40話 これは恋ではなく愛
コトンと寄りかかられた熱に、判別のつかない感情が灯る。温かいのか、冷たいのか。甘いのか、苦いのか。気持ちいいのか、苦しいのか。
……何も、分からなくなっていく。
これは恋ではなく愛 ―言い訳のように繰り返す―
二人で何気なく並び、新しく書庫に入れられた薬草の本を読む。
遠く西の方にある国からの知識をもとにしたらしいそれは、毒物である薬草をいかに薬として使うかということが書かれていた。
毒物と毒物の間に薬効を見出すそれは、今までにない考え方で実用に向いていない気もするが、知識としてはとても興味深かった。
それは彼女にしても同様らしく、食い入るようにページを見てはその紫瞳を輝かせていた。
乾いた土が水を吸うように、というのはありきたりなたとえだが、彼女の様子はまさにそれだった。ぐんぐんと知識を吸い込んでしまうのだ。
「あ、これは祖父の薬草園にあります。こっちも」
「二つを合わせると……、心臓などの臓器にいい、か。先王の持病に効く薬だな」
優秀だった彼女の祖父殿は、多分この知識を持っておられたのだろう。
西の国の知識が入りだしたのは百年ほど前だから、その可能性は十分あるはずだ。その事実が何故か嬉しくて、そっとリゼットの頭に手をおいた。
栗色の細い髪に手を差し込み、地肌を撫でるように触るとびくりと肩を震わせてこちらを見つめてきた。
ぱっと手を離して、彼女の機嫌を損ねたかと伺うと、リゼットは苦く笑った。
その笑顔に名付けられない動悸がして、気付かれないように胸を押さえる。近頃、こういうことが多くなった気がするが、気のせいでは済まされないだろう。
「もし妹がおられたら、アルバート様はよい兄君になられたでしょうね。――妹役に、甘すぎですよ」
「そうだろうか。そんなつもりはないが」
「いいえ、甘いです」
リゼットに甘い自覚はあまりないが、確かにレオンとは接し方が違うと気がついた。
同じように大切な友人だが、血縁のあるレオンよりリゼットといる方がどちらかというと安らぐ。一緒にいた時間を合計しても、それはおかしいのに。
数年間週に一度会っていたリゼットよりも、学校でほぼ同じ生活をしていたレオンの方が付き合いとしても長いのに、どういった理由からだろう。
しばらく一人で悩んでみるが、答えなど当然のように出てこず、『妹だと思っているからか?』と勝手に結論付けた。
“妹”だから甘やかすのか、大切にしたいのか、心安らぐのか。
それは定かではないけど。
「今日は、暖かい日ですね」
「何だ、いきなり」
一人で自分の思考に浸っていると、隣でリゼットが小さく呟いた。穏やかに、小さく微笑して目を一層細める。
温かい光が栗色の髪を明るく照らしている様子を見つめながら、唐突に向けられた言葉に返した。
自分の濃い茶色の髪の毛では、ここまで綺麗に光を照り返せないだろうと思う。
「少し、眠くなりませんか? 温かいと。ここは、直射日光は当たりませんけど、日当たりはいいですから」
そのどこかぼんやりとした口調に、彼女自身が眠いのだと気付く。
東屋の適度な暗さから外に目を移すと、少々きつい日差しが秋の花々を明るく見せた。夜や朝早くはすっかりと寒くなってしまったが、晴れた日に昼間はまだ少し秋めいている。
秋を代表する花を見ながら、すっかり過ぎ去ってしまった季節にため息を吐く。
「確かに、天気がいいからな。今は、気温も丁度いい」
「はい」
ふわりと彼女の返事が柔らかくなる。ここ最近、常に気を張っているような状態だったので、珍しいなと横目で見ながら笑った。
敬語も礼も完璧な彼女は、どの令嬢にも引けは取らないし、教えた自分も誇らしくなる。
しかし彼女が遠くに行ってしまう気がして、それを少しだけ面白くないと感じてしまうようになっていた。
昔は、あの頃は、出会った頃は……近頃そんなことばかり考えていて、それに笑った。
過去ばかり思い出す己が身を恨めしく思う。自分はどうして、そこまで過去に執着するのか。そこまで、過去にしがみついてしまうのか。
「眠いのか?」
「いいえ」
「本当か?」
返事をする声はもう眠たげで、その声を聞くだけで彼女が我慢していることが分かる。
否定する声もどこか幼く、もう一度『眠いのか?』と改めて問えば、短い沈黙のあとに『はい』と首肯した。
舌足らずなその声はどうしたって幼くて、あの頃を思い出させてしまう。ついあの頃のように抱き寄せて、自分の肩に寄りかからせた。
いつもであれば頑なに寄りかかろうとしないはずの彼女も、すでに思考回路が機能していないのか、こちらへ大人しく身を預ける。
体温はこちらより幾分低く、それでもじんわりと染み渡る気がした。
「リゼ? もう寝たか?」
「いえ。まだ、起きてま、す」
小さな問いかけは、もう寝てしまったかもしれない彼女に対するものだった。
リゼというその名を口に出しても、彼女は怒ることなく小さく返事をした。
しかし眠りに落ちるのも時間の問題だろうと思わせる声で、寄りかかった頭の位置がずれた。がくんと首から力が抜けたようで、リゼットの体温がさらに近くなる。
押し付けられた体は柔らかく、自分以外の熱がこちらへ伝わってくるのが分かった。その熱が体に広がっていくのを感じるのは、少し不思議な感覚だった。
近い距離は嬉しいはずなのに、素直に喜べない。体温も首にかかる吐息も、どうしてか思考を乱し始めた。
「リゼット、リゼ」
「ん。ぅん」
返事か否か分からないそれに苦笑いを返す余裕さえなかった。
するっと擦り寄るたびにあちこちへ当たる栗色の髪や、白い肌に、言葉では表すことのできない感情を覚えた。
ぞわりと気分の悪くなるような、苦しいような。
それなのにほのかに甘くて、暖かくなってしまうような。判別のつかないものは嫌いだ。名前のつかないものは、いつも恐い。
ならばこの感情に名前をつけてしまえばいいのか。
何とつければいい? 自分の一番嫌っているものの名をつけるのか。いや、これは愛だ。……決して、恋ではない。
言い訳だと、もう気付き始めていた。