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竜胆の東屋  作者: いつき
本編
6/109

5.5話 何も言えない

 リゼ視点。

 あの方がいなくなった後の東屋は、いつもぞっとするくらい静かで、思わず眉が下がる。

 先ほどまで彼が座っていたところへ腰を下ろし、だらしなくも机に突っ伏した。寂しいとか、そういうことではない。

 多分、そんな単純な感情ではないのだ。この心に巣食う感情はそれよりもっと複雑で、面倒で、始末に終えない。

「アル」

 懐かしい名前を口に出し、くすりと笑って見せた。

 もうこの呼び名を、繰り返し繰り返し彼に向かって使うことはない。あの頃の自分よりも大きくなり、分別がついたのだから仕方がないのだ。

 この名は、私のような身分の人間が簡単に口に出してよいものではないと知った。

 祖父が、そう言ったのだ。その名を二度と口にするな、と。今は亡き祖父の言葉を破るつもりは毛頭ない。

 その言葉は、多分私を思っての言葉だから。私が傷つかないようにという、祖父なりの思いだろう。

 確かに、今も変わらずその名で彼を呼び続ければ、近いうちに私はきっと傷つくから。

「私は、妹」

 そう。彼にとって私はそれだけの存在だ。

 可愛くて、幼くて、いつまでも腕の中で囲って守らなければいけないようなそんな存在。

 彼と別れて過ごすうちに伸びた背も、丸くなった体も、伸びた髪も、全てがあの頃と違うのに、彼の中に住む私はあの頃のまま寸分も変わっていないのだ。

 この心に宿る想いが、兄への思慕から少しずつ変わったというのに。

 もう私は、彼を『兄』と見れないところまで来ているのに。さらっと自分の髪を撫で付ける。

 先ほど彼がしたように、髪を一束二束捕まえてはその手の間から落とす。彼の手つきは柔らかく、慎重で、思わずまどろみそうになるほどだ。

 小さい頃もよくそうやって頭を撫でられた。たとえば彼の問いに正しい答えを返せたとき、泣いてしまったとき、こけたとき。

 思い出せばきりがないほど、私の記憶は『アル』一色だ。

 彼よりずっと長い間一緒にいた家族の声さえ思い出せなくなっても、私は彼の声を忘れることなどできはしないのだろう。

 悔しいことに、それほど深く彼の存在は私の中で根を張っている。おそらく、引き抜いたところで成長を止めることもないのだ。

「リゼット、気分でも悪いのか?」

 はっと目を開けて、体を起こす。

 先ほど去っていったはずの人が、目の前にいて私の顔を覗き込んでいた。一瞬にして顔が赤くなり、喉から声にならない悲鳴が漏れる。

 立ち上がって首を振れば、目の前の人はその温かな瞳を緩く細めた。

 濃い茶色の瞳は穏やかで、その瞳と同色の髪はサラサラと揺れる。精悍な顔立ちはあの頃よりずっと逞しく、甘いというよりもすっきりとした雰囲気を醸し出していた。

 目を細めれば厳しい印象はなくなり、幼い頃見たような優しい気持ちになれる。形のいい唇が、再び私の名を紡いだ。

「リゼット? 本当に大丈夫か?」

「はい。アル、バート様」

 先ほどの癖でつい『アル』と呼びそうになり、すんでのところで敬称を付け加える。

 未だに慣れないその呼び方は、私と彼の間をより一層大きくしている気がして、眉が下がった。ただでさえ、私と彼の間には大きな溝がある。

 それは仕方のないことだし、今更埋められるものでもない。それでも、悲しいと思うのだ。

「何か、忘れ物ですか?」

「いや、まぁそうだな。これを、渡しておきたくて」

 差し出されたのは一冊の本で、いつも貸していただく本よりずっと薄かった。

 それに、新しいのか表紙の皮がすべすべしている。いつもは年を経て色が変色し、深い色合いを出しているのに。

 恐る恐る手にとって、その真意を探ろうと彼の瞳を見つめた。落ち着いた色のその瞳は、わたしの瞳を捉えてまた緩められる。

 この瞬間は、いつになっても慣れない。いつも、体の中がどろりと溶けるような感覚に陥るのだ。

「薬草の本だ。好きだろ?」

「それは、好きですが」

 おどおどと答える。しかし、いつも貸してくださる本は貴重なものだからその場で読んで返してしまうのだ。

 持って帰っていいと言われるが、万が一のことを考えると持って帰りたくはない。

 彼が私を信じてくれていることは分かっているが、それでも嫌なのだ。今回も読んでしまおうとするが、すかさず止められた。

「これは、お前に貸すものだ」

「でも」

「それはな、俺の私物なんだ。で、傷薬なんかの作り方まで書いてある」

 それで、と彼は笑った。

 この笑顔は、変わらない。そう、あの頃のまま何一つ変わったことなんてない。

 私を見て、その顔に笑みを浮かべる瞬間だけ、私はあの頃に戻ったような気がする。私が彼をどこかの貴族の息子だと思っていたあの頃に。

 彼が王族で、本来なら私と話せるような人ではないと知らないあの頃に。

「しばらく貸してやるから、その代わり打ち身に効く薬を作ってくれ」

「なっ。この間今回だけですと言いました!」

 慌てて反論すれば、『気休め程度でいいから』と前置きして、説得される。

 曰く、『王宮の医者がくれる薬は効きが悪い』とか、『貰いに行くたびに嫌味を言われる』とか。

 それでも作る気にはなれないはずなのに、最後の最後では頷くしかないのだ。彼が笑って『頼む』と言うから。

 私でも少しは、役に立てるのではないかと錯覚して。

「私が育てているものの中にあるかどうか」

「大丈夫だろ。お前が育ててるもののほとんどが、切り傷や打撲に効くものばかりだ」

 見破られていたのが悔しくて、ぐっと押し黙った。

 そもそも薬草を育てだした経緯が、彼の傷を減らしたいと思うものだったのだから、当然といえば当然だ。

 手に入りにくい、暑い地方にしか育たないものなんかにも手を出しているのは、この人には絶対に教えられない。


 何も言えない ―言ったが最期、墓穴を掘ることは目に見えているから―


 傷を作らない努力をしない彼だから、せめて傷が早く治るようにと思った。痛みが少しでも和らげばいいと思った。

 その結果、彼はなお一層傷を作らない努力をしなくなった。

 整数でない話数はアル以外の視点ということで。たまにリゼ以外の視点が交じるかもしれません。

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