【閑話】自覚の引き金
自覚話。リゼットの。ちなみに閑話は三人称でリゼとアルの呼び名でいきます。
自覚したのはいつだったのか、とリゼは一人で考えていた。暗いベッドの中で、時折このような考えを抱く。リゼの意識していないところで行われる、定期的なこの確認作業は自分の恋心を消すためか、新たにするためか。
それは本人にさえ分からず、リゼは夜毎悩まされていた。自分にそんなもので悩む資格がないことを知りつつ。
この恋心を自覚したのは、そんなに昔のことではない。少なくとも、庭師になろうと思い立った時点では、アルのことを畏れ多くも兄のようだと思っていたし、頼りにしていた。
リゼにとって、アルはヒーローだった。
どんなときも正しく、強く守ってくれる。その存在が変わったのは、一体いつのことなのだろう。一体いつから、頼りになる兄をそんな目で見ていたのか。
リゼはベッドの中で一人、そんなことを考えていた。
きっかけを挙げるとするならば、祖父にアルと会っていたことがばれたときだろうか。幼いなりに、アルとの出会いは秘すべきことだと感じ、誰にも話さなかったのだと自分の中で確認する。
もう何度も繰り返した作業であったが、未だに飽きずに繰り返す。
そう、薄々は思っていたのだ。アルは貴族の息子なんかじゃなく、もっと遠い人なのではないかと。森に入ることが簡単ではないことを知っていればなおさらだ。
だからリゼはずっと秘密にしていた。週に一度の逢瀬が危険なのだとどこかで分かっていた。祖父の病が深刻化し、危険な状態になると森に入ることが減った。それは約束を破ることに他ならず、リゼはそわそわと落ち着きをなくしていた。
そんなときに問われて答えたのだ。アルという貴族子弟と、森の中で会っていたのだと。祖父の驚いた顔は、未だにリゼの心に残っていた。その後に浮かべられる厳しい表情と同じくらい。
そしてそこでアルの正体を知り、以後会うことを禁じられた。アル、と呼ばれることも、それと同時に禁じられた。
一生その名を紡ぐことは許されないのだと。そしてそのとき、自覚したのだ。リゼ自身とアルは生きる世界がそもそも違うのだ、と。
そして祖父が亡くなると、王都を出ることになり、もう二度と会わないだろうと思った。それでも、またいつか再会できればどんなにいいかと思った。
頼りになる優しい兄代わりの友に、会えたらどれだけ嬉しいかと。ただそれだけだった。そのとき思ったのはそれだけで、それが何の始まりかなど考えることはなかった。
それから庭師になろうと決めたのだった、とリゼは思い返す。
会いたくて、それでも自分の身分では会えないから。祖父の仕事を引き継ぎたい気持ちも確かにあったが、結局遠くからでもいいらアルを見たいと思ったのだ。
だから庭師になろうと思った。父と母の反対を押しきり、祖父の仕事仲間に手紙を書いて庭師の空きがないか問うた。たしかそれから自覚したのだ。リゼは一年と少し前のことを思い出す。
どうしても娘を遠い王都に行かせたくなかったディズレーリ夫妻は、リゼに見合いをさせた。その一帯の中でも特に話しやすく、真面目な少年との話だった。
リゼは目を細めて相手の顔を思い出そうとしばらくの間奮闘してみたが、何の効果もなく止めてしまう。
どんなに思い描こうとしたところで、今頭を支配しているのはただ一人、この国の第二王子だ。秀麗だと言われているのに、本人にはまるで自覚のない顔立ち。王子とは思えないくらいしっかりとした体。
それが今リゼを埋める全てだ。他の人間が入る余地など一切残されていない、それほどアルはリゼの中に根を張っていた。
「あの人と結婚すれば」
多分自分は幸せになれているのだろう、と今あったはずの世界を言う。
言ったところで後悔の念など浮かぶはずもないが、リゼは口許を歪めた。その人はとても優しくて、穏やかで、多分顔だって悪くなかった。真面目で仕事ぶりだって評価されていたはずだ。
穏やかな話し方は、多分アルに似ていた。だから少しだけときめいたはずだ。それなのに、結婚するかもしれない人なのかと考えた瞬間、リゼの胸を占めた思いは落胆だった。
彼は鳶色の髪と瞳ではない。
穏やかな光を灯す目は、私の求めている形じゃない。
鼻はもっと筋が通っているし、唇は薄くもしっかりと綺麗な曲線を描いている。
声はこんなに高くないし、もっと私の名を柔らかく呼んでくれる。手は指が長くて、剣を持つせいで肉刺ばかりできているのだ。
そのわりにすごく器用で、髪を結えてしまう。ちょっとしたことなら全て自分自身で解決してしまう。
本の頁を捲る手つきは慎重だし、背はもっと高い。
