32話 あのとき、気付かなければ
彼女と再会したのは一年前の秋だった。
塞ぎこんでいた自分を見かねて、ノースが散歩を勧めたのだ。行く気はあまりなかったが、仕方なしに腰を上げた。後にこのことを心底感謝することになるとも知らずに。
あのとき、気付かなければ ―きっと一生話せなかった―
庭に出れば侍女に張り付かれ、廊下を歩けば貴族に捕まる。
書物庫に行けば気遣わしげに見つめられ、剣を持てば追い出された。将軍曰く『殺気立っている人間に、剣を持たせるわけにはいかないから』らしい。
とりあえず何も聞きたくない。何も話したくない。兄の傍にいればいいのかもしれないが、あそこは母が煩いので行く気もない。行くなら今日の夜頃だろうと勝手に決める。
フラフラとあてどなく彷徨い、あちこちの庭を回る。
任された東屋や庭への評価は、そのまま庭師自らの評価になる。そして庭や東屋は各国の貴族や王族の目にも留まる。
だからか、王宮自体の近くや王族個人の離宮にある東屋は、いつも華やかで美しい。垣間見る管理人である庭師たちの性格にも、興味をそそられて笑った。
左右対称の格式高いものがほとんどだが、植えられている花やその配置によって個性が出る。
また、王宮の情報に精通しつつ、首を突っ込まないように指導されている庭師たちは、最低限の礼儀を取りつつ、積極的に話しかけてくることはなかった。
彼らの仕事は東屋や庭を美しく保つこと。そこへ来た客人をもてなすこと。
彼らの中には派閥争いがないらしい。それは羨ましいことだ。是非とも大臣方に見習ってほしい。そんなことを思いつつ、庭をぐるりと見て回る。
そういえば、特に優秀な庭師は三人で森を管理することになっていた。その三人の権力がそれだけ強いから派閥争いなんてものがないのかもしれないなと無意味なことを考えていた。
そして遠めに見える森を見て、労っていた庭師に尋ねる。
「森の方にも確か、東屋が一つあったな。王宮の宮殿から一番離れている東屋だったか」
「はい、殿下。しかし、あそこは、その」
妙に歯切れが悪い。何かあっただろうかと思考をめぐらせ、遙か昔に言われていたことを思い出した。
あそこは『呪われた東屋』だった、そういえば。
「呪いか?」
「その、万が一にも何かあってはいけませんので。御身に何かありましたら……」
東屋は貴婦人達の社交場だ。
そうであれば『アルバート第二王子』が今どんな立場にいるかなど、噂話でとっくに聞いているだろう。だからこそ、止めているのか。
第一王子が病で臥せっている今、第二王子に何かあれば最悪の場合、この国は跡継ぎを失うことになる。
確かにそれは止めるだろうな。他人事のようにそう思った。
「管理人はいるんだろう?」
「それはそうですが、今年入ったばかりの新人です」
王宮の外れ、離宮も近くにないところにその東屋はある。
森に隣接したそこは、訪れる人が滅多にいない。歩いてすぐというわけでもないが、王宮の中なのでそんなに遠いわけではない。
それでも人が少ないのは、その東屋にまつわる噂が実しやかに囁かれ続けているからだ。数代前の王妃やら側室やらが王の寵愛を失って絶望し、自ら命を絶ったとか。
確かそんな話だった気がする。が、父の頃も数代前と言われ、そして祖父の頃も数代前と言われていたらしい。
なので、『いつの』数代前なのかははっきりしない。むしろこの噂話自体、いつ頃始まったのか分からず怪しい。
そもそも、あの東屋はそんなに古いのか。
「殿下っ」
「心配するな。様子を見るだけだ。その新人にも会ってみたい。どんな庭師だ?」
何故そんなにその東屋を気にしたのか分からない。
人が来ないということに魅力を感じたのかもしれない。いい隠れ場所になるかもしれない、なんて。
「そうですね、優秀ですが無口ですよ。森の管理人の孫娘だったらしくて、今年入ったばかりですがなかなか慣れてます。仕事も正確ですね」
一瞬にして時が止まった気がした。
その一方で、同じような境遇の娘かもしれないと、自分に言い聞かせる。
幼い頃に出会って以来、祖父殿が亡くなって以来、一度も会っていないあの少女だと確信するにはまだ早い。
それなのに、自分の心は喜びに満ちていて、今すぐ東屋に行きたくなる。
逸る心を抑えて声を出した。違ったとき落胆しないように気をつけつつも、どうしても期待せずにはいられなかった。
ずっと、ずっと探していた。
いつか会えれば、と強く願っていた。
「その庭師の名を、聞いてもいいか?」
「リゼット・ディズレーリですが。で、殿下っ?!」
気付けば走り出していて、ここから少し離れた東屋に向かっていた。
正規の道を使うのも煩わしく、道なき道を突き進んだ。手や顔に枝が当たろうが、足に蔦が絡もうが関係なかった。
目指す先はただ一箇所で、それ以外に関心はない。
ただひたすら足を動かした。
「リゼット、リゼっ」
一日として忘れたことのなかった名を、切れる息の中で呼んだ。ここ数年、心の中だけで呼んでいた名を口に載せれば、その名はすぐに馴染んだ。
ぎこちなさも照れもなく、毎日呼び慣れているかのように自然だった。あの可愛らしい『妹』にまた会える。
それだけで嬉しかった。
「リゼ」
心が震えたのは喜びから。笑い出すのは嬉しさから。
それだけで十分だった。
一年前の、どん底時代のアルでした。彼は男前を目指しつつ、どこまでも繊細な人なのだと思います。