37話 生まれ変わったら
彼女の体から力が抜けて、抵抗しようとしていた腕が垂れ下がった。それがいいことだとも思えずに、抱きしめる力を緩めた。
どうして、話を聞いてやることもできないのか。
生まれ変わったら ―本物の兄妹でいい。……本当に?―
涙を拭う彼女を見る。見るといっても、頭の天辺が見えるというだけで、拭う手がチラチラと視界に入るだけだ。
なかなか泣き止まず、理由も言おうとしない彼女を後ろから抱いていると、先ほどあった苛立ちも薄れてきた。
心配のあまり強い口調になってしまったが、無理に聞き出すことはできない。自分にできることは頭を撫でてやることくらいか。前髪を掬うようにして、彼女の頭へ触れる。
涙を拭っていた右手を握り、左手で目の辺りを覆う。頬は濡れていて、熱を持っていて、こちらの手が当たるたびに細かく震えた。
「アル。優しくされると、泣きたくなるから」
「優しくするなと?」
優しくされると、泣きたくなる、か。
それは、自分たちの違いを感じてしまうからだろうか。こちらが気にしなくても、彼女は違うのか。無性に彼女の顔が見たくなり、細い体を反転させた。
赤い目とまともにぶつかったが、こちらが動揺する前に彼女が俯いた。彼女の額が胸にぶつかる。静かに戻っていた動悸が、少しだけ早くなるのを感じる。
「理由は聞かない。泣くなとも、言わない。泣くことでお前が少しでも救われるなら、いくらでも泣け。
でもな、リゼット。お前を心配する人間がいることを、決して忘れるな」
残っている涙を全て拭い、擦りすぎて熱を持っている瞼を撫でた。乱れている髪の毛に手をやりつつ、あぁそういえば、自分は今日渡したいものがあってここへ来たのだと思い出した。
しかしそれを出す雰囲気でもなく、ただ彼女の頬をなぞるだけになってしまう。自分の言葉に素直に頷くリゼットを見つめて、諦めにも似た息を吐く。
「理由は、いつかお話します。アルバート様が、お優しいのも知っています」
「お前が、辛くないならいい」
彼女の言葉の返答としては正しくない言葉だと思った。言いたいことも、伝えたいこともたくさんあった。
元に戻った呼び方や、敬語のついた話し方で全てを飲み込むまでは。
何か言わなくてはいけないのかもしれないと考えたが、彼女はすでにいつもの彼女だった。年下のくせに落ち着いているように見えて、まだまだ可愛い妹。
立場を弁えているのだと判断される態度。いつの間に、これが『普通』になってしまったんだ。
『アルバート様』という呼び名が、敬語がいつの間にか普通になっていた。そんなこと、考えもしない時代があったのに。
知らないうちに、それを受け入れていたんだろう。ずっと、『あの頃』のままでいたいと考えていたのに。
もしかしたら、自分が彼女から離れていたのだろうか。
「辛くは、ないです。ただ分からなくなってしまって、混乱して、一人ではどうにもできなくて。でも、助けてもらうこともできなくて」
彼女は助けを必要としない。彼女は自分が王子の友人である自覚を持たない。
幼い頃であったなら、それは『アル』自身を見てくれているのだと考えただろうが、今ほどの年齢になってしまえばまた違う考えが浮かぶ。
頼ろうとしないのは、自分たちの間が遠く離れているからだ。自分に何も言わないのは、理解できないと知っているからだ。いつの間にか、自分たちは。
「遠くなっていたんだな」
小さく、本当に小さく呟いた。口の中で転がしたその言葉はとても苦く、飲み込むには辛すぎた。それでも彼女に向かって吐き出す気にもなれず、ただ口の中で転がし続ける。
これは多分、二人を傷つけることしかできない言葉なのだろう。気付いた自分も傷ついたが、もしかしたら彼女はもっと早くに知覚していたのかもしれない。
彼女は、聡明な子だ。
いや、自分もたった今気付いたわけではないだろう。ずっと、分かっていたはずだ。
ただそれを認めたくなくて、見ないふりをしていた。認めてしまえば、彼女がもっと遠くなる気がしたからだ。
どちらにしろ、距離など変わらなかったが。あれだけ変化を望まなかった。あれだけ、あの頃から動きたくなかった。ずっと、変わらない関係を求めていたのだ。
自分も彼女もあの頃のままというわけではないと、十分知っていたにも拘わらず。
成長したからには、変化は仕方ないにも拘らず。
意固地に、臆病に、俯いて耳を塞いでいた。大人であろうとしているくせに、中身は酷く幼稚だった。
矛盾を孕んで、ずっと彼女の元へ通っていたんだろう。変わりたくない兄と妹の距離、友人としての関係。
変わることが当然である王子と庭師の距離、聡い彼女が少女から女性に変化する様子。今まで自分は、どれだけ目を逸らし、耳を塞ぎ、全てを無視していたのだろう。
どれだけのことに、背を向けていたのだろう。
「もし」
もしも、願いが叶うならば。
自分勝手が許されるなら。
「もし、生まれ変わったら。今度は、本物の兄妹でいい」
「え……」
意識せずに出た言葉に、彼女は目を見開いた。ほっとしたような、悲しむような、よく分からない表情をして、こちらを見つめた。
その瞳に映る表情の意味を取りかねていると、彼女はやがて目を細めてゆるゆると穏やかに笑った。自分の中で何かを納得させて、それを一切表に出さないと心に決めたようだった。
「そう、ですね。もし、生まれ変わったら、兄妹がいいです」
ふと胸に湧き上がったのは、どうしてだか悲しみで。
その原因も分からずに首を傾げた。兄妹であれば、一生共にいれる。共にいることを、誰にもおかしいと言われない。文句も、言われない。
ならばそれでいいじゃないか。どうして苦しいのだろう。兄妹でいいと、思った。心の底から、思ったはずだった。
生まれ変わったら、本物の兄妹でいいと。
……それは、本心からの言葉だったのだろうか。