25話 この手を離してしまえば
離せるわけはない。手放せない。――そんなことを心の底から思ったことはなかったはずだ。人並みの執着心はあれど、それ以上でもなかったはずだった。
この手を離してしまえば ―いつかきっと、後悔する―
後悔することは分かっている。だから手放せないし、そんなつもりもない。
これが人並みの、友人に対する執着心かどうかなんて考えたこともなかった。いざとなれば手放せるのだろう。
そのほうが互いに、最低でも彼女にとってよいことだと判断すれば。少なくとも、それで彼女が笑っているなら……手を離すなんて造作もない。
自分は彼女の幸せを邪魔する人間ではないのだから。
たとえ、手を離した結果、自分が王宮で独りになっても。
「リゼット、リゼ」
自分は臆病で、一人ではいられない。
独りになってしまえば、王族の義務に捕らわれて、いつしか抵抗する気もなくなるだろう。いくら本を読んで知識を詰め込み、剣を振るっても、その本質は変わらない。
自分は誰より弱くて、どうしようもない。今だって不安に駆られて、東屋へ向かっていた。
昼の暑さからは想像できない涼しさだ。まだ少し生ぬるいが、真夜中にでもなればもう少し過ごしやすくなるだろう。
しっとりとかいた汗を拭い、そんなことを考える。
東屋の柱に背を預け、床に体を投げ出した。右足だけ立てて、腕を乗せる。ごつんと音を立てて柱に後頭部を当てた。
情けなくて、笑い声が漏れる。
「情けないな。第二王子なのに、強くあらねばならんのに」
ランプの炎をじっと見つめ、息を吐いた。
暗闇の中、静かな東屋は気味が悪い。昼間の明るさが嘘のように冷たくて、小さく首を振った。
来るはずもないことは分かっていたのにどうしてか立ち去る気にはなれず、あと少しと言い訳して俯いた。
頭を冷やさなければ、帰っても眠れないだろう。
「アルバート、さま……?」
そのとき、頭上から今まさに求めていた声がした。求めて、それでも聞きたくなかった声が、優しく降り注いで顔を上げる。
見上げれば、心配そうな顔をしたりゼットがいて、その顔は今にも泣き出してしまいそうだった。安心させるように笑みを浮かべる努力もしたが、そんなに上手くいかなかったらしい。
「どこか、お怪我でも? あの、誰か呼びますっ」
見る見る歪んでいく目の前の顔に、お前がそんな顔をする必要はないだろうと呟く。
頬に手を伸ばし、それから触れようとして手を止めた。こんなに自然に、自分は彼女の頬へ触れようとする。
泣きそうになれば、それがごく当然のことだというように。
そんな自分が、手放せると?
手を、離せると?
「いや、今日は寝つきが悪くてな。風に当たってるんだ。リゼットはどうした?」
「忘れてしまった本がどうしても気になって」
リゼットの手にはごつい本が一冊。何度も何度も捲られたせいでボロボロになってしまった本は、彼女の祖父殿が形を持って残した数少ない形見の一つで、彼女が大切にしているものだった。
確かに、いつも手元においてあるはずのものがなくなるのは不安だろう。今まさにその気持ちだったので、怒る気も失せた。
いつもなら、こんな時間に出歩くなと小言の一つや二つは言うはずなのに。……まぁ、出歩いているのはこちらも同じことなのだが。
「そうか、送っていこう。もう遅い」
「あの、アルバート様。本当に、お体は」
自分は平気だが、ここへいる以上彼女が動くこともないだろう。
昼と夜の温度差が一層大きくなる晩夏は体調も崩しやすい。大分落ち着いたし、いつまでもここで膝を抱えたって問題は解決するはずもない。
王宮の敷地内とはいえ、遅い時間であることにも変わりはないのだ。
送っていくのは当然だろう。
「平気だ。心配かけて悪かったな。本当に平気だ。お前がそんな顔をする必要はない」
彼女の手を握り、そっと立ち上がった。
寝巻きに上着一枚引っ掛けただけの姿から、彼女がどれだけ焦って本を探しにきたのか知れた。寒そうだなと思ったが、よくよく考えてみれば、こちらの格好もあまり変わらない。
寝巻きでないことだけが救いか。そう思いつつ、上着を脱いだ。
「リゼット、これを。羽織るだけで違うだろ」
「まだ夏ですよ」
苦笑されるも、彼女の肩に上着をかける。体の造りが違うと分かってはいたが、自分の上着はすっぽりと彼女の体を包み込んだ。
包み込んでも、まだあり余っていた。肩の位置も、袖の長さも、背中の広さも全てが違っている。それを横目で見つつ、上着を脱いだ拍子に離れた手を再び掴んだ。
わずかに反応したが、大した抵抗もされなかったので、そのまま掴む力に力を込めた。
「後悔する、な」
「何をですか」
「今夜もし、寝つきが悪くなかったら、後悔すると思っただけだ。一人でお前を歩かせたことになっただろう。寝つきの悪さに感謝してたところだ」
手放すことは難しいだろう。
だけど不可能ではない。できる、はずだ。
彼女のためになると知ったならば、きっと。だけど……後悔はするだろう。あとでこの選択は正しかったと独りで言いつつ、それでも後悔はするのだ。
他の選択肢など、取れはしないくせに。
この手を離せばきっと、自分は後悔する。それだけは確かだった。