31話 恋人ではないけれど
恋ではないと分かっている。いや、恋であってはならないんだ。それを言ってしまえば、この親愛の情は『恋』だと分けられてしまうのだから。
恋人ではないけれど ―だけど、一番大切―
「今日は疲れてらっしゃいますね」
「仕事じゃないことでな」
東屋の机に肘をつき、大きくため息を吐いた。
出てきたお茶を口に入れれば、先程とは違いしっかりとした味が舌に沁みて、肩の力を抜く。
同じように机の向かい側にリゼットが座り、お茶に手を伸ばした。ごく普通に彼女が自分と同じ席に座り、お茶を飲む。
これだけのことが日常になるまで、随分と苦労したことを思い出す。
王子と同じ席に着くなんて、お茶を飲むなんて……などなど。彼女が出した言葉を反芻した。それでも今の状況を見れば、その苦労も無駄ではなかったのだと思う。
「リゼ」
「はい?」
この狭い東屋の中で手を伸ばせば、彼女の頬に手が届いた。
さらりと栗色の細い髪をかきあげて、耳から顎にかけての輪郭をなぞる。珍しく呼んだ愛称に彼女は不思議そうな顔をして首を傾げた。
自分がどう言えばいいのか分からず、緩く笑って人差し指の背で頬を撫でた。
「リゼはいつか恋をして、それからここを出るんだな。ちょっと、父親の気分だ」
「なっ、にを……おっしゃっているのか」
かしゃんと音を立てて彼女はカップをおいた。冷静さを欠いたその動作に、どう解釈すればいいか迷う。
可愛くて、愛しくて、大切で。
人はそれを『恋』と呼ぶ。いくら否定しても、彼らは断言するのだ。それが嫌で耳を塞ごうにも、彼らはそれを許してはくれない。
この心に宿る彼女への想いは、恋情なんかではないのに。
「なぁ、リゼ。俺はお前が好きだし、大切だ。一番、大切なんだ」
「そんなのっ」
リゼットが呻いた。俯いて、額に握り締めた右手を当てて、絞り出すようにして声を出した。
肩が細かく震えていて、その頼りなさに胸が締め付けられた。どうして大切にしたいのに、自分はこんなに無力なのか。
この胸に宿る想いは、親愛の情ではないのか。
「私も、同じだよ、アル。アルが、大切で大切で……。でも私、アルが王子だってもう知っ」
その細い体を引き寄せて、その言葉ごと抱き込んだ。
苦しくて、切なくて、彼女を取り込むように腕の中へ閉じ込めた。
彼女さえ手に入れることができれば、彼女さえ抱きしめていれば、色んなことを忘れられると思った。抱きしめた体は細くて脆い。
それなのに柔らかくて、温かくて、肩口に顔を埋めた。お互いに無理な体勢だったが、そんなこと気にならなかった。
「大切にする仕方が分からないんだ、リゼット。誰よりも、大切にしたいのに」
出会ったばかりの頃、再会したばかりの頃。
今まで自分はどうやって彼女を大切にしていたんだろうか。いや、どうやって自分が満足の行く形で、彼女を大切にしていたと『思って』いたんだろう。
離れている間も、一日たりとも忘れたことはなかった。厳しい剣の訓練も、様々な授業も、いつか再会するかもしれない彼女を思い出せば乗り切れた。
あの小さい子を、守りたいと思ったのだ。
「大切に、されてるよ」
「そうは思えない」
「勿体ないくらい、大切にされてるのに」
彼女がゆっくりと動いて、腕から逃げ出した。
腕の中のぬくもりが離れる感覚に眉を寄せれば、彼女は小さく微笑んでこちらに回りこんだ。それからそっと近づいて、背に手を回される。
安堵して、それからまた少し切なくなった。恋情が本当にこんなものならば、世の中の人間はさぞや日々苦しんで生きているのだろう。
そんな皮肉が思い浮かんだ。
「アル、大好き。アルのことが――大、好き」
声も出ず、反応も返せずにただ頷くだけになってしまう。
何か言うべきなのに、何も言えず腕に力を込めた。『妹』からのその言葉は、嬉しいはずなのに。どうしてか胸が詰まった。
『兄』として喜ぶべきことじゃないのか。どうして喜べないのか。
それは『兄』に向けられた言葉だからか。
「時間なんて、経ってほしくなかったよ」
時間さえ経たなければ、こんなにも悩むことなかった。
時間さえ経たなければ、彼女を『妹』として愛することができた。
何の疑問も差し挟まず、何の苦悩もなく、抱きしめることも、頬に触れることも躊躇わず、自然にできたはずだ。
それなのに、自分はいつの間にかそこに疑問を感じた。周りの人間が、そうせざるを得ないことしか言わなくなったからなのか。
それともいずれ気付かなければいけないことだったからなのか。そんなことは、分からなかったけれど。
「あのとき、時が止まってしまえばよかった。アルが王子様だって知らない、あのときで。全部、止まってしまえばよかった。そうしたら、もっと」
リゼットが悲しげに喉を鳴らし、それから小さく息を吐いて言った。
まるで、その言葉を押さえ込むように。押さえ込もうとして、それでも押さえ込めなかった言葉が漏れ出すように。
「もっと、近くにいることができたのに」
その言葉に、胸を衝かれた。