44話 恋かどうかなんて
ずっと、分かっていたのかもしれない。ずっと、知っていたのかもしれない。育ち続けていた想いに、名前をつけなかったのはただの意地だったのかもしれない。
恋かどうかなんて ―考えなくても分かってる―
熱くなった息を吐き出し、半ば転がるようにして東屋へ入った。ボタボタと気の床に滴る水滴を見ながら髪をかき上げた。
予想以上にしっかりと濡れてしまい、肌に張り付いた服を絞った。東屋のイスに座らせたマントの塊は微動だにしない。
服を脱いでしまいたいのを我慢しつつ、マントをそっとずらした。青い顔をしたリゼットが現れる。
「体、冷やしたな」
「そんな! アルがっ、アルの方が」
震える彼女は幸いなことにそこまで濡れてはいなかった。
しかし雨が降ることでぐっと下がった気温は、いつも体温が低めの彼女から温かみを根こそぎ奪ったらしかった。
伸ばしてきた手を掴んだが、引き寄せることもできなかった。これ以上体温を奪うわけにはいかない。雨に濡れてはいても、走ったせいで体温の高い自分が恨めしかった。
濡れた服では彼女を抱きしめることさえできない。
それがもどかしく感じられて、掴んだ手に力を込めた。少し濡れた栗色の髪の中から、紫色の瞳が覗いてこちらを心配していた。
「マントが厚手で、お前の服もごつくてよかった。風邪を引かせるわけにはいかないからな」
「でも! アルが!!」
彼女は今、どんな顔でこっちを見ているか自覚があるのだろうか。
アルと呼んでいると分かっているのだろうか。
縋りつくように指を絡め、手を引き寄せていると知っているのだろうか。
厚い男物の服は、水を少し含んで彼女の体を包んでいた。いつもと違ったのは、体の線が隠れるはずの服がそのラインを明らかにしていることだった。
細い肩も、膨らみを描く胸も、ほっそりとした腰も。
それを自覚した途端に頭の芯がじんわりと痺れた気がした。妹でないと自覚してすぐの頭は、無意識に湧き上がる映像を拒絶していた。
「これくらいで倒れたら、俺は将軍から大目玉を喰らう」
「そんなの」
残念ながら、事実だ。雨に打たれたくらいで、としばらく煩く言われるに決まっている。さっさと着替えれば風邪も引かないはずだ。
目にかかっている髪を払いのけ、マントを絞りながら体を彼女から背けた。見続けるのは決まりが悪すぎるし、自分はすでに今までどおりの目で彼女を見れなくなっていた。
夢の残像がちらつかないように、必死になっているのだ。頭に手をおき、首を振る。思い出すな、何も考えるな。彼女は、妹ではないけど庇護対象なんだ。
「あの、管理室に布があるから」
「お前が濡れてどうする」
折角ほとんど濡れていないのに、東屋から飛び出そうとするリゼットの手を掴み、慌てて引き出した。
自分が行ってもよいが、どこにあるのか分からないし、床を濡らすのは忍びない。仕方なくしっかりと絞ったマントを被せると、彼女はふわりと笑った。
ぐっと競りあがってきた感情は頭を揺らし、足を震わせ、胸を締め上げた。この現象は何故か最近多くて、時折どうしようもなくなるのだ。
「リゼット、俺は」
俺は、何だ?
知らず溢れた言葉に引っ張られ、彼女は足を止めてしまった。窺うような顔は幼くて、未だ妹の面影を残す。
それでももう、それだけではなくて、マントから覗く頬はすべらかな色を映していた。それは紛れもなく少女であり、女性だった。
どうして、今まであんなに無頓着触れていたんだろう。どうやって心乱さず、彼女を見ていたんだろう。
あ、そうか、とふと心に落ちた答えを拾った。
それを始めに、次々と降り注ぐ答えの中で一人納得して頷く。
そうか、そうか。やっと、分かった。
レオンが、ノースが、将軍が……色んな人たちが言っていたのは。雨のように降り注ぐこれのことか。
雨のように突然降ってきて、沁み込んで、勝手に滴り落ちるこれのことか。
「これか」
「え?」
「こっちの話だ」
これか、この感情か。
これを彼らは言っていたのか。
いきなり降ってきたその答えを、自分は抵抗なく受け入れていた。悩むことも、拒絶することもなく、ただ自然にそれを認めた。
ここ最近自分を悩ませていたこの感情は、胸を締めつけて止まないこの感情は全て
――恋か。
溢れて、止まらなくて、どんどん零れ落ちるのに減ることのないこれは。心臓を鳴らし、息をつまらせ、頭を抱えさせる面倒なものなのに。
熱くて、温かくて、どうしようもなく大切なものなのだと思ってしまう。
なんて厄介で、愛しい感情だろう。
「リゼット」
「はい?」
「リゼット。リゼ」
恋かどうかなんて、考えることもなかった。
もう見つけてしまったそれは隠しようがなく、消しようがなく、ただ自分の中にあった。急に芽吹いたようにも見えたが、多分少しずつ育っていたのだろうと今更気付いた。
再会して、過去と違う彼女を見て、触れて、自分の気付かぬ間にこうなっていたのだろう。
無意識に気付かないふりをして、目を瞑り、耳を塞いで知らないふりをした。
一生気付かないという可能性もあったのだろう。そして、多分そちらの方が彼女にとってはよかったはずだ。
「…………何でもない。俺はもう帰るよ。お前も、風邪を引かないうちに着替えろ」
「え、でも、布を」
今まさに布を取りに行こうとしていた彼女は不審そうに首を傾げた。
自分の様子が変なことは分かってはいたが、様々な自覚が一気にやってきて、自分でも整理しきれず混乱していた。
何とか冷静になろうと努力はしてみても、そうもいかず、今は取りあえず逃げ出したくなる。逃げたい、でも引き寄せたい。
落ち着きたいのに、彼女は見続けていたくなる。厄介で、面倒で、多分彼女を幸せにするものではなくて。
気付かなくてもよかったのに、気付いたらどうしようもなく愛しくて。
それは紛れもなく、恋だった。
自覚、する