22話 傍にいれば身分なんて
頭の中で何かが警鐘を鳴らす。何への警告なのか分からず、それでも焦燥感は増した。一心不乱に東屋へ向かい、彼女を探した。
傍にいれば身分なんて ―考えなくていいのに―
「アルバート様、いかがされました?」
軽く息を吐き出して、彼女と目を合わせた。
息の荒いこちらを見れば、彼女は慌てて走りよってくる。イライラと走るようにして来てしまったので、肩で息をしていた。情けなくなって、彼女に笑いかける。
上手い笑顔ではないだろうが、笑わないよりはいいだろうと勝手に思った。そして手に持っていた鉢を差し出す。
「いや、早く届けたくってな」
見る間に綻ぶ彼女の顔に、自分の選択が間違っていないことを知る。
僅かな優越感とともに、ちりちりとした苛立ちも感じた。どうしてだ、喜んでいいはずなのに。
「ラベンダーですね。私、大好きですっ」
「俺も好きだ」
一瞬胸に宿った思いも、彼女の笑顔によって忘れ去られる。彼女に鉢を渡して、こちらもつられるように笑った。
今度は上手く笑えているような気がする。思わず撫でようと彼女の頭に手をおくと、髪をまとめていることに気が付いた。
彼女の栗色の髪をまとめている髪留めに、目が自然と吸い寄せられる。自分が贈ったものが、使われ続けていることに安心する。もしかしたら、使われていないかもしれないなんて考えていた。
「これを贈ったときより嬉しそうだな、リゼット」
からかい半分にそう聞きつつ、髪留めに触れる。
あのときは遠慮ばかりで、とても嬉しそうという印象は受けなかった。今の方がよほど嬉しそうだ。彼女は何を言っているのかすぐさま理解したらしく、頭に手を当てて気まずげに顔を背けた。
それからちらりと視線だけこちらへ寄越す。
淡く色づいたその頬へ手を伸ばしかけた。
「こっちの方が、私にはよく似合います。あまり高価なものは、身に余ってしまいますから」
彼女の言葉で、伸ばしかけていた手が止まる。
今まさに恐れていたことを、考えないようにしていたことを、彼女は口にした。彼女にさえ会えば、解消できると思っていたのに。傍にいて、話さえしていれば、考えなくて済むと思っていたのに。
安心のよりどころであるはずだった彼女自身が、事実を突きつけてきた。
「身に、余る、か」
「こんな素敵なものを貰うには、何もかもが足りません」
その紫の髪留めも、ラベンダーの鉢植えも、どちらも変わらずよく似合っているのに。
どちらも関係なく、彼女を想って贈ったのに。どんなに『身分』は関係ないと言っても、そうやって受け取られるのかと思うと嫌になった。
何をしても、自分の身分にすぐ繋げられてしまう。それはどうしようもなく空しくて、仕方のないことのようにも映った。
「傍にいれば」
「え?」
傍にいれば、身分なんて考えなくても済む。
そんなこと、酷い思い上がりだった。近くにいても、触れるくらい近づいても、それはあくまで物理的な距離であって、心の距離ではないのだ。
どんなに一方的に近づいても、それは自分自身のことでしかないのだ。急に空虚になって、乾いた笑が出た。
世界が色を失っていく。
彼女の栗色の髪も、紫の瞳も、淡い色の頬も……周りの空気も全てが色を失っていく。
白も黒もなくなる。この世界はこんなにも色あせていたのか。光を失い、色を失い、全てが鮮やかだった世界がくすんでいった。
身分を意識し、遵守し、そうして生きている人間は、こんなに暗い世界で生きているのか。
「いや、とんだ思い上がりだと、そう思っただけだ。悪かったな、リゼット」
この国が王権制なのを忘れたわけではない。まして差がないなどと考えたことはない。
だけど、自分と彼女の間にある壁はもっと低くて、きっと跨いで越えられるものだと信じていた。誰が許すわけでもなく、何か確信があるわけでもないのに。
どうしてか、そんな感じがしていた。
彼女は身分を気にする性質なのは知っている。だけどいざとなれば、易々と越えるものだと思っていた。
否、初めて出会って、彼女の祖父殿が亡くなり、会わなくなるまでは少なくともそうだった。
自分が特別扱いに嫌気が指しているときに限って、身分なんて関係ないというように振舞ってくれた。
彼女はこちらを貴族か何かだと思っていたようだったけど、それがどれだけ自分を救ったか知らないだろう。
「あ、あのっ。アルバート様? どうしてそんなに悲しいお顔をされるんですか? あの、私が何か……」
「いや、お前は悪くない」
世界の色を映さなくなった瞳は、いつの間にか表情を表に出していたらしい。
くしゃりと笑って見せて、彼女の栗色だった髪をかき乱す。これは幼い頃からの友に、やっていたはずだった。
ずっと、そうだった。『友』に向けていたはずだったのだ。
自分だけだったけれど。
「お前は、悪くない」
悪いのは自分だ。
自分一人の考えを信じきって、リゼットの考えを読み取ろうともしなかった。『友達だ』なんて、身分が高い人間が勝手に思ってるだけだ。
実際の身分制度はもっと厳しくて、容赦がない。
そんなことにさえ気付かない自分が恥ずかしくて、下を向いた。合わせる顔がなかった。
彼女より随分年上なのに、無駄に年だけを取っていたらしい。それでも、彼女を友と呼ぶ以外、仕方なかった。