そう思って彼女に何もかも伝えようと思ったときに、その声はいきなり降ってきた。
予想を一切許さない、急なものだった。この場にそぐわないほど明るい、いつまでも少女の印象を拭えない声だった。
「アルにとって、その庭師さんはなぁに?」
「母上っ!」
リゼットが音を立てて凍りつき、小さく揺れた。
あまりの動揺にこちらもついていけず、とっさに『王妃』という地位の名も口に出なかった。しかしすぐさま建て直し、リゼットを背中に庇って前へ出る。
明らかに怯えてしまっているリゼットを母の前に出すわけにはいかない。
できれば顔を覚えて欲しくもなかった。何をしでかすか分からない人だから。
「大切な人です、とても」
「ふふ、可愛らしいお嬢さんね。こんなに若くして働いているなんて」
背中の部分を握っていた彼女の手が大きく震えた。
母の声にわずかの交じる憐憫の色を感じ取ったらしく、母の言葉から逃げるよう衣服を握り締められた。
今はその手を握り返すことさえできない。
「大切な、ご友人だったかしら?」
「幼い頃から、助けられています。母上の知っている友人が、全てではないので」
なるべく冷たくならないよう、だけどこれ以上の干渉を拒絶するように言葉を紡いだ。
母に伝わるとは思っていないが、息子が嫌がっているという主張はした。もう、友人だという言葉では足りないのだと叫ぶことができれば、どんなによかったのだろう。
それでも自分は母の前で『友人』であるリゼットを認めなければいけないのだ。どんなに胸が痛くても、辛くなっても。
これが、正解なんだ。
「お嬢さん、えっと、何と言ったかしら。リゼット、だったかしらね。リゼットにとっても、アルは友人なの?」
「……畏れながら、私などには勿体無い考えにて、お答えできかねます」
彼女の手が大きく震えている。声も弱弱しく、いつもの涼やかな響きはなかった。
ただ苦しい息の下、絞り出すように使われた言葉は彼女だけではなく自分にも突き刺さった。
「アルバート殿下は大変お優しく、私のような者にも気軽にお声をかけてくださいます。友人など畏れ多いことです」
「そう、よね。弁えているお嬢さんでよかったわ。恋人だと言われたらどうしようかと」
止めてくれ、と心が叫んだ。
母の言葉にも、彼女の言葉にも耳を塞いでしまいたかった。
彼女が遠くなる。ずっとずっと、今までのどんなときよりも彼女を遠く感じた。離れていたときでさえ感じたことのない距離で、どんなに手を伸ばしても届きそうになかった。
俺がここへ来ない間、彼女が感じていた不安はこんなものなんだろうか。じりじりとした焦燥や痛みや区別のつかない感情が渦巻いた。
「安心したわ、アル。可愛らしくて、分別のアルお嬢さんが友人でよかった。身の程を知らない人だったら、どうするべきかと」
「ご冗談を。彼女は賢明です。私の、大切な人ですから」
痛みに慣れてしまえばいいのか、それとも感覚をなくしてしまえばいいのか。
この息苦しい痛みをどうにかしたいのに、何もできずに立っていた。彼女だけは守らなければいけないのだ。
たとえどんな犠牲を払ってでも、だ。
友人だというしかなくても、彼女は変わらず大切なのだから。