18話 実家に帰らない彼女
王宮の外れにある離宮、もとい官舎に部屋を与えられている彼女。毎日、東屋近くの管理室と自室を行き来するだけ。実家に戻ろうとは、思わないのだろうか。
実家に帰らない彼女 ―嬉しいけど少し心配―
「実家、ですか?」
「東屋の管理人だって、申請すれば休みは取れるはずだろう? 帰らないのか?」
疑問に思ったことをそのまま言うと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
そんなこと聞かれるとは思っていなかったらしい。しばらくこちらの意図を計るように視線を彷徨わせる。
「わざわざ帰ろうとは思いません。そもそも、ちょっとそこまでというわけにも、いかない距離ですから。祖父がいれば、また違ったのかもしれませんが」
彼女の祖父殿が亡くなって、彼女のご両親は都を出た。
祖父殿が生きていらした頃から商いをしていたので、それ自体はそんなに不思議なことでも驚くことでもない。
「心配、されないのか?」
「されてはいませんね。多分。行き遅れるのを承知でここへ来てますから」
朗らかに笑って、彼女はお茶を淹れ直し始めた。
そこに悩みや負の感情は見受けられない。本当にそう思っているらしい。
……何と言うか。達観しているというか、少女らしくないというか。十六にもなれば、それは立派な年頃の少女で、そろそろ花嫁修業でも、ということになるくらいだ。
現にこの王宮にも、その『年頃』の少女達が入って花嫁修業をしていた。
もっとも、その少女達は兄ないし自分の嫁へ、という思惑を背負っているので、近づきたくもないのだが。兄もそうなのだろう、どことなく避けていた。
「行き遅れる気満々なのか」
「満々というか、仕方ないかなぁと」
柔らかい湯気を立てて出された紅茶に手をつけて、息を吐いた。
仕方ない、か。
朗らかに笑っている彼女とは反対に、こちらは真剣に悩んでしまう。この国で行き遅れというのは悪目立ちしてしまうのだ。
あまり感心もされない。むしろ、『どこかに問題があるのではないか』と思われてしまうのだ。笑いごとではない。
「実家に帰ってみるのも大切だぞ」
「ここにいないと、どこかの王子様が街へ降りて行ってしまいますから」
彼女を諭してみても、やり込めてしまう。
むっとして彼女を見れば、にっこりと笑い返された。年下の妹役に見事に口を噤まされて、思わず笑った。
自分にとって、ここは生まれた土地で死ぬまでここが故郷なのだ。
ここ以外に行くところも帰るところもない。それを別段おかしいとも、寂しいとも思っていなかった。
しかし。
「それにアルバート様のお話し相手に、休みはありませんし。身分不相応ですけど、務めさせていただいているんですから、休みたくないです」
彼女と話すようになって、彼女に会いに行くようになって、自分の普通が普通ではないと知った。
ここが寂しい場所で、自分は王族でしかない。
そんなある意味当たり前のことを、彼女に出会ってようやく学んだ。そしてその事実を忌み始めた。王族を自覚するたびに嫌だと思った。
初めて出会ったあのときから、ときどき思うことだ。
「帰らないのか」
「そんなに帰って欲しいんですか?」
「いや、帰らないのなら、そっちの方が俺も嬉しい」
ごく自然に出たそれは本音だった。
実家に帰らない彼女を心配しつつ、その帰らない事実自体は嬉しかった。一人でこの場へいるには、この東屋は寂しすぎる。
そう思って告げると、彼女は不意をつかれたらしい。口を開いてぽかんとした後、見る間に顔を赤らめた。
予想外の反応に、こっちも驚く。
「アルバート様は、ときどき心臓に悪い方です」
「どういう意味だ」
訳も分からず反応すれば、赤い顔もそのままに『そのままの意味です』と半ば怒鳴られるような形で言われた。
何で怒られるんだろうと疑問に思ったが、逆撫でしそうなので何も言わないようにする。一体何が気に障ったんだろうか。
嬉しいと伝えたかっただけなんだが。
「リゼット?」
「いえ、私が一方的に色々と考えているだけですから」
その言葉を理解するより早く、リゼットは立ち上がって小さく笑った。
もう怒ってはいないらしい。その横顔がほんの少し翳っているように見えたのは、気のせいだろうか。
その表情をよく見ようとして、彼女の腕を掴んで無意識に引き寄せた。彼女が驚いたように目を見開いて、こちらを見つめる。
それに我へ返って慌てて手を離した。
「すまん、悪かった。……手、大丈夫か?」
「痛くはありません。あの、びっくりした、だけですから」
どことなく気まずくなって、視線を逸らす。それは彼女も同じらしく、どことなく居心地が悪そうにした。
どうしたのか、今日はいつもより全てがぎこちない気がする。いつもどおりお茶を飲み、雑談をしていただけなのに、何も言えない状況になるなんて。
今までなかった状況だった。
「リゼット、悪かった。こっちを向いてくれ」
何とかもとの空気に戻そうと、彼女に声をかけた。
それに従い、彼女はゆっくりとこちらへ向き直る。その拍子にまとめ切れなかった後れ毛が揺れ、まだわずかに赤みが残る顔が見えた。
それに何故かこちらの心が揺れ、首を傾げた。何に心を揺さぶられたのか。どうして動揺したのか。その揺れは何を意味するのか。
――何も分からなかった。