26話 一日一目
部屋へ送っていくまでの道のりをゆっくり歩く。彼女の手を握ったまま、一歩一歩彼女に合わせるようにして。暗闇の中でも、道を違えたりしないように。
一日一目 ―会えれば満足なんて―
「この辺でいいですよ? わざわざ送っていただかなくったって」
手を繋いだまま彼女は居心地が悪そうに零す。ずり落ちそうな上着を、繋いでいない方の手で押さえつつ、彼女はこちらを見上げた。
「俺の気が済むんだ。付き合ってくれ」
手を離す気にはなれず、そのまま小さな宮殿の造りをした官舎の中へ入った。一度か二度ほどしか入ったことのないそこは、元乳母のマリアのいる官舎より古くて狭い。
年季の入った壁や照明が目に入り、どこか落ち着いた。煌びやかな飾りも何もないけれど、温かくて心地よかった。
「今日は、お会いできないと思っていました」
「そう、だな。今日は忙しかったから」
建物に入れば、瞬く間に夏の暑さが戻ってくるように感じた。
彼女が暑くないか確認しようと隣を向けば、案の定額に汗をかいた彼女が見える。手を繋いでいるから余計に暑いのかもしれない。
じっとりと汗ばんだ手を離せば、少しヒンヤリとした風が手を掠めた。
「脱げばいいだろう? 上着」
「寒いんです」
「……汗、かいてるぞ」
頑なな口調の、彼女の額を拭ってやる。一瞬身を引いて顔を赤くして、彼女はこちらを見つめた。
意固地になっている理由はわからなかったが、彼女の顔を見ると説得が難しそうだと分かる。こういう顔をするときは、大抵てこでも動かないのだ。
「アルバート様、もう少し上着を貸してください」
離したままの代わりに、彼女は両手で上着を掴んだ。
そこまで言うので、『ほどほどにしておけよ?』と言い聞かせれば、笑顔を返された。最近見ることがなくなっていた満面の笑みが現れ、一瞬体が揺れた。
幼い頃と変わらない表情なのに、その表情を形作る顔は明らかに違っていた。
「最近、お忙しそうですね」
「一応これでも、優秀な王子だからな」
もう一つの理由としては、俺を街へ下ろさないようにしているからなのだが、それは言わないことにした。
「東屋に毎日行きたいんだがな」
「お忙しいなら、仕方ないです」
満面の笑みはもう消えていた。
淡い大人びた笑顔で、まるでこちらを諭すようなことを言う。しかしその顔が僅かに翳っているような気がして、その頭を引き寄せた。
彼女の頭が胸に当たる。思ったよりずっと高い体温がじんわりと広がった。その広がる体温とともに感じる感情はなんだろうか。
「俺が毎日行きたいんだ。楽しみを取ってくれるな」
彼女と会えば、心がひどく落ち着く。
温かくて、離れがたくなる。
その安らぎを求めているのか。彼女の栗色の髪を眺めながら考えた。手の下の髪は柔らかい。黙ったまま胸に頭を預けている彼女は今、一体何を考えているんだろうか。
体を傾けて彼女の顔を覗き込めば、赤い顔のまま固まっているのが見えた。
「リゼット?」
「私だって!」
急に彼女が顔を上げた。顔を下げている自分と、上げた彼女の距離が一気に縮まった。
身長差があるのでそんなに近くは感じない。が、動揺したのは事実だ。一方、さっきまで真っ赤だった彼女はそんなことを気にせず口を開く。
彼女の恥ずかしがる基準が分からない。
「私も、楽しみにしてます」
何を言い出すかと思えば、と苦笑した。勢い込んで話すから、何を言われるかと思っていたが。
「そうか、それならいいが」
「はい」
そこでようやく自分たちが、どれほどの距離で会話しているか気付いたらしい。
少し色が治まったと思った頬に、再び熱が灯る。紫の瞳は大きく見開かれ、次いで目にも止まらぬ速さでその場にしゃがみこんだ。
耳まで真っ赤になっていて、どうやら勢い込みすぎて気付かなかっただけで、恥ずかしいことではあるらしい。
「す、すみません。あの、色々一生懸命で」
頬に手を当てて、リゼットは叫ぶように言った。一生懸命なのは、頬を見れば分かった。
「いや、よく伝わったぞ?」
「アルバート様、私をからかってらっしゃいますね?」
むっとしたような彼女の声に、いや? と否定形で返す。いつの間にか戻っていた空気に、そっと息を吐いた。