【閑話】関係が変わる前
二人の過去話。可愛かった頃のお二人です。甘め
緑深い、日の光も僅かにしか差し込まない森。その中で開けた場所だけは場違いに太陽の光を許し、湖の水面をキラキラと輝かせていた。
そこに人影が一つ、ぽつりと現れた。
何かから逃れるように身をよじり、懸命に暴れているが、それもだんだんと大人しくなりついにはぴたりともがくのを止めた。それからしばらくすると、小さな嗚咽が聞こえる。
「アルー。動けないよぉ」
舌足らずだったが、耳に心地よい少女の声だった。幼いのに高すぎるわけではなく、同じ年頃の少女と比べても落ち着いている。
しかしその声は涙にまみれ、ぐずぐずと鼻を啜る音も混じる。そこへ再びがさりと木々が鳴り、人影が増えた。
「リゼ。やっと見つけた。駄目だろ? 一人で行ってはいけないと」
まだ声変わりを迎えていない、高めの少年の声だ。
凛と涼やかで、それでもその声には隠しきれない優しさが滲んでいた。よほど走り回ったのか、妙に息が乱れていたが、汗を拭った顔は熱気さえ跳ね除けるようだ。
長く伸びた手足に、まだ筋肉のあまりついていない、しなやかな体。ほっそりとしており若木のようだったが、その中に軟弱さはなかった。
濃い茶髪が太陽を受けてほんのりと薄くなる。その光を受けて、繊細そうな顔立ちが鮮やかさを増した。
少しだけ寄せられた眉は、少女を見つけるとすぐに解かれる。泣き始めた少女の脇に膝をつき、それから身動きが取れなくなった原因を知った。
少年の手が、下ろされた少女の髪の毛を掬った。柔らかそうな栗色の髪はすんなりと彼の手に収まる。
「木に引っかかったんだな」
「剣で切ってー」
「勿体無いだろ。すぐ解けるよ」
少年が笑いながら少女の要求を跳ね除けた。
それから繊細な造りの顔には似合わない、肉刺の目立つ手で少女の髪の毛を木々から外しにかかる。柔らかい髪の毛は絡まりやすく、なかなか木の枝から離れてはくれなかった。
「だから言ったろう? 髪は結っている方がいいと」
「結べないの」
「さすがに僕も結べないな」
どうしたものか、と少年はため息をつきながら、それでも髪の毛を解く手は休めない。
しばらくすると、ぱらりと木の枝から髪の毛が離れた。少し痛んでしまったその毛を指で梳きながら、少年はほっと息をついた。
「やってみよう。案外できるかもしれない」
「できる?」
「何でもやってみないとできないものだ、と将軍が言ってたな」
木から解放された少女は、潤んでいた目のままに少年を見つめた。一方の少年は、少女の持ってきた籠の中に入っていた細身のリボンを見つめながら首を傾げた。
やったことのない行動は、それだけで緊張を共にする。
「座って、リゼ」
リゼ、と呼ばれた少女は、大人しく少年に背を向けて座った。長い髪がふわりと浮いて、少女の動きにあわせて沈む。
その様子を見て口元を緩めた少年は、木に引っかかって乱れてしまった髪の毛を丁寧に手櫛で梳いた。それから紅いリボンを手にして、彼女の髪を掬う。
右から左から、髪の毛を後頭部の真ん中まで集めて持つ。それにくるくるとリボンを巻きつけて、そっと離すが、髪の毛はすぐに解けてしまった。紅いリボンがふわりと地面に落ちる。
「世の中の女性は、これを自分でするのか?」
「お母さんは自分でしてる」
数度この格闘を繰り返した末、少年はぼそりと呟いた。
リゼを気にして緩くしていた口調も、厳しい空気を帯びていた。それでも諦めずに髪の毛をまとめてはリボンで止め、解き、またまとめ……と数度繰り返す。
それから息をついて、少年は自分の髪の毛をかき上げた。参ったな、と小さく零し、少女の髪の毛を手で梳いた。明るい栗色の髪がさらっと揺れる。
