17話 不機嫌になったら思い出す顔
条件反射のようなものだ。怒鳴りたくなったら、口の中で彼女の名を呟く。イライラしたら、彼女の顔を思い浮かべる。心が静まる魔法のようだと思った。
不機嫌になったら思い出す顔 ―それは他の誰でもなく彼女―
「最近、抜け出すことが増えてきているようだが?」
「サボリ癖は、今に始まったことではありませんよ。父上」
何のために呼び出されたのかと思えば、そんな用件か。
今更な指摘に苦笑いを返してしまう。授業や仕事から抜け出すのは、今に始まったことではない。
むしろ城外に出る回数は、あの東屋へ正式な管理人が来てからというもの、著しく少なくなっている。
優秀な彼女が次々と穴を塞いでいるのだ。まあ、その代わりと言うか、東屋へ行くことを目的にした抜け出しは増えているんだが。
どっちにしろ、抜け出した回数はそんなに変わっていないだろうに。……目的が変わっただけなのだから。
「お前は、王位継承権第二位の王子である自覚を持っていないのか?」
「持ってますよ、最低限ですが」
父の重たいため息が一つ。
兄とは違い、何かしらトラブルを持ち込むのは、決まって弟である自分なので、父のため息も聞き飽きている。
時間がゆっくり流れるのを感じる。あぁ、長くなるな、なんて思った。
懲りないわけではないのだが、その懲りた状態を長く維持できないのだ。だから、同じようなことをして、同じように怒られる。
「……最低限持っていてさえ、それか」
深く深く、眉間に刻まれるしわ。
若々しいと言われる顔に、わずかに浮かぶのは疲労感で、それを見ると流石に申し訳なくなる。申し訳なくなるが、止めようとは思えない。
「仕事の方はやってますし、街で問題を起こしたこともありません。剣は持っていますし」
「そこは問題ではない!」
苦々しいその言葉に少々むっとしてしまった。普段滅多に話さないのに、こういうときだけ口数が多い。
思い返せば、自分はこの偉大な父とまともに話したことがあまりない。会っても、毎度このように怒られているような気さえする。
兄もそうなんだろうかと一瞬思うが、出来のよいあの人に限って、お叱りを受けるようなことはしないだろうと考え直した。
「街娘に現を抜かしているのではないかと、もっぱらの噂だ」
「現を抜かしているなら、半刻で戻りませんよ」
苦笑いしつつ、反論する。
あの『現を抜かす』というには、穏やか過ぎるお茶会を思い出したからだ。彼女は遅くとも半刻すれば、こちらを追い出してしまう。
それは俺が説教を受けないための気遣いだ。妹役に心配されるというのは少し情けない気もするが、その気遣いが妙に嬉しいのも事実だった。
「ともかく、街へ降りるような真似は二度とするな。分かったな、アルバート」
「街へ、ですか。まぁ、努力はします」
今気付いた。
自分は父に愛称である『アル』と呼ばれたこともなかった。母が友が、そして幼い頃の彼女がごくごく自然に呼んでいたその名を、この人は未だ呼んだこともない。
不自然なことなのに、とても自然で今まで気づくこともなかった。苦笑を通り越して、もはや嘲笑に近い笑いが漏れた。
自分たちは赤の他人より遠い親子なのだ。
「アルバート!!」
「残念ながら、私は兄と違って従順でもなければ、出来もよくない。王族として生きる気も、正直あまりないです」
苛立ちを感じるのは、それでも自分が王族であると知っているからだ。
父や兄のように、高尚な思いを抱いていないのに、自分は第二王位継承者で、いくら足掻いてもそれが変わることはない。
何を学んでもピンとこず、この国や民のことを本当の意味で理解できないにも拘らず、だ。
「しかし、王族でいる限り、最低限の責務は果たすつもりではいます。――お話が以上ならば、私は帰らせていただきます」
乱暴な口調であるのは自覚していた。しかし、口調を抑えることなく部屋を出た。ちょっとした反抗だった。
ばたんと大きな音を立てて扉は閉まり、扉の両側へいた兵士が一瞬目を見開く。そのまま足早にその場を去って、王宮の廊下を歩く。
いつの間にか人目の少ない道を歩いていて、その足は確実にあの東屋へ向かっていた。
「リゼット……リゼ」
この苛立ちを何とか抑えたくて、彼女の名を呼んだ。
浮かぶのは、はにかむような笑顔で思わず立ち止まる。へなへなと座り込みそうになりながら、壁に額を押し付ける。
「何してるんだ、俺は。あんなもの、聞き流せばいいだろう」
別に街へ出るなと言う話であれば、ある程度の従順さは保てたはずだ。
なのに真正面から反抗して、父を怒らせた。
理由は分かっている。今の自分の状態を『現を抜かしている』と表現されたからだ。
情けないことに、たったそれだけで苛立ちが募った。彼女との茶会を、そんな風に見られることが悔しかった。
「王族失格だな。それでもいいが」
彼女の声と顔を思い出して苦笑いする。
それからノロノロと体を引き上げて、心の中の苛立ちを押し殺した。リゼットに会うのに、そんな感情は必要ない。
それからやっと歩き出すことができるようになった。
向かうのは東屋で、会いたいのは彼女。彼女にさえ会えば、この苛立ちも忘れられる気がした。