38話 刺繍の花
ハンカチに刺された白い花。王宮の中ではあまり見かけない形をしており、名前も知らなかった。彼女は何を思い、これを刺繍したのだろうか。
刺繍の花 ―私は、幸せです―
兄妹であればいいなんて言ったあと、何となく気まずくなって腕の中から彼女を解放した。
それからようやく上着のポケットから、今日ここへ来た理由を取り出した。独特の手触りの布に包まれたそれを差し出すと、彼女は首を傾げてこちらを見た。
ゆっくり布を開いて中身を見せると、ますます不思議そうな顔をされた。出てきたそれは黒い、この国ではあまり作られていない代物だ。
それを彼女に見せながら、言い訳がましく口を開いた。
「昨日、ここへ来れなかったからな。その、感謝祭には贈り物が付きものだろう?」
海を越えたところにある国から取り寄せたのは、木製の櫛だ。
黒い表面は艶やかで、髪留めと同様に竜胆があしらわれてある。紫の花が掘り込まれたそれは手に収まるほど小さかったが、光を跳ね返す様子はとても美しかった。樹液から作るという塗料を使うのは、大陸の国々とは違うあの国特有だ。
我が国ではそこまで有名ではないが、その黒の艶やかさは近隣国の王諸侯にも人気らしい。確かに、吸い込まれてしまいそうな美しさだと思った。
明るい栗色の彼女の髪とは対照的だが。
「あの、アルバート様」
「うん? 感謝祭の贈り物も駄目か?」
首を傾げてわざとらしく問う。これはあくまで友人間でやり取りする贈り物なのだと強調する。
さすがの彼女も、この風習には逆らえないだろう。去年はうやむやになって何もできなかったが、今年こそはと思っていたのだ。
「いえ、そういうことでは」
リゼットはこちらの問いに慌てたように首を振り、迷ったようにその櫛を見つめた。
まぁ確かに見た目は綺麗だが彫り込みはあまり目立たない。そのせいか、貴族達が使うような派手さも豪華さもない。高価にも見えないだろう。
そういうものを選んだつもりだから、彼女がそう思ってくれたなら苦労した甲斐があるというものだ。
……実は少し、高いのだが。この前送った髪留めの二倍はする。質はいいが、王宮に売りに来た商人はかなりの商売上手なようだった。
「あの」
「ん? 何だ」
煮え切らない態度のリゼットに再度問えば、彼女は迷うように口を開いては閉じた。
礼儀を重んじる彼女にしては珍しいその行動に、言いにくいようなことなのだろうかと思った。意匠が気に入らない、とか。
「えっと、いただいても、よろしいのですか?」
「当たり前だろう。この東屋の竜胆をあしらってるんだから」
そうやって彼女の手にそれを落とした。包んである布ごと渡すと、ふわりと笑われた。
『気に入ったか?』と伺えば、その笑顔のまま『はい』と小さく返事をした。とても素直なその行動に、心が小さく躍る。
「あの、アルバート様。えっと、私からも贈り物が」
「くれるのか?」
こくりと彼女は小さく頷いて、それっきり顔も上げなくなった。泣かれた後は、少し気まずくてどうしたら分からなくなった。
昔は、どうしていたんだろう。どう接すればよかっただろう。そんなこと、考えたこともなかったのに。
「あの、本当につまらないものなのですけれど。これくらいしか、私にはできなくて」
感謝祭の贈り物の相場はよく分からないが、レオンは去年、ハンカチをたくさんもらっていた。
多分、女性からの贈り物はハンカチが相場なのだろう。差し出されたハンカチを見ながらそんなことを考えた。
白いハンカチは折り目正しく畳まれていて、そこに白い花が一つ、ひっそりと咲いていた。刺繍されたその花の名前が分からない。
「見慣れない、花だな」
彼女の手からハンカチを受け取り、素直に『ありがとう』と礼を言う。
安心したようなため息がリゼットから漏れて、緊張していたのだとようやく分かった。よく見るとその白い花は、白い糸一色で刺繍されているわけではなかった。
光沢のある白色は光を受けてその色を変化させた。中心は僅かに黄色みを帯び、花の先は淡い青が灯る。
ほとんど白と変わらないその色たちは、よくよく見ないと分からないほどでぱっと見ればただの白い花でしかない。
「その花は、クチナシです。白くて、甘い匂いの花。王宮では育てているところがあまりないので、見慣れていらっしゃらないのでしょうね」
「リゼットは好きなのか? この花」
何気なく聞いたつもりだったが、彼女は今にも泣き出しそうな顔をして笑った。くしゃりと顔を歪ませて、必死に俯いた。
ぐっと肩に力が入り、息を込めているのがすぐに分かった。
「リゼット?」
「……好きです、とても」
『好き』にかかる言葉は当然のように『花』なのだが、どうしてか心臓を鷲掴みにされた感じがした。
ぐっと何かに押しつぶされるような、何かを押し込まれるような。胸を引き絞って千切ろうとする力に抵抗したかったが、その思いはあっという間に萎えた。
彼女の声が全ての力を奪っていく気がした。
「そうか……。クチナシが、好きか」
自分に言い聞かせるように口へのせれば、リゼットは苦く笑って『はい』と答えた。
声はすでに震えておらず、しっかりとした調子を取り戻していた。それとは反対に、今度はこちらが動揺していたが、その原因がまるで分からずに胸を押さえつけた。
だから何も気付かなかった。自分のことで一杯で、考えようともしなかった。
そこに込められた深い意味に、彼女の苦しみに。クチナシの花に込められた意味など知りもしなかったし、その花に何か意味があるとさえ思わなかった。
白くて愛らしい花は、彼女が好きだから刺繍したのだと。馬鹿馬鹿しくも、そう考えていた。
いつだってそうだ。自分は彼女が込めた想いに気付かない。
自分が贈った『花』の意味さえ、知らなかったのだから。
クチナシの花の花言葉。
は、副題の意味で使ってます。