20.5話 あなたは、何を思う?
リゼット視点。
冬なんて来なければいい。あの寒くて、全てを凍らせる季節など、来なくていい。
冬は隣にいる彼が、来なくなる季節。去年は東屋こそ空いていたけれど、結局そんなに会えるわけではなかった。開いていても、会えないなら開けている意味がなかった。
私を心配して、『ここは寒いから』と苦笑いする彼はどこからどう見ても『王子様』で、私を心配するお兄さんではなかったのが少し辛かった。
『兄と妹』というその関係が、私たちが持つ唯一のつながりではなかったのか。そう思うと、たとえ兄という接し方であってもいいとさえ思った。
会えないくらいなら、妹として、子供として接してもらう方がまだよかった。
「アルバート様」
ゆっくりとこちらの頭を撫で続ける『王子様』は、穏やかな顔をしたまま笑っている。
ちらりとその表情に、一条の違うものが交じった気がしたが、私にはそれが何なのか見当も付かなかった。
この方は昔から、『王族』として育てられてきた。いくら私のような人間と会っていても、彼は王族としての彼自身から逃げられない。
表情は一切外に出さず、笑顔で全てを覆い隠す。
それはある意味完璧すぎるほどで、長年見ている私でさえその感情を深く探ることはできないときがある。……長年見ていて、分かる気でいるのはおこがましいかもしれないが。
普段一緒にいるときは表情を隠すこともあまりないが、それでも彼はときどき無意識に、私への感情を隠す。
それが何なのか、気になるのと同時に恐ろしかった。
「ん、何だ、リゼット。嫌か?」
髪を梳いていた手が止まり、髪の毛に絡めていた指を引き抜こうとする。
すると何だかとても悲しくて、慌てて首を振って否定した。その手が離れていくことを、危惧していた。
『いいえ』と声に出して否定すれば、彼も少しだけ安心したように息をつく。
最近、二人の距離感が掴めずにいるのは彼も同じなのだろう。
その距離感を、壊しているのは多分、私の感情だ。
私の、恋心が少しずつ二人の間に亀裂を入れているのだ。兄と妹という、じっとしていれば永遠に変わりはしないはずの関係を、私は自分の手で壊そうとしている。
何も言わず、何も考えず、ただずっとそうしていれば『妹』としての地位は彼の中にしっかりと存在し続けると知っているのに。
もう、限界なのだ。妹としてでは足りないのだ。
我がままに、恐いもの知らずに、自分は彼の心を欲している。本来ならば、欲することを許されないはずなのに。そんなことを考えることさえ、してはいけないとはずなのに。
自分は臆しているのに、止めようとは思わない。
異常、なのだろうと思う。
おかしいのだ、自分は。
きちんと自分たちの関係を理解しているくせに、いつまでもあの頃のまま動こうとしないばかりか、自分の感情に歯止めをかけようともしないなんて。
「長くなったな、髪」
「よく、結ってもらっていましたね」
「おかげでかなり上手くなったぞ」
まぁ、他にする人間もいないから、腕は落ちたかもしれないが。
彼は苦く笑って、今度は椅子から立ち上がり、私の真横に座る。
そして私に身振りで向こうを向け、と伝えると自分はさっさと私の髪を弄び始めた。優しい手つきで、私の髪の毛をゆっくりと手櫛で梳いていく。
甘く心臓が溶けいるような、その手つきに私は思わず息をついた。自分でも驚くくらい、甘い吐息だった。
幸いなことに、その零れた音は彼には届かなかったが、思わず自分の口元を押さえつけた。こんな声、妹は出さない。
「確か、こうやって」
「あ、あのっ。アルバート様!!」
「で、こっちのを持ってきて」
私の抗議などどこ吹く風。
彼はいつもどおり自分の好き勝手に行動を始める。その手つきが、近い声が、頬をかする手が、どんなに私の心拍数を上げるか知りもしない。
私がどれだけ、顔を赤くして、目を瞑っているかなんて。
きっと、彼は一生分からないんだろう。こんなに、彼のことしか考えていないのに。いつまで経っても伝わらないのだ。
「んー、なかなか綺麗にできないな、さすがに。リゼ、櫛」
「お、お止めくださっ」
髪をいくつかに分けて編みこみ、下のほうで固定する。
リボンも髪留めもいつの間にかきちんと机の上におかれていた。随分と前に解かれていたのだろう。
でなければ、きちんとまとめていたはずの髪の毛に、指を絡ませるなんてできないはずだ。どうしてこう、そんなことばかり手先が器用なのだ。
思わず怒りたくなってしまう。
彼は出来上がりが満足できないようで、結っていた髪を一度といて、癖のついてしまった部分を指で梳っていた。
「リゼ、櫛だ、櫛」
「ですから!」
リゼ、なんて呼ばないで。あの頃みたいに、そんなに優しく呼ばないで。
ただでさえ育ちすぎているこの感情に、もう名前も糧も与えたくはないのに。
彼の存在一つで、そんなものはいくらでも大きくなってしまうのだから。
無意識に呼ばれるとどうしても嬉しくて、切なくて、やっぱり諦めるなんてことできないのだと思い知るから。
アルにとっては、それがまだ当たり前なのかもしれないけど、もう『アル』は特別な呼び方だと思うしかないのだ、私は。
「好きだっただろう? こうやって髪を結われるの」
「あ、アルバート様だって、お好きだったではないですか」
言い訳のようにそう言うと、『そうだったかもな』と笑い声を返された。
顔は見えないけれど、また屈託なく笑っているのかもしれない。
遠くから見るときに、決まって浮かべている薄っすらとした笑みではなく、白い歯を見せて頬を緩ませる正真正銘の笑顔。
心を許した人間にしか見せないのだと、こちらの自慢になってしまう笑い顔なのだ。
その笑顔をずっと見ていられるなら、この感情を殺してしまっても構わないとさえ思ってしまう。
だけどその笑顔を見るたびに、やはりこの胸に宿る感情を捨てることなどできはしないのだと実感させられる。
矛盾する想いが、矛盾を孕んだままこの胸にあった。
「冬は、お前を連れて執務室に篭るか」
ぽつりと呟かれた言葉に驚いて振り向いた。
結われている途中の髪の毛はぱさりと肩に落ちて、すっかりと元に戻ってしまう。
折角結ってもらっていたのに、と残念に思う余裕などなくってただ彼の目を呆然と見つめていた。
彼も、自分自身で驚いているようで、ただ目を見開いてこちらを見ている。
あなたは、何を思う? ―無意識に出た言葉の意味を教えて―
それは喜ぶべきことなのか、それとも悲しむべきことなのか。
そんなことさえ考えずに彼の瞳を見つめていた。その鳶色と形容するに相応しい瞳の奥に、真実は隠れているのだろうか。