33話 諦め切れなかっただけか
熱い息を肺から吐き出し、足を速める。一秒でも早く彼女に会いたかった。あの栗色の髪が、紫の瞳がどんなふうに変わってしまったんだろうか。
諦め切れなかっただけか ―逢えると信じ続けられたのは―
近づくにつれ、手が加えられていることが分かる花々が増える。
王宮から離れていることが原因か、幾何学模様もなく、左右対称の庭でもなかった。彼女らしい、肩肘の張らない誰にとっても温かく安心できるようなところだった。
東屋の椅子に腰掛け、大きく息を吐く。
一度、二度、大きく息を吸って自分を落ち着かせると、やっと辺りを見回す余裕ができた。東屋に備え付けられている机や椅子は、見慣れたものだった。
どの東屋にでもあるもので、特別さもない。
それなのに、それらに手を当てれば、暖かな気持ちになった。辺りは竜胆が咲き誇り、秋らしい色合いを出している。
その青紫色の花に彼女を見た気がして、腰掛けていた椅子から立ち上がった。
「お茶を、お持ちいたしましょうか」
後ろからかけられた、涼やかな声。
以前聞いていた声よりずっと落ち着いていて、大人っぽくなっていた。それでも、聞き間違えるはずもない。
彼女の声だ。可愛らしい高い声ではすでになくなっていたが、その分耳に心地よい。
振り向く時間がとても長く感じたが、それを振り切るようにして彼女へ向き直った。
「久しぶりだな、リゼ。元気にしていたか?」
なるべく何気なく、不自然にならないように気をつける。
目に入ったのは懐かしい栗色の豊かな髪と、その間に見える紫色の瞳。印象に残るその配色は、何も変わることなくあの頃のままだ。
しかしそれらを彩る容貌は、あの頃とは大きく変わっていた。丸いだけだった瞳は美しい曲線を描くようになっている。
小さい唇は面影を残していたが、やはり丸いだけの印象はなく、むしろ艶やかさがあった。
ふわふわ頼りなかった栗色の髪は一つにまとめられて、きっちりとした印象だった。
「ア、ル……??」
その唇から零れた名前に、口角が上がったのが分かった。
自分が忘れることがなかったように、彼女もまた忘れていなかった。それだけのことがすごく、嬉しい。
しかし目を見開いて固まった彼女は、自らの口から零れた言葉を引き戻すように口元へ手をおいた。それからその場に跪き、絶望の言葉を口にした。
「も、申し訳ございませんっ。無礼をお許しください。アルバート殿下」
目の前が暗くなるのを感じた。
ため息しか出てこず、そのため息でさえ途切れるほど細く弱かった。のろのろと彼女へ近づいていけば、彼女がよりはっきりと見えた。
そのことに何か感じる暇もなく、彼女の肩が小刻みに震えているのを見つめた。それから、なお一層心が冷たくなっていった。
彼女の中で、自分は『懐かしい友』などではなく、身を伏して礼を尽くさねばならない『王族』なのだ。
まるで恐ろしいものを見たような怯えように、心が硬く凍りつく。
「リゼまで、俺を王子と見るのか……。リゼ、まで」
「幼さから、知らなかったこととはいえ、大変なことをいたしました」
こんなことしてほしくなかったから、自分が王子だとは言わなかったのに。
知らないままで、再び出会えると信じていた。それが幻想にしかすぎないことを、たった今知った。
いつまでも彼女は子供ではない。子供ではなくなったのは、彼女だけではない。自分も同じだ。心の中で、こうなるかもしれないと考えなかったわけではないのだ。
本当は、彼女が敬語を使うのは仕方がないと思ってしまう。
王子という扱いも、崩してはいけないと分かっている。それは彼女のためだ。彼女の身を守るために、必要なことなのだ。
「いや、お前は悪くない。……言わなかった俺が、悪かったんだ」
今なら分かる。
どれほど危険なことを彼女に強いていたか。城の者に見つかって、罰を受けるのは他の誰でもない彼女なのだ。
あの頃はそんなことさえ思いつかなかった。でも今はもう分かってしまう。
それがいいことなのだと思いたくても、心底喜ぶべきことだとは思えなかった。彼女が『庭師』以外の態度で自分に接してはいけない。
そう分かっているのに、それはひどく寂しい。
思ってはいけないのに。
「悪かったな、リゼ。それでも俺は」
口には、出せなかった。
『王子』として見ないでくれ、なんて勝手すぎる。それは彼女を苦しめる頼みでしかないと分かっているはずだ。
分かっているならば、再会できたことだけで満足するべきだ。本来ならば、再会さえ叶わなかったかもしれないのだから。
ただ自分が、再会できればどれだけいいだろうかと、勝手に思っていただけだ。
「アルバート、様?」
「何でもない。また来ていいか? ここは、静かだから」
頷く彼女に笑いかけ、心の中で繰り返し繰り返し言い聞かせる。
再会できたことだけを考えればいい。たとえ彼女が臣下の礼を崩さなかったとしても、自分が態度を変えなければいい。
ここは呪われた東屋で、身分を煩く言う人間などいないのだから。
だから……。
「いつでも、いらしてください。恐れ多いことですが、私も嬉しいです。アルバート様に、再びお会いすることができて。本当に、嬉しいのです」
その笑顔に、声に、再会できたことを感謝しよう。いつかきっと、再び出会えると信じていたことが現実になったのだと。
もっと素直に、喜ぶべきだ。たとえその『再会』を諦めきれず、信じることしかできなかったのだとしても。
信じることに、縋っていたのだとしても。
リゼットがアルとの関係に絶望を感じるように、アルも絶望を感じることくらいあるんだ、とリゼットにも分かって欲しいな、と。