分からないけれど、もっと高いはずだ。もう随分と会ってないから、背も、顔も、声も違うだろう。きっと記憶に私の居場所なんてないだろう。
こんなことが、リゼの頭に一瞬で浮かんだ。そして求めていた像が、頭の中でしっかりと結ばれる。アルだった。
目の前の男の人が霞むくらい、はっきりと瞼裏に写し出された。だから何も言わずに逃げ出した。父と母をその場において、びっくりしたような顔をした男の人も無視して。
呼び止める声など、聞きたくなかった。誰の顔も、声も、残したくなかった。自分の中に結ばれた像が消えないように目をつむり、浮かぶ声が他でかき消されないように耳を塞いだ。
そして繰り返し思った。王宮に行きたい。会えなくていいから、一目みたい。見ることができさえすればいい。
記憶の中のアルが、どんなふうに時を過ごし、あの頃と変わったのか知りたい。心底そう思った。
「忘れられてると、思ってた。私のことなんて、覚えてないって」
決定打は、再会したときだ。
一年前の秋に、思いもよらず再会したときのことを思い出しながらリゼは笑う。名前を呼ばれた。はっきりとした声で。
あの頃より深くて、低くなっているのに、変わらずこちらを包み込んでしまう優しさを持っている声で。
分かってしまった自分を笑う。面影を僅かに残しただけの声なのに、自分は分かってしまった。リゼは思い出して笑った。聞いた瞬間自覚したのだ。自分は一生、この人から逃げられないのだと。
兄として振る舞う彼から妹として優しさを受けとる一方で、一生この気持ちを隠し続けなければいけないのだと。
残酷な自覚だったが、それ以上にどこかスッキリとした。
少しずつ育ち、隠しきれなくなっていたものがようやく外に出てきたのだと。妙な安心感があった。もう隠さなくても、自分の中でだけははっきり出してしまってもいいのだと。
自覚した瞬間芽吹き始めた恋は、終わりを予期していた。枯れることを前提に芽吹いた恋は、終わる瞬間を今か今かとびくびくしながら待ち構えている。
早く来てしまえばいい、なるべく遅く来ればいい。リゼには決められないその思いは、いつも胸の中にあった。
多分、ずっとあるのだろう。終わる瞬間をずっとずっと、体を丸めて待ち続けなければいけない。それは怖い、怖い。
とっても、怖いんだ。
「自覚と失恋が同時だなんて」
ついてない。ついてないし、不幸だと思う。だけど手放したくないと思う。幸せだと、言葉を交わすたびに自覚する。
自分はこんなに近く、恋する人を感じられる。温かい愛に守られて、大切にされている。
いっそ勿体ないほどの優しさに包まれて、妹として愛されていた。これを幸せと呼ばずにどうする?
一生叶うことのない恋が、許されない恋が、こんな形であれ育ち続けるのを黙認されているのだ。何にも勝る、幸せなのだと思わなければ。
「罸が当たる」
リゼはベッドの中で身を縮め、繰り返し自分に言い聞かせた。
幸せなのだと、と。たとえ、アルが誰かと結ばれて、自分に見向きもしなくなるときが来ても、今まで大切にされてきた事実が消える訳じゃない。
優しく髪を梳かれ、たくさんの知識を与えられ、守られたことはなくならない。リゼは栗色の髪を見ながら笑った。
綺麗な色だと誉められて以来、身なりに気を遣うことが少ない自分が唯一寝る前の手入れを惜しまないものだった。
荒れることの少なくなった手は、アルが悲しまないようにとクリームを塗り込むようになった。
平らではなくなった胸や柔らかみを持つようになった体は、自らが女であると示しているようで忌々しかったが、男物の服でそれを隠した。
アルを好きだと自覚する瞬間、リゼは自分が紛れもなく女なのだと分かる。それを隠したくて、気付かれたくなくて。でも知らせたくなって。
奇妙な気持ちに苛まれる。
「アル」
隠すことに慣れたこの言葉は、いつか溢れてしまうだろう。リゼは小さく彼の人の名を呼ぶ。言葉にはできそうにない、恋心を込めて。
せめて届かぬ心の出口を見つけるように。
「アル、誰よりも私は」
幸せにしてくれる人ではないのだろう、運命の人ではないのだろう、それでも。
「あなたのことを、誰よりも私は」
愛しているんだと口に出せたなら、どんなによかっただろう。暗がりの中、ようやく体温で暖まってきたベッドに身を横たえ、リゼは微睡みながらそう呟いた。
愛してるなんて言ってしまえたら、きっと自分は泣いてしまうだろうと思う。嬉しくて、苦しくて、幸せで、愛しくて……泣いてしまう。
伝えたいとは思うのに、困らせたくないとも思う。
あぁだけど、だけどきっと伝えるなら。
「伝えられたら」
精一杯の想いを、伝えたいなぁと笑った。