「もっと長くなれば、髪留めで留めるということもできるのにな」
残念そうな声色で言って、少年は少女の髪から手を離す。それから立ち上がり、少女に手を差し出した。できないことへの不満を押し隠そうともしない表情だった。
差し出されたのは華奢といって差し支えない少年の手。しかし少女にとっては、大きいと感じれる手の平だった。手を預ければ、ぎゅっと握られて引っ張り上げられる。
危なげもなく持ち上げられて、少女は小さくくすくすと笑った。自分の手を引く少年が、とても大きく見えたのだ。
「アルにもできないことがあるんだ」
「練習してくる」
「え?」
「次はくくれるように、練習してくるよ」
ぐしゃり、と少女の髪の毛を遠慮なしにかき乱して、少年は朗らかに笑った。まだまだ子供らしさの残る、幼い笑顔だった。
そのときばかりは、少年も全てを忘れていた。自分が隠している、自分自身の生まれや環境を。彼女に知られたくない、自分のいるべき『場所』を。
忘れることでしか、笑えなかった。忘れたいと、少年が心底思ったことだった。
「貴族様には必要ないと思うよ」
「できないことがあるのは、好きじゃないんだ」
少年がくしゃりと顔を崩し、『貴族』らしからぬ笑顔を浮かべる。それから少女の両脇を抱え、ふわりと持ち上げてくるくると回した。少女の長いスカートが風を孕み、可愛らしく揺れる様子を見て少年はやはり思うのだ。
『ばれたくない』と。自分の正体を知られたくないと。この温かくて柔らかい関係を崩されたくない、崩したくないと心から願った。
「来週は、薬草の本を持ってくる」
「え?!」
「読みたがっていただろう? リゼは賢いからすぐ覚えてしまうだろうけど」
少女を下ろして、少年は来週の約束をした。いつもどおり来るであろうと、信じて疑わない声色だった。
少年自身、永遠などありはしないと分かっていた。ずっと続くものなどないと、幼いながら感じていた。
それなのに、来週この場所で再び会うことは疑っていなかった。来ないはずがないと、信じきっていた。
「嬉しいっ。すごく嬉しい」
「そうか、ならよかった。森の外まで送っていこう。祖父殿が心配しておられるだろうから」
日が長いこの初夏ですら、少年は日が暮れるのを早いと感じた。少女といるといつもそう感じてしまい、そっと息をつく。
それは少女も同じで、いつも帰る時間になると寂しそうに眉を下げた。それから少年の手を握り、ぎゅっと力を込める。
「一日が、もっと長ければいいね。アル」
「そうだな……。もっと、長くていいと思う」
手を繋いでゆっくり歩きながら、二人はそう言い合った。それから歩くたびに楽しげに跳ねる髪を撫でて、その毛先に指を絡ませて巻いた。
くるくると巻きつけ、そっと指を抜き取り、少し癖になった髪の毛を梳いて直す。無意味にも取れるその動作を幾度か繰り返し、それからため息をついたあとに少女の頭に手をおいた。
「次は絶対綺麗に結うから」
「え?」
「折角綺麗な髪をしてるんだ、木に引っ掛けて切るのは勿体無いだろう」
暗くなるから、気をつけて帰るんだ、と少年は少女の肩に手をおいた。
それから少女が森を出て、正しい道を真っ直ぐ歩いて行くのを見送って、そっと息を吸った。これから行くところを思い出して自然と眉を寄せれば、秀麗な顔は自然歪む。
「日暮れは嫌だ」
ポツリと呟いて、それから髪を結う練習の算段を整えようと笑顔を浮かべた。
素直なんだけど、結構ひねくれてるアルでした。この頃は一人称が『僕』、でも学園に入る頃には『俺』で、外行ではいつでも『私』です。
外面がいいというか、使い分けを強制されてる人です、この